【悲惨な事故の被害は加害者家族にも・・・】
東池袋自動車死傷事故の被害者は、他にもいる。
通常こうした悲惨な事故が起きると2次被害とも呼べることが発生する。
それは加害者家族への誹謗中傷や嫌がらせなどの社会的制裁だ。
飯塚被告の運転する車に同乗していた妻も、ICUに20日間入るほどの大けがを負った。
命はとりとめたものの自らを責め続け、悲嘆にくれる毎日を過ごしている。
加害者家族は「あの事故を忘れた日はありませんし、これからも永遠に忘れることはありません」と思いを吐露した。
家族として、事故を起こした父親に対して怒りが抑えられなくなる瞬間もあると語っている。
こうした悲惨な事故や事件を起こした加害者の家族もまた、人生を狂わされ、重い十字架を背負うことになってしまうのだ。
事故の被害者を思う気持ちが行き過ぎて、事故を起こした加害者としての責任がない家族への社会的制裁は、リンチでしかない。
くれぐれも慎むようにお願い申し上げる。
【裁判は誰のためにある?そして何のためにある?】
《裁判とは誰のためにある?》
裁判とはいったい誰のためにあるのか?
日本の裁判の問題を取り上げるととても1項目では語り尽くせないが、重要な点がある。
それは日本の裁判が「被害者の救済」よりも「被告の更生」を重視している点だ。
被害者と被害者の遺族の無念を晴らすことよりも、被告人の保護を重視することに傾いていることだ。
裁判とは、事件によって被害にあった家族(被害者などを含む)が犯人(被告)に私的復讐することを禁止し、その代わりとして裁判という公の場で裁判官が裁きを与えるものである。
つまり、裁判官とは被害者の代理人という一面を持つ。
もちろん裁判官は、被害者と被告人の両方の権利を天秤に持つ存在でもある。
だが、本質的には被害者の代理として、犯人を裁くものである。
《裁判とは何のためにする?》
裁判の難しさは「冤罪」、つまり無実の人が有罪とされてしまう可能性があることである。
であるから、裁判で最重要なことは「真実」を明らかにすることである。
そこには「被害者寄りの姿勢」も「被告人を庇う心理」も入りこまない。
ただただ、事件の真実を浮き彫りにすることである。
なぜそうするのか?
真実を明らかにすることが被害者及び遺族の心を救済することに繋がるからだ。
また、悪なる行為をし、法律に反した人間に裁きを与えることで社会秩序を守るためだ。
裁判とは、真実を明らかにし、社会正義を守るものである!
【杉村太蔵氏の「被告が正当性を主張するのは最も尊重されるべき」発言に反論する!】
10月11日(日)、TBSの番組「サンデージャポン」でタレントの杉村太蔵氏が述べた意見に反論意見を述べる!
世間の人たちにぜひこの意見を聴いていただきたい!
杉村太蔵氏は、こう話した。
「遺族の方の立場になって考えますといたたまれないし言葉がないんです」
「一方で少し冷静になって考えないといけないのは、私たち民主主義の社会に生きていますよと。そういうときに裁判において被告が自分の正当性を主張するのは、基本的人権の中では最も尊重されるべき一丁目一番地。これは否定するのは、ましてやメディアで強くバッシングするのは冷静にならないといけない」
一見まともな正論に聞こえる。
あなたはどう思いましたか?
この発言に対して一緒に出演していたタレントの鈴木紗理奈氏は「ルール上はそうですよね。権利はありますけど、反省しているように見えない」
デープ・スペクター氏は、「弁護士のアドバイスを無視する権利もあるわけです。本人が最終的に人間として失格としかいいようがない」
と語った。
ご意見番の意見を述べる。
はっきり言って、鈴木紗理奈氏とデープ・スペクター氏の意見のほうが正論である。
杉村太蔵氏は、立派なことを言っているようで大切な論点を失っている。
それは?
裁判とは「真実を明らかにする場」であることだ。
裁判に出廷した証人は必ず「虚偽」つまり「嘘」をつかない旨を宣誓させられる。
要するに、裁判の大前提は「嘘をつかない」ということである。
杉村太蔵氏の言う基本的人権とは嘘をつかない反論でなければいけないということだ。
もし、嘘をついて言い逃れして本当は犯罪をした人間が無罪となってしまったら、なんのために裁判を開いているのかわからない。
よって、杉村太蔵氏の論は間違っている!
つまり、「嘘をついて罪を言い逃れることは基本的人権とは呼べない」ということだ。
さらに鈴木紗理奈氏の発言を番組MCの爆笑問題太田氏は、「感情ではなく理性で対処しなければいけない」と諭していた。
だが、理論的でないのは飯塚被告本人なのだ。
「ブレーキペダルとアクセルペダルを踏み間違えたことはないと記憶している」というのは、あくまでも飯塚被告の主観であり、本人の主張でしか過ぎず、科学的根拠や何らかのデータ、目撃者などの証拠に基づいての発言ではないということだ。
主観による主張には、こちらも主観の感想をぶつけることも“あり”ではないか?
「基本的人権」とは、無実の人が無実であることを主張する権利のことである。
「でっち上げ」「虚言」を述べて責任逃れしようとするのは、基本的人権として保障されない。
ただ、発言することは裁判上許される。
被告人に犯罪行為等があったかどうかを証明するのは検事の仕事である。
今回ばかりは検事を応援する!
【飯塚幸三被告にもの申す!&高齢ドライバーにもの申す!】
《飯塚幸三被告にもの申す!》
ご意見番は、はっきり言う!
飯塚被告は、嘘をついている!
この裁判のやり取りを知った世間のほとんどの人が気づいているように、飯塚被告は自身の罪を逃れようと「嘘」をついている。
法律の観点から見れば、被告人であっても無罪を主張する権利は保障されている。
だが、神の眼や世間の眼はごまかせない。
真摯な言葉を述べ被害者遺族に対して謝罪する言葉を述べているが、それはアチキから見れば詭弁にしか過ぎない。
何より、11名もの死傷者を出しておきながら、「まったく自分の責任(ブレーキペダルとアクセルペダルを踏み間違えた)を考慮せず、車の制御システムの異常と言い張る」とは、真に反省した人間の言葉ではない。
飯塚被告の態度や言葉のニュアンスからは、「誠意」も「謝罪の気持ち」も「反省している様子」も一切見えない。
ただ、言い逃れしようとしているだけだ。
もし、本当に飯塚被告に責任がなく、車の制御システムの異常だとすれば、「いつどこでそのような車の制御システムの異常を調査・発見したのか」を証明して欲しいものだ。
仮に、飯塚被告の主張の通り、制御システムの異常が原因だとしても、人間としての心があれば、亡くなった2人と遺族、ケガをさせた被害者に対して「申しわけない気持ちでいっぱい」となるはず。
そういった気持ちの人の出す言葉は、必ず相手に伝わるものだ。
飯塚被告には、そういった気持ちがまったく感じられない。
なんという自分勝手な人間なのか!
そもそも不自由な体で運転することが間違いだ!
杖がなくては歩行できない人間が車を運転しようとしていること自体が間違いである。
さらに当時87歳という高齢にもかかわらず、運転していること自体が間違いなのだ。
この根本における間違いをきちんと認識していたならば、今回の悲惨な事故は起きなかったはずだ。
その責任をまったく感じない無責任さには怒りしか感じない!
飯塚被告よ、嘘をついて罪を逃れようとすることは、遺族への冒瀆であると知れ!
2人の未来ある命を奪っておいてなお、残された遺族に苦しみと悲しみ、そして言いようのない悔しさを与えていることを知れ!!
恥を知れ!
《高齢ドライバーにもの申す!》
ご意見番は全国の高齢ドライバーにもの申す!
80歳以上の高齢で車を運転することは危険すぎる!
そっこく運転免許証を返納しなさい!
70歳を超えたら「運転することを止める決断」を考える必要が絶対にある。
一番危ないタイプは「私は大丈夫」と考えるそこのあなたです!
【飯塚幸三被告の「嘘」を見破る!】
《飯塚被告の「嘘」を見破る》
飯塚被告が嘘をついていることを証明する!
飯塚被告は初公判でこう語った。
「アクセルペダルを踏み続けたことはないと記憶しており、暴走したのは車に何らかの異常が生じたため暴走したと思っております。」
実は飯塚被告のこの言葉自体に「嘘」を見破る要因がある。
飯塚被告は「なんとか無罪」となりたいので、苦しい言い訳をしているのだろうが、そうはいかない。
いいですか、世間のみなさん。
ご意見番の意見をよ~く聞いてください。
初公判で「暴走したのは車に何らかの異常が生じたため」と断言できることはあり得ないのです。
実際に、弁護側は飯塚被告の言葉を裏付ける調査やデータを示していない。
そんなことはしていない。
調査もデータもあるわけではない。
それが事実でしょう。
事故を起こした車両のデータは検察側にあるのです。
つまり、飯塚被告の言葉は「単なる個人的な希望的感想」にしか過ぎないのです。
まずそれが前提です。
そして、重要なことは発言のタイミングです。
こうした交通事故で車の異常が原因だと判明するにはほとんどの場合、多くの時間と労力を要します。
以前、バス運転手の冤罪事件の記事を書きましたが、車両に異常が見つかるのは専門家による調査が必要で、 相当の時間を要します。
ですから、初公判のタイミングで、暴走したのは車に何らかの異常が生じたためと断言出来るはずがありません。
もし、可能性を疑うならば、「その可能性がある」とか、「車両の異常かもしれない」といった表現になるはずです。
ですが、飯塚被告は「事故の原因が車両の異常であると断言している」のです。
(弁護士はやはりプロです。「可能性がある」と言っています)
もっと言うと、飯塚被告は初公判の前から車の制御システムの異常であると主張しているのです。
これは調査も行っていない憶測です。
憶測を事実として自身の罪を逃れようとしているのです。
通常であれば、初公判で示した検察側の主張を否定するために、弁護士等が後に時間と労力をかけて調査し、検察側の起訴内容を崩していくものです。
ですから、初公判で「車両の異常が原因」と主張していること自体が、「そう主張することで言い逃れしようとしている」ということを証明しているのです。
(実際は、初公判が始まる前から飯塚被告は車の異常が原因と言っている)
実は、これが飯塚被告の意に反して実は「嘘」を証明しているのです。
初公判の時点で断言できるということは、「意図的に嘘」をついているのです。
《飯塚被告の狙いとは?》
では、なぜ飯塚被告は証拠もないのにそんな嘘をつくのでしょうか?
そこに裁判参謀の知恵が働いているのです。
ですがその参謀の作戦をご意見番は見破ります。
その作戦とは、裁判の本質をうまくついた作戦です。
それは「疑わしきは罰せず」という裁判の習性(習慣)を利用しようとしているのです。
つまり、「もしかしたら車両の異常で事故が起きたのかもしれない」と裁判官に印象づけることで、有罪判決への判断を揺さぶっているのです。
事故の原因があやふやになることで「推定無罪という大原則」を実現しようとしているのです。
この作戦は弁護側によっては一か八かの賭けであり、唯一の作戦でしょう。
ですが、卑怯な作戦と言っておきます。
弁護士の仕事は依頼人の救済ですから仕方がないですが、責められるべきは飯塚被告です。
そんな「嘘」をついてまで無罪となろうとしている浅ましい心に哀れさを感じます。
【嘘つきは地獄の始まり】
「嘘つきは泥棒の始まり」という諺があるが、「嘘つきは地獄の始まり」でもある。
犯罪者はおしなべて「嘘をつく」。
逆に言うと「嘘をつかない犯罪者はいない」と言ってもいい。
「嘘」というのは、自身の人間性を汚し、他人の大切なものを奪い、他人を傷つける。
最もいけない嘘は、「他人を傷つける嘘」である。
最愛の妻と娘を失くした松永さんに対して「嘘」をつく行為は、深く傷ついて人間に追い打ちをかける傷を与える行為でしかない。
飯塚被告が、万が一無罪となろうとも、あの世の閻魔大王の眼はごまかせない!
飯塚被告よ、覚悟するがいい!
最後までお読みくださり、ありがとうござりんした。