これまでの記事
【日本国憲法日本製編(鈴木義男の章)①】~鈴木義男という人物について~
【日本国憲法日本製編(鈴木義男の章)②】~鈴木義男の新憲法制定への関与について~
【日本国憲法日本製編(鈴木義男の章)③】~憲法改正における鈴木義男の功績について~
【日本国憲法日本製編(鈴木義男の章)④】~日本国憲法“日本製”論を否定する~
【鈴木安蔵・憲法研究会の章】のはじめに
はじめに言っておきます。
今回のシリーズ記事『“保守の憲法論”最終結論』の最後に位置する【最終結論編】まではまだ先が長いので、重要な論点を所々で入れ込んでいきます。
「憲法論」における改憲護憲論争においては、「理論上の判断」と「現状分析からくる判断」の2つの観点があり、日本国における憲法に関する認識には“歪み”が発生しているということを理解する必要があります。これを認識しない憲法論(改憲護憲論争)は意味を成さないものです。
「理論上の判断」と「現状分析からくる判断」を区別して考えなければならないということです。
理論上の問題というのは新憲法誕生及び制定手続きに関する“正しい法規定(法秩序)”に関することと“原則的”な憲法に対する認識から見て考える「原則論」であり、現実問題とは2026年現在の時点という現状認識から憲法問題を考える「現実論」です。
私の以前の記事(憲法論に関する記事)は、主に「原則論」あるいは「理論上の問題」としての見解からくるものなのです(結論部分は現実論)。ですが、国家存亡の危機にあたって、理論上の問題だけでは埒が明かないため、現実論としての憲法論を含んだ憲法論を書こうとしているということです。
ですから、このシリーズ記事『“保守の憲法論”最終結論』は、単純な改憲論ではなく、単純な護憲論でもなく、理論上の判断の上に現実的な判断を上乗せした憲法論であり、さらにはGHQが日本国民に飲ませた毒水への解毒剤を処方するものでもあるのです。
間違った理論の上に現実的な自衛の思想は生まれてきません。
具体的に言うならば、日本国憲法制定の真実を知る(日本国憲法の真の制定者を理解する)ことを土台にして、なおかつ憲法の内容の判断および現状の政治状況を加えて、護憲か改憲かの結論を出すものです。
「日本国憲法は日本人が作った。だからこの憲法を護ることは私たちの義務だ」などと主張する人の主な根拠が今回取り上げる憲法研究会であり、その中心的人物である鈴木安蔵であることは間違いないでしょう。
上記の主張には、「判断の歪み」があります。
それは「制定者が日本人ならば護憲」というものであり、制定者と憲法の内容を切り離して考えていないことです。その主張(理論)に基づけば、日本人が作った憲法ならどのような内容の憲法でも護憲としなければならないとなり、もし高市早苗氏率いる自民党の改憲草案が成立してしまったならば、高市早苗氏という日本人(父親は朝鮮人であるという情報がある=真偽は不明といまの段階では言っておく)が改憲した憲法だから、日本国民は文句も言わず、“高市憲法を護れ”となってしまうことに気づくべきでしょう。
彼らの論理とはそういう論理なのです。
憲法論で重要なことは、真の制定者を理解し、憲法条文の内容を判断し、さらには主権者たる国民の総意を理解した上で、護憲か改憲かの結論を出すべきだということです。
日本国憲法は特殊な憲法です。他国には見られない特徴があり、その特徴を抽象的な言い方をすると「あまりにも理想的な憲法」となります。
さらに重要なことは、日本国憲法は単純に制定されたのではなく、制定の裏側にある意図が含まれていることです。
そこまで見抜かなければ正しい憲法論は出てきません。
「憲法研究会の草案が日本国憲法になった」「日本国憲法は憲法研究会が作った(日本人の草案)」と主張する方々がいるので、憲法研究会で唯一の憲法学者であり、実質的に憲法研究会の起草者(草案作成者)である鈴木安蔵について理解することが必須であると考えられる。
「日本国憲法は日本人が作った」と主張する方々はこぞって『鈴木安蔵・憲法研究会の章』を読むといいでしょう。先に言いますが、自らの考え(判断)が間違っていることを突き付けられるでしょう。
なお、『鈴木安蔵・憲法研究会の章』は、前半で鈴木安蔵を取り上げ、後半で憲法研究会を取り上げます。
★参考書籍は、『日本国憲法と鈴木安蔵』、『日本国憲法の誕生』です。
鈴木安蔵という人物について
《鈴木安蔵の経歴》
鈴木安蔵(やすぞう)は、1904年3月3日、福島県小高町で誕生する。安蔵が生まれた家は相馬藩の苗字帯刀を許された大御用商人であったが、祖父が事業に失敗し、安蔵が物心つく頃にはささやかなる雑貨を商う状況であった。
父親の鈴木良雄は27歳で急死している。
特筆すべきは両親が共にプロテスタントのクリスチャンだったこと。
安蔵はというと、洗礼は受けていないが6歳のころから小高教会に毎週火曜などして杉山元治郎牧師の教えを受けている。
相馬中学校時代は「相馬中学校はじまって以来の秀才」と呼ばれるほどの頭脳明晰であった。
安蔵は、中学校時代に野球や剣道をする一方で、母を喜ばせるため学識を備えた政治家になるという夢を抱いて弁論部に入った。やがて指導的立場となり、校内から暴力を追放するための『同盟休校』の指導者となる。
★補足説明:『同盟休校』とは、学生や生徒が学校側の処分撤回、教員の排除、教育内容の改善、校則改訂、授業改善などを掲げ、団結して一斉に授業をボイコット(登校拒否)する行為のことで、学生によるストライキと呼ばれるもの。
書籍『日本国憲法と鈴木安蔵』より引用
当時の相馬中学校では、礼儀・風紀が保たれるという理由で、上級生の下級生に対する暴力制裁(リンチ)が黙認されていた。下級生は上級生に絶対服従であり、上級生に挨拶しない者、女性関係のうわさのある者、服装の乱れている者など、上級生の目にとまった下級生は、呼び出され、リンチを受けた。
書籍『日本国憲法と鈴木安蔵』では次のようなエピソードが記されている。
1920年2月、雪の降る日に三年生乙組の組長が高下駄の歯に詰まった雪を落すために竹の棒を持って歩いているところを上級生に見つかり、「下級生がステッキを振り回すとはけしからぬ」という理由で、他の同級生三人と共に呼び出され、上級生からリンチを受けた。
このことに怒った三年生たちは校内から暴力排除を求める抗議書を校長に突き付け、三日間の『同盟休校』を決行した。
学校側は、三年生たちの主張を全面的に認め、上級生の暴力を黙認していた態度を改め、当該リンチの首謀者を処分した。それ以後、校内からリンチは姿を消す。
著者の金子氏は、このことを「安蔵のキリスト教的ヒューマニズム」と評している。
〈鈴木義男と鈴木安蔵の共通点〉
安蔵は、相馬中学校(五年制)を四年で修了し、仙台にある「第二高等学校(文科甲類)」に入学する。
実は鈴木安蔵と鈴木義男には共通点がある。
苗字が同じ「鈴木」、だけではない。
共に福島県出身であり、共に仙台の第二高等学校に進んだことであり、クリスチャンとしての環境にあり、憲法学を修めた点にあり、日本国憲法制定(改正)に関係したことである。鈴木義男の方が先輩にあたる。
この「二人の鈴木」は、『鈴木義男の章』で語ったように鈴木安蔵が治安維持法違反で捕まった際に義男が弁護士を務めるという関係で運命の糸が絡まっていく。
安蔵は第二高等学校でも弁論部に所属した。
語学にも堪能で、英語、ドイツ語を学び、ゲーテ、カント、ヘーゲルなどの原書をドイツ語で呼んでいたという。安蔵がひかれたのは新カント主義哲学や西田幾太郎の西田哲学など。
安蔵は、いたるところで学生に論争をふっかけるところから「新カント主義哲学の鈴木」と呼ばれていた。
なお、ディープステート研究者の間では「新カント主義」とは、ディープステートの思想と判断されている。
安蔵を判断する上で欠かすことのできない情報がある。
書籍『日本国憲法と鈴木安蔵』より引用
貧困・飢餓・失業・売淫などの社会の矛盾を除去するため、真剣に自己と社会との進路を求めるという意図をもって「第二高等学校社会思想研究会」を組織された鈴木先生たちは、日本共産党(1922年7月15日結成)の指導のもとに、①マルクス主義の研究と普及、②無産者教育への貢献を目的として、1922年11月7日に結成された「学生連合会」(マルクス主義に傾倒する全国の大学・専門学校・高等学校の研究団体が加盟)の指導を受け、米ケ袋に一軒家を借りて「無名寮」と名付け、そこを本部として、研究会活動を始められた。
ズバリ言う。
鈴木安蔵は、「マルクス主義(共産主義)者」である。
ただ、鈴木義男とも共通しているが、それに加えてキリスト教的精神の影響を受けていると言える。
私のディープステート研究の記事を読んだ方ならば、共産主義という思想がどのようなものなのかを理解できるでしょう。
鈴木安蔵を理解する上で彼が「マルクス主義者」であったことは決して見逃せない点である。
「日本国憲法は日本人が作った」とする主張は、「日本国憲法の土台または基礎が憲法研究会草案である」というものであり、その憲法研究会草案の実質的な起草者が鈴木安蔵であり、その意味は、「日本国憲法とはマルクス主義者の草案によるもの」となる。
この後半の情報を出す人は私の知る限りでは皆無である。
もし「日本国憲法は日本人が作った」=「日本国憲法の土台(基礎)が憲法研究会草案である」と主張するならば、当然の帰結として「日本国憲法とはマルクス主義者の草案によるもの」と言わざるを得ない。
この部分を主張しないのはなぜか?
書籍『日本国憲法と鈴木安蔵』では、鈴木安蔵について以下のように語っている。
書籍『日本国憲法と鈴木安蔵』より引用
「キリスト教的ヒューマニズム・正義感を獲得されていた鈴木先生にとっては、社会の矛盾を知った以上は、それに目をつむることはできなかったであろうと考えられます。
著者の金子勝氏は、「人間が醜くなるのも、弱い人間のどうともできない境遇の力に押し動かされるからではないかと考えるようになった」と述べている。
しかし、第二高等学校時代の出来事で、岡野校長に呼び出され、「あまりにも人生、社会を暗く見過ぎている」と諭しを受けられたとしている。
鈴木安蔵の思想に迫る
《鈴木安蔵の思想に迫る》
〈鈴木安蔵の思想・信条とは?〉
鈴木安蔵の思想・信条とはなにか?
新カント派主義哲学、キリスト教的ヒューマニズム、マルクス主義があげられる。
だが、ここで大きな矛盾を指摘する。
新カント派主義哲学とキリスト教的ヒューマニズムは鈴木義男と共通するが鈴木義男と違う点が「マルクス主義」である。
鈴木義男は社会主義(正確には民主社会主義)の思想を持ちながらキリスト教的精神を持っていたが、マルクス主義者とはならなかった。社会党が右派と左派に分かれた際にも左派=マルクス主義者側にならず、右派=民主社会主義の立場を貫いた。
正直に言おう。
マルクス主義と呼ばれる共産主義の特徴は「階級闘争」「暴力革命」「唯物論=神仏の否定」であることは多くの人が知るところである。
だが、問題はキリスト教の精神とマルクス主義(共産主義)とは相容れない関係にあること。
水と油のように決して交わることがない思想(信条または信仰)であること。
これが融合されている思想があることはある。それが何かといえば「イルミナティ思想」なのだ。(ここで言うところのイルミナティ思想とは、キリスト教を隠れ蓑にした共産主義という意味であり、イエス・キリストへの深い信仰があるということではない)
鈴木安蔵が秘密結社の人間であるかどうかの議論はここでしないが、本来混じり合わない思想(信条または信仰)が同一人間のなかで融合することの矛盾を大いに感じている。
問題は、キリスト教的精神を持つ人物がマルクス主義に染まるか、ということ。
真にキリスト教的精神を体現していたならば、あり得ないことだ。なぜならばマルクス主義(共産主義)とは唯物論であり、宗教を毛嫌いするからだ。
ディープステート研究者から見ると鈴木義男も鈴木安蔵も彼らの思想によって汚染されていると“見える”。あるいは彼らの仲間であった可能性も完全には捨てきれない。
憲法論から外れるので、これ以上は言わない。
この謎を私はこう読み解く。
鈴木安蔵は、キリスト教の影響を受けたが洗礼を受けていない(=信仰者とはならなかった)というレベルであり、その思想の核はマルクス主義であると読み解く。
キリスト教的ヒューマニズムに見える部分は、鈴木安蔵という人間がもともと持っている「正義感」という性質からくるものであり、思想的にはマルクス主義および新カント派主義哲学を軸にしていると考えることができる。鈴木安蔵の思想を紐解くにあたっては大学時代に顕著に表れている。
第二高等学校を卒業した鈴木安蔵は、日本哲学研究のメッカと言われている京都帝国大学文学部哲学科に入学する(1924年4月)。
京都帝国大学に入学した安蔵は、「学生連合会」に加盟し、「京都大学社会科学研究会(京大社研)」に入会する。
京大社研とは、1924年3月に発足した社会科学の研究と普及を目的とする学生たちの思想研究団体。学内では、マルクス主義についての研究会や講演会・研究発表会・座談会などの活動を行っている組織。
つまり、鈴木安蔵とはバリバリのマルクス主義者だということ。
日本国憲法制定と鈴木安蔵の関係性において、安蔵の思想的背景を読み解かずしては何も語れない。
著者の金子氏によれば、大学で本格的にマルクス主義と接触した当初、新カント派主義哲学との矛盾に悩まされたという。
しかし、キリスト教的ヒューマニズムとマルクス主義の矛盾には悩まされなかったのだろうか。だとすれば、私の推測は当たっていると思われる。
★補足説明:『新カント派主義哲学』とは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、事実(実在)と価値(当為)を明確に分かつ二元論的立場から、真・善・美などの客観的、普遍的な価値を認識の根拠や行動の基準とする理論とされている。
★補足説明:『マルクス主義』とは、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって創造された弁証法的唯物論とそれを人間社会に適用した史的唯物論に基づく「ものの見方・考え方」と書籍の中では紹介されている。
〈マルクス主義について〉
「マルクス主義」について著書では以下のように記している。
①歴史を作る主人公は、どこの国でも、一人の英雄ではなくして、民衆である。
②民衆が幸福になることが人類の理想である。
この考えに基づけば政治の中心は民衆(人々)であり、その政治形態は民主主義を取るということになる。だが、現実のマルクス主義(別名共産主義)とは、以前のソ連、現代の中国と北朝鮮を見ればよく分かるように、民衆のための政治は行われず、逆に民衆は虐げられ管理され自由を奪われた存在として生きていく社会となっている。なぜかというと法秩序の上位にマルクス主義(共産主義)が君臨し、その体現者が独裁体制を敷くからに他ならない。
結局、現実社会を見ればマルクス主義とは独裁主義に他ならず、その主張する虐げられた民衆を幸福にするのではなく、逆に一部の特権階級が民衆を支配する政治形態となっている。
つまり、理想とするところの民衆を主役とし、民衆の幸福を目指す社会とは真逆の独裁体制または全体主義体制の社会であるということ。
なぜそうなるのかという答えは、私の(他の)記事をお読みの方なら理解できるだろう。
鈴木安蔵と日本国憲法の関係性を紐解くにあたって安蔵がマルクス主義者だということは決して見落としてはいけない論点であることを指摘しておく。
〈安蔵の思想的葛藤〉
マルクス主義と新カント派主義哲学との矛盾に悩まされた安蔵が行きついた心境とは。
書籍『日本国憲法と鈴木安蔵』より引用
新カント派主義哲学とマルクス主義の矛盾に悩まされたが、やがて、現代社会の汚辱を一掃しようとするかに見えるマルクス主義こそ、貧困・飢餓・売淫などの社会の矛盾を除去したいと考えるわが魂の救いではないかと考えられるようになり、マルクス主義の研究に本格的に取り組もうと決意された。
ここに安蔵が脱皮する姿を見ることが出来る。
脱ぎ捨てた皮とはキリスト教精神であり、新カント派主義哲学であると考えられ、思想の軸がマルクス主義となったことで思想的迷いを払拭したと思われる。
鈴木安蔵と治安維持法
《鈴木安蔵と治安維持法》
鈴木安蔵は治安維持法の適用(違反)を受けることとなる。
書籍『日本国憲法と鈴木安蔵』より引用
「治安維持法」によって、天皇制と天皇制国家及び天皇制国家の政治、並びに資本主義・地主制度に批判的な全ての思想と運動が弾圧された。
〈治安維持法とは?〉
「治安維持法」とは、1925年3月19日に制定され、同年4月22日公布、5月12日に施行された法律で以下の点を取り締まることを目的としていた。
①国体(天皇制・天皇制国家)を変革すること
②私有財産制度を否認することを目的として
③結社を組織した者、それに加入した者を処罰する。
「治安維持法」は、1928年6月29日に改正公布された。
①国体(天皇制・天皇制国家)を変革することを目的として(a)結社組織した者、(b)結社の指導者の任務に従属した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役若しくは禁錮。(c)情を知りて結社に加入した者や結社の目的を遂行する行為を行った者は、2年以上の有期の懲役又は禁錮。
②私有財産制度を否認することを目的として、(a)結社組織した者、(b)結社に加入した者、(c)結社の目的を遂行する行為を行った者は、10年以上の有期の懲役又は禁錮。
と改正される。
さらに改正は続く。
①1941年3月10日改正公布では、国体(天皇制・天皇制国家)を否定し又は神宮若しくは皇室の尊厳を冒瀆する事項を流布することを目的として、(a)結社組織した者、(b)結社の指導者の任務に従属した者は、無期又は4年以上の懲役に処す、(c)情を知りて結社に加入した者や結社の目的を遂行する行為を行った者は、1年以上の有期懲役に処す。
となり、新たに「予防拘禁」が新設された。
〈予防拘禁とは何か?〉
「予防拘禁」とは、治安維持法違反者の再犯(思想行動)を事前に防ぐことを目的とし、刑期を満了した非転向の思想犯を対象とするもの。
つまり、刑期後も再犯の危険性があると判断された思想犯や政治犯を法的な手続きを経て引き続き収容・拘禁する制度のこと。
主に、共産主義者などの政治犯に対する思想弾圧・隔離手段として機能したが、敗戦を契機としてGHQの命令によって廃止された。
要するに天皇に対する不敬、天皇制を否定、天皇制国家を変革(転覆)する恐れを防ぐことを目的とする法律だが、事実上の「自由と人権の弾圧」に他ならなかった。
〈近代刑法理論の大原則〉
ここで問題となることは、鈴木義男の言葉である。
「いかなる思想も法律で裁くことはできない」
これは近代刑法理論の大原則であり、「法律が裁くことができるのは行為であり、行為として実行されていない思想はいかなるものであっても裁けない(処罰することはできない)」というもの。
戦前の社会は自由の中でも最も重要である「内心の自由(思想の自由)」に対して弾圧を加え、特定の思想を持つ人たちを犯罪者として処罰していた。「内心の自由」が保障されていなかったということは宗教に対して不寛容であったということ。それが戦前の日本社会なのです。
この場合の、特定の思想を持つ人とは、天皇崇拝、天皇中心主義の否定につながる思想であり天皇制国家の変革をもたらす思想を対象としていた。だからキリスト教も弾圧の対象とされた。
これを現代の日本国憲法に当てはめると人権蹂躙、自由の制限(弾圧)、国民の思想制限となる。
つまり、戦前の日本社会とは自由や人権が極めて抑制された社会であったということであり、国家権力が国民を従わせる強制力を持っていたということに他ならない。
当時の警察が行っていた「殴る蹴る、指の間に鉛筆を挟んで置いて固く握る、鞭で叩く、変なつるし方をする」といった物理的拷問などは明らかに刑事事件(刑事罪)であり、「偽装温情」「詐言」などの心理的拷問も人権蹂躙または詐欺的行為であり、これも極めて犯罪に近いもの。
国家権力が強大化し、国民の自由や人権が制限される社会とは、こうした事態が発生する社会だということです。
自民党の憲法改正草案は、実は戦前社会へ回帰する草案であり、国家権力が強大な力を持ち、その反面国民の自由と人権は奪われ、生命は軽んじられる憲法秩序なのです。
これをあなたは許しますか?
「治安維持法」とは、結局、“天皇制”崇拝者たちの行き過ぎた悪法であり、本来の思想・宗教に寛容な日本文化とはまったく別次元の価値観である。もともと日本社会は天皇が国家の中心に君臨しながら仏教、儒教、道教などを受け入れる度量の広い文化を形成していた。
だが、明治維新後、天皇という存在が最高権力者となり、その権威を利用した軍人がのさばっていたことは間違いないだろう。
〈禁錮10か月〉
鈴木安蔵は、1926年1月18日に逮捕され、禁固10か月(地方裁判所)を受け、大阪控訴院では禁錮2年の判決を受け、大審院に上告するが棄却され、最終的に有罪判決(禁固2年)が確定する。(学連事件)
鈴木安蔵は、治安維持法違違反で初めて有罪判決を受けた人物として知られている。
しかしこの獄中生活こそが安蔵を安蔵たらしめることとなる。獄中で安蔵は、憲法学、政治学等を研究し、それが憲法研究会の草案へとつながっていくこととなる。
ちなみに大学は自主退学している。
鈴木安蔵と新憲法制定
《占領政策批判》
書籍『日本国憲法の誕生』より引用
鈴木はさらに政府の「憲法改正草案要綱」が公表された直後に、「民主主義は、最小限の要求として、少なくとも政治制度としての天皇制は廃止されるべきことを必要とする」と述べつつ…。
つまり、鈴木安蔵は「天皇制廃止論者」だったということ。ただ、敗戦後すぐのタイミングでの憲法改正(草案)ではそこまで踏み込んでいない。
憲法制定(明治憲法改正)については以下の見解を著書『憲法学30年』のなかで語っている。
書籍『日本国憲法の誕生』より引用
占領軍の高等政策は、日本人民大衆の下からの自主的な憲法運動が形成され実を結ぶ前に早くも「先制攻撃」を開始し、みずからの政治的意図の実現に完全に成功するというあざやかな処理によって、憲法問題は、上から、解決されることとなったためである。
これは抽象的な言い回しをしているが、憲法制定(憲法改正)におけるGHQ及び日本政府への批判と見るべきだろう。つまり、敗戦によって憲法改正の機運が民衆(国民)から湧き上がって来て、それが実を結ぶ(=民衆の考えた草案が制定される)ことを阻止するために先手を打ってGHQが草案を作成し、日本政府によって修正され、憲法制定するという流れ自体が占領政策だ、と指摘しているということ。
《マルクス主義憲法学》
書籍『日本国憲法と鈴木安蔵』より引用
「鈴木憲法学」の成立は、日本の憲法学と天皇制国家権力にとって、一大衝撃事件となった。「鈴木憲法学」の成立の意義は、第一に、日本における「マルクス主義憲法学」の分野が開拓されたことである。
〈天皇制廃止論者?〉
日本国憲法は、「憲法研究会が作った草案が土台だ」という主張をしている人たちに聞きたい。
あなたは鈴木安蔵の憲法学が「マルクス主義憲法学」であり、安蔵が「天皇制廃止」を唱えていたことをどう思うのか? と。
おそらくと前置きするが、鈴木安蔵は戦前の日本社会において「天皇制・軍部ファシズム」が形成され台頭してきた世の中にあって、マルクス主義が個人を尊重し、全体主義的な政治体制に抗う思想だと判断したのだと思うが、実はマルクス主義の行きつく先こそが全体主義・独裁主義であることを当時の鈴木安蔵は見抜けなかったと言える。
マルクス主義とは、結局、既存権力の入れ替えのための革命思想でしかなく、決して弱い立場の民衆に力を与えるものではない。ただ、権力の座にいない一般人としてのマルクス主義(共産主義者)の多くは弱い立場にいる人の味方になろうと考えていると見えることは付け加えておく。
〈ファシズムと治安維持法〉
重要なことは、「ファシズム」と「治安維持法」とは密接に結び付いていること。
当時の日本社会にとってのファシズムとは、国体(天皇制国家)を変革する思想と運動を弾圧することを重視していた。そのための法的な武器が「治安維持法」であった。
重要なことを指摘する。
現代にもこの動きが加速されている。
憲法秩序を蔑ろにし、説明責任を一切果たさず、統一教会と合致する政策を強引に推し進める高市政権は国民にとって天敵とも言える存在であり、現代の治安維持法は名を変えて出現しようとしていることだ。その名を「スパイ防止法」という。
これに自民党の憲法改正案にある「国会機能維持条項=緊急事態条項」という憲法改正がなされると、ほぼ戦前の世の中に近づく。唯一違うのは天皇に実質的な権力が無いこと。それが逆に戦前よりも権力の暴走に拍車をかける恐れがある。天皇に実権がないということは、独裁内閣を抑える力が存在しないということを意味する。
大東亜戦争がなぜ終結したのかと言えば、結果的に言えば、天皇が軍の統帥権を持っていて、天皇が軍部や政府を抑えることが出来たからと言える。だが、現代日本において増強された国家権力を誰が止められるのか?
もはや天敵のいない巨人の出現というしかない。
《憲法改正について》
書籍『日本国憲法と鈴木安蔵』より引用
幣原喜重郎内閣(1945年10月9日成立)は、1945年10月11日の幣原内閣総理大臣とマッカーサー最高司令官との会談において、マッカーサー最高司令官から示された「憲法の自由主義化」改革の示唆を受けて、1945年10月25日に、「憲法問題調査会」(委員会・松本丞治国務大臣)を設置し、改憲問題に着手した。
〈鈴木安蔵のポツダム宣言と天皇制の考えとは?〉
日本国憲法の制定、実質的には明治憲法の改正については、その根源は「ポツダム宣言」にあります。では鈴木安蔵のポツダム宣言や天皇制についての考えとはいかなるものか。
書籍『日本国憲法と鈴木安蔵』より引用
鈴木先生は、「ポツダム宣言」を、天皇制とそれを正当化する大日本帝国憲法体制から国民が解放される歴史的文書であり、日本国民にとって「人権宣言」に匹敵するものと考えられた。
安蔵のこの考えは半分正しく、もう半分は左翼的思考による偏見が入っていると言える。
この視点は明らかにマルクス主義的視点からの来るもの。
確かにポツダム宣言は当時の支配者層を排除し、日本国憲法は天皇制を改革するものであり、両者は国民にとっての「人権宣言」(人権を獲得した革命)ということが出来る。
ただ、鈴木安蔵が左翼(共産主義者・マルクス主義者)にありがちな「天皇制否定」「大東亜戦争は侵略」「日本国は悪いことをした」という思考を抱いていることは間違いない。
こうした左翼思想を安蔵が持っていたことを抜きにして「日本国憲法は憲法研究会草案が基になっている」という主張は不毛である。
〈革命思想の共鳴〉
鈴木義男もそうだが、もう一人の鈴木である安蔵も戦前の国家体制を否定する政治思想を持っているがゆえに、敗戦を悔しがらず、天皇制を否定した民主主義国家への変貌に期待し、民主主義憲法を望んでいた。(鈴木義男の場合は天皇制を完全否定していない)
つまり、安蔵にとっての民主主義国家への変貌とは天皇制国家の終焉と同じ意味を持つ。
実は、これがGHQの占領政策の大きな目的であり、それが鈴木安蔵たちの革命思想と合致していたということ。
要するに、GHQによる占領政策とは日本国家改造という占領軍による強制的革命であり、鈴木安蔵たちマルクス主義の持つ革命思想とが共鳴していたということ。
この背景を知らずには憲法研究会草案の意味を見失うことになる。
〈GHQによる強制的革命〉
GHQは民間組織である憲法研究会草案を評価し、GHQ民生局による草案作成の際に影響を受けたと言われている理由が実は「天皇制」に関係している。
GHQによる占領政策の要は、「日本国(日本人)が二度と白人国家に逆らわない国に変貌させること」であった。GHQ(というよりも米国)は日本の政治、文化や風習などを調査して分析している。
日本軍が白人国家と戦争をし勝利する強さがどこからくるのかということの分析に「天皇制国家」であると判断していた。そのため占領政策として天皇制国家の破壊を行った。実は日本国の民主主義化とは天皇制国家を破壊するための武器として使われたものであり、もう一方では国民の自由と人権を拡大させ、なおかつ保障する社会にすることが含まれていた。
前者は悪意、後者は善意である。
ですからGHQがやったことはすべて悪と見る見方も、逆にGHQがやったことはすべて善と見る見方も、どちらも極端な思考であり、正しいものの見方ではない。
国家が民主主義制度(国民に主権がある国家)を取るということは天皇制国家における天皇の“位置付けが変わる”ということを意味する。逆に天皇に国家の権限が集中するということは、一部国民の自由や人権を保障しているといってもそれはある程度の範囲で制限されているものでしかない。
明治以降の日本は、イギリスのように王が「君臨すれども統治せず」であって実質的な権力を持たないという制度ではなく、天皇は軍の最高司令官であり、憲法改正の権限を有し、権力の最高位にあった。この国家体制を覆すのが米国式の民主主義制度の導入なのです。
ですから、GHQの行った憲法の民主主義化(国家の民主主義化)とは、天皇制国家の破壊に他ならなかった。日本社会を民主主義国家=国民主権にするということは、同時に天皇制国家の破壊を意味していた。この2つはコインの裏表なのです。
そして重要な論点は、この思想(思考)は左翼的革命思想と共鳴していること。
つまり、GHQが天皇が最高権力者であることを廃止し、民主主義国家に変貌させる占領政策を行ったが、それと同じ考えを持っていたのが日本人の左翼であったということ。
彼らはその点で同じ穴の狢だったということ。
だからこそ、GHQが評価する憲法草案を憲法研究会が起草することができたということ。
これは裏付けがある、当時の保守勢力の者たちは明治憲法を少しだけ変更した憲法改正案しか考えることが出来ず、米国式の民主主義憲法など考えていなかった。だからGHQによって評価されなかった。
そこで政府筋に新しい憲法起草を示唆してもGHQが満足いく憲法草案はできないと判断し、2月初旬に民生局が独自に憲法草案を起草することとなった。
もし、幣原内閣に示唆した新しい憲法草案がポツダム宣言が要求する民主主義的憲法であったならば、GHQ草案は起草されなかったと予想される。
結局、GHQ草案(マッカーサー草案)を土台にした日本国憲法とは当時の保守層には受け入れがたいものであり、可能ならば拒否したいものであったが、左翼および国民にとっては歓喜する内容の憲法であったということ。
結果的に日本国憲法が制定(明治憲法改正)されたことによって国民は戦前と比べて拡大した自由と人権保障を享受することとなった。
つまり、国民にとっては喜ばしいことであったということ。
こうした問題に対して、完全否定(全否定)も完全肯定(全肯定)もどちらも間違いであると言っておく。
憲法研究会について
《憲法研究会とは?》
「憲法研究会」とは、高野岩三郎の提起によって、高野を会長とし、文芸評論家の杉森孝次郎、日本社会党の衆議院議員となる森戸辰男、政治評論家の室伏高信、政治評論家の岩淵辰雄、そして幹事役の鈴木安蔵を以て、1945年11月5日に発足した民間の憲法制定研究団体であり、民間で最初に憲法草案を公表した組織。
憲法研究会は作成した草案をGHQと日本政府(幣原内閣)および新聞記者に提出(公表)している。
だが、当然ながら日本政府はそれを無視したが、逆にGHQは評価し参考とした。
憲法研究会草案の特徴とは、「国民主権」と「基本的人権」を創設したこと、政治的機能を制限させた天皇を残す内容としたことがあげられる。
第一案「新憲法制定の根本的要綱」、第二案「憲法改正要綱」、第三案として第二案に修正を加えた「憲法改正要綱」を作成した。第三案では「抵抗権」が加えられた。最終的に「憲法草案要綱―憲法研究会案」を正式な憲法草案とした。最終案では「抵抗権」が削除され、「国民は労働の義務を有す」を追加した。
1945年12月28日、各紙は一斉に憲法研究会の草案を全文報道した。
忘れてはならないことは、憲法草案を起草する際に、諸国の憲法を参照(参考に)していること。これは当時の草案作成者に共通にすることであり、まっさらな状態から憲法草案を書き上げた者はいない。
だが、研究会とは別に高野は個別に憲法草案を考えている。
その内容は、天皇制を廃止して、大統領を元首とする共和制の憲法草案であった(日本共和国憲法私案)。その理由は、日本を共和制にしておかなければ、いつ第二の楠木正成が出現し、天皇制に戻すかもしれないからというもの。
ここに高野の天皇制に対する強い嫌悪感が見て取れる。
【国憲法日本製編(鈴木安蔵・憲法研究会の章)⑥】につづく
参考書籍
書籍名:『日本国憲法と鈴木安蔵』
著者名:金子勝
出版社:八朔社
書籍名:『日本国憲法の誕生』
著者名:古関彰一
出版社:岩波書店
最後までお読みいただき、ありがとうござりんした!

