【悲劇はまた起こった】
昨年の7月、岐阜県の中学3年の男子生徒がマンションから転落死した。
これは同級生によるイジメを苦にしての自殺である。
とても悲しいことでありんす!
男子生徒は中学1年のころからクラスや部活、クラブ活動の場でイジメを受けていた。
そのイジメは昨年5月から激しさを増し、自殺の前日には校内のトイレで和式便器の前で土下座を強要させられたという。
頭が便器に突っ込むような姿勢になり、教室で「トイレに頭を突っ込んだ」と言いふらされ「もう一回トイレに行く?」と脅されたのだ。
このイジメに関しては第三者委員会が調査を行っており、認定したイジメは「殴る、蹴る、首を絞める」「現金を要求する」「給食で好きな物を取り上げたり、嫌いな者を押し付けたりする」など34件にのぼるという。
アチキは悲しくてしかたがありません。
【未成年によるイジメという犯罪】
世間の人たちにはっきり言っておく、特に未成年の人たちに。
「イジメは犯罪」である。
アチキは思う。
イジメという言葉を世の中から撤廃しなければいけません。
言葉というものは概念であるが、言葉があることによってその実態が規定されてしまう。
「イジメ」という言葉のニュアンスにある間違いを指摘する。
それは、「犯罪と呼ぶほどのものでもない」「犯罪ではないが悪質な行為である」「悪い行為だが責任を追及することが困難だ」
という意識がそこに眠っていると思うのだ。
みなさんいかがでしょうか?
そこには「子供のイジメだからしょうがない」という大人の怠慢が存在する。
はっきり言おう。
「殴る、蹴る」=暴行罪
「首を絞める」=殺人未遂または傷害罪
「現金を要求する」=恐喝罪および窃盗罪
「給食で好きな物を取り上げたり、嫌いな者を押し付けたりする」=強要罪
その他に「罵り、馬鹿にすること」は名誉毀損罪
イジメという言葉を使うことで子供たちは結局「他愛無い子供どうしの悪戯だ」「未成年だから許される」と認識してしまう深層心理があるはずだ。
イジメという言葉の比重には、「犯罪」という意味よりも「イタズラ」という意味のほうに比重が傾いている。
イジメをこの世から無くし、イジメによって苦しむ若者を救い、イジメによる自殺者を無くし、家族を突然奪われる遺族の深い悲しみを無くすためには世間の人たちの認識を変えていく必要がある。
イジメという言葉で済ましてはいけない。
イジメという表現では済まされない。
イジメではなく「個々の犯罪」として捉えない限り永遠に弱い者に対する悪行は続いて行く。
今回のような若者の自殺を無くすためには世間の人たちの認識を改める必要があるのだ。
【なぜイジメは無くならないのか?】
ここで便宜上「イジメ」という言葉を使うが、イジメはなにも子供たちだけの問題でもないし、現代だけの問題でもない。
いわゆる「イジメ」というものは、人類の出現と共にあり、大人と子供の区別なく、過去にあり未来にあるだろう。
人間の中に潜む残酷性が生み出す悲劇なのだ。
ここでイジメ原因に焦点を絞ってみる。
どうしてイジメがなくならないのか?
〈イジメがなくならない理由〉
「教師からはイジメは見えにくい」
「親にイジメられていることを知らせない」
「イジメの目撃者であるクラスメートなどがイジメを止めない」
「イジメ被害にあっている本人が脱出法、解決法を知らない」
などが主な要因である。
今回のイジメ問題も男子生徒がイジメを受けていることをクラスメートが目撃している。
担任はその報告を受けている。
にもかかわらず担任は学年主任や管理職に明確な形で報告をしなかった。
さらに保護者(イジメ被害者側とイジメ加害者側の両方)にも連絡しなかった。
要するに見て見ぬふりをしたのだ。
また、クラスメートもイジメを見て見ぬふりをした。
それは自分たちに火の粉が被ってくることを避けるためだ。
イジメを受けている子を庇うと、今度はその子がイジメの対象となるからだ。
イジメを見て見ぬふりをする子供たちに言いたい。
イジメの事実を知っていて黙認するのはイジメ加害者に加担することと同じである。
そうした正しい認識を持って欲しい。
教師がイジメに気がつきにくいのは当たり前だ。
イジメは悪魔の所業。
他人に知られないように陰で密かに行われるもの。
ましてや教師の前では絶対と言っていいくらいイジメの実態を出さない。
また、イジメを受けている子供のほとんどは優しい性格(気弱な)な子が多いので、親に心配をかけたくないという理由から保護者にイジメを受けている事実を話すことは皆無だ。
それと思春期の複雑な時期の子供たちは自尊心が育ちつつある時期であるから、イジメを受けていることを親に言わない。
それは自尊心が傷つくからだ。
イジメを受けて苦しんでいるのに、その惨めな事実を親に話すことはさらなる苦しみ、悲しみを味わうことになるのだ。
だから、親に言い出せない。
こうしてイジメを受けている子供は孤立していく。
人間なにが一番つらいかと言うと「孤独」である。
孤立して独りぼっちで苦しみを抱えていることが最悪なのだ。
教師もイジメに気がつかない。
親にも言えない。
クラスメートはかばってくれない。
支えてくれる友人がいない。
これでは死にたくなって当然だ。
それほど孤独というものは死に近いのだ。
表現を変えると孤独は絶望というコインの裏表なのだ。
たったひとりでも支えてくれる友人がいれば、親が気づいてくれれば、教師がイジメを解決するために立ち上がってくれたなら、イジメによって命を無くす子供はいなくなる。
思春期の心が不安定な時期に学校という閉鎖的な環境に置かれ、人生経験もなく、解決法も知らず、孤独の中で悪魔のような連中から暴行・恐喝・名誉棄損などの行為を受けてしまったら死にたくもなる。
【イジメは誰の責任か?】
イジメは誰の責任か?
教師、親、本人、加害者?
これを語ると一晩かかってしまうので多くは別の機会に譲りますが、どうしても今回言いたいのは、イジメ加害者とその保護者に対してである。
イジメの加害者となる子供たちには「人の傷み」に対する心が大きく欠けている。
つまり「愛」という感情が欠落している。
自分たちが抱えている鬱憤を弱い者に向けている。
差別、軽蔑、嫌悪、傲慢がそこにある。
こうした子供を育ててしまった親に責任がある。
学校の中で起こっているのだから教師に責任がある、世間はそのように言うだろう。
報道を見る限りそのような報道しかしていない。
しかし、教師にある責任は、
「イジメが起こらないように防止する責任」
「イジメを発見する責任」
「イジメが起きたときに解決する責任」
「イジメが起きたときに再発防止をする責任」
「イジメの事実を隠蔽しない責任」であって
「イジメを行った加害者を育てた責任」ではない。
イジメをするような残酷な人間を育てて放置した責任はその親にある。
だからこそご意見番は提言する。
イジメ事件が起きて加害者が未成年であるから法(少年法)できちんと裁けないのなら、その保護者に法を適用せよ。
イジメ加害者の保護者(基本的に親)に対して成人のケースと同様の裁きを加えよ。
そうでなければ、被害者およびその家族(特に親)は納得しないだろう。
被害者および親の気持ちを考えてみろ!
この国の法は一体誰のためにあるのか?
この国の法は一体誰を守ろうとしているのか?
第一に守るべきは被害者であるはずだ。
加害者の更生を考えるのは二の次だ。
【世直しご意見番からのメッセージ!】
こうしたイジメによって若い命が絶たれたことが非常に残念であると同時に絶しがたい悲しみと怒りがこみ上げてきます。
アチキはこのニュースを知って胸が痛くなりました。
もし、アチキがこの中学生だったとしても自殺したくなったでしょう。
同じように自殺したかもしれません。
〈イジメに苦しむ人へのメッセージ〉
いまあなたがイジメにあって苦しくて地獄のような日々を送っているなら伝えたい。
「学校なんて行かなくてもいい」
「空手やボクシングを習って強くなってイジメるやつらを見返してやりなさい」
「死ぬ気でイジメをする奴とケンカしてみなさい(ただし一対一で)」
「イジメは永遠に続かないと信じてください」
「生きるための楽しみをなにか一つ見つけてください」
「もしもいま、独りぼっちだとしても、いつか必ずあなたを支えてくれる人と出会えます」
イジメの問題は一度で語り尽くすことは出来ません。
この件はまた取り上げてみたいと思っています。
【世直しご意見番がもの申す!】
「イジメは犯罪であると認識せよ」
「他人を苦しめた者は、必ずその数倍の苦しみをいずれ味わうことになる」
「他人の尊厳を踏みにじるイジメをしている人よ、反省し、悔い改めよ!」
「いまイジメで苦しんでいたら死にたくなるでしょう。それでも死を選択しないでください。死なないでください」
「いつかきっと生きて良かったと思う瞬間が来ます。それを信じてください。なぜなら私もそう思って生きているからです」
お読みくださって、ありがとうござんした。