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『“保守の憲法論”最終結論【自民党憲法改正草案編⑤】~自民党憲法改正草案は自由と人権の破壊に他ならない!~』

【自民党憲法改正草案編⑤】
自民党憲法改正草案は自由と人権の破壊に他ならない!

これまでの記事

【自民党憲法改正草案編①】~自民党憲法改正草案は国民家畜化の暗黒な未来に向かうもの!~
【自民党憲法改正草案編②】~憲法とは何か?~
【自民党憲法改正草案編③】~憲法を守らない権力者とは独裁者~
【自民党憲法改正草案編④】~自民党憲法改正草案の“真の狙い(目的)”は主権者を「国民」から「政権」に変更する革命に他ならない!~

憲法第13条の修正について

《憲法第13条の修正について》

私が一番、まずいと思っているのは、「個人」という概念がこの草案では消されてしまっているという問題です。
自民党の草案では、「個人」という言葉をあえて削っている。

〈「個人」という概念を消す理由とは?〉

憲法改正において、何を削除し、何を追加し、何をどう修正したのかということにはすべて意味があるのです。意味または意図の含まれていない改正はあり得ないのです。まずここを抑えてください。
自民党の草案で、「個人」という概念を削除したということは、その先につながる「個人の自由」「個人の人権」を消し込むものです。「個人の自由」「個人の人権」を消し込むということが意味することは、全体主義社会への変貌であり、個人(国民)を強力な権限を持つ国家権力が支配するということを意味するのです。つまり、個人の自由や個人の人権よりも国家の自由及び国家の権利を上位概念としたいのです。

日本国憲法第13条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

自民党「日本国憲法改正草案」
(人としての尊重等)
第13条
全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

現憲法で明記されている「個人として」を「人として」に変更したことが意図することはなにか?
「個人」という表現は、独立した単位を示すものであり、社会や組織、国家を構成する最小単位、つまり「一人ひとりの人間」に焦点を当てているもの。
一方、「人」という表現は、生きている人間全般や複数の人間、不特定多数の単位としても使われる表現であり、広範囲な意味が含まれている。また、道徳や倫理を問う場合は「個人として」という表現は使わず、「人として」と表現することから、何らかの責任を負わせえる表現とも読み取れる。

現憲法で明記されている「公共の福祉に反しない限り」を「公益及び公の秩序に反しない限り」に変更したことが意図することはなにか?
「公共の福祉」とは、あくまで調整の仕組みであり、人権を持つ個人がお互いの自由が衝突するさいに、どちらかの権利を一方的に保護するものではなく、お互いの権利を公平に守ることを目的とした調整の仕組みです。
一方、「公益及び公の秩序」とは、国家や社会の利益の衝突、社会や国家の秩序を個人の人権より優先させる調整の概念であり、国家の利益が個人の自由や人権に優位にあるため、個人の自由や人権が制限される概念である。

両者の違いは、「公共の福祉に反しない限り」が他人の人権を守るために個人の自由や人権が制限されるという個人間での調整の仕組みであり、あくまでも個人という存在を大切にすることを前提としているが、「公益及び公の秩序に反しない限り」は、国家と個人(国民)の権利の衝突を前提としているため、個人主義が影を潜め、国家が個人(国民)の自由や人権を制限する武器と成り得る点にある。
この13条の修正は、主権者である国民の立場を大きく揺るがすものであり、主権者としての立ち位置を低くするものである。
国家より個人(国民)を優先する政治システムのことを民主主義という。
個人(国民)より国家を優先する政治システムのことを全体主義という。
おわかりでしょうか?
自民党の憲法改正草案、13条の修正は民主主義から全体主義に変貌させるものなのです。

〈否定される天賦人権説〉

日本国憲法の肝と言われている条文が13条とされている。ということは、自民党の憲法改正草案第13条の修正を見れば、自民党の憲法改正草案がいかなるものかがわかることになる。
自民党は草案の解説として『日本国憲法改正草案Q&A』というものを出している。

権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。

★補足説明:『天賦人権説』とはなにか?
「天賦人権説」とは、人間は生まれながらにして自由であり平等であり、幸福を追求する権利を天から与えられているという考え(思想)のこと。
この場合の、「天」とは「神」を意味することは明らか。

ここにも重大な問題が含んでいます。
「人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものである」、これが意味することとは、政権(昔は政府や朝廷)によって、個人(国民)の自由や人権に制限をかけることができると言っていることと同じである。
明治憲法は「法律の範囲内で」という制限が加えられており、議会(国会議員等)が作る法律によって国民(当時は臣民)を権力者側が自由に制限することができたのです。
また、明治以前の日本においても、朝廷や幕府が統治権を持っていたため、国民(臣民)は、その命に従わなければならず、現代のような自由や人権などはありませんでした。
特に明治憲法下で天皇に統治権があると規定したため、明治憲法下の人権は、天皇が臣民(国民)に恵みとして与えたもの(恩恵的権利)とされてきた歴史的事実がある。
だが、実際のところは、天皇から恵が来るのではなく、天皇が臣民(国民)の人権を制限するのではなく、天皇の権威を利用した時の権力者たちが、虎の威を借りる狐のごとく国民(臣民)を支配していたことは歴史的事実である。
つまり、国民に恩恵を与えるか与えないかの権利を「時の政権」が持つということを意味しているのです。
自民党の人権に関する解説によれば、「人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものである」としているため、戦前回帰または太古への復古的な政治的思惑が13条修正の意図であることが読み取れる。
ただし、人権を与えるのは天皇ではなく、「時の政権」となるはず。
この意味は、何度も言うが、民主主義の破壊であり、その本質は国民主権を奪うことです。
この危険性に国民は気づくべきです。

さらっと、条文を読み飛ばしてはいけないのであり、裏側に隠された意図を読み解かねばならないのです。なぜならそれが私たち国民の幸福と深く関係しているからです。

憲法第21条表現の自由について

《憲法第21条表現の自由》

この改正草案はさまざまな条文で、国民の権利や自由を掲げつつ、注意深く、それを制限する条項をセットにしてくっつけています。

〈自民党「日本国憲法改正草案」〉
(表現の自由)
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 全国の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。

現憲法では、2項の制限はありません。
これは騙しの手法です。
「各種の自由を保障する」と言いながら、条件をつけているのです。自民党の憲法改正草案では「公益及び公の秩序」という文言を多用している。この文言こそ騙しの言葉です。一見すると正しく思えますが、この文言は国家権力側に都合の良いように扱える要素が満載なのです。表面上国民にとって危険とは思えないが、実は裏側に国民の自由を制限する権限を与えている文言なのです。実に姑息なやり方です。

比較のため、現行憲法第21条を示します。

日本国憲法第21条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
②検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

《「公益及び公の秩序」とは、自由を制限する罠》

自民党草案
(表現の自由)
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
3 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。

自民党草案(表現の自由)第二十一条は、明らかに国民の自由を奪うことを趣旨としています。
自民党の改正草案全文が矛盾した構成となっており、肯定しているようで実は肝心な点において否定を入れているのです。
事実、自民党の改正草案では、「集会、結社及び言論、出版、表現の自由を保障する」とするも、2項で「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動、それを目的として結社をすることは、認められない」としている。
肝心な文言は「公益及び公の秩序」という部分。この概念を持ちだされれば実質的に政治権力への批判はできなくなる。なぜならば、政治権力とは公の秩序を代表する存在だからです。
さらに「公益」とは、国家の利益に他ならないので、個人の自由よりも国家の利益が優先されることを意味し、本来あるべき基本的人権である「自由」が国家権力が作る檻に入れられた状態となる。これは憲法の存在意義からすると真逆である。国家権力は国民個人の言論、表現などの自由を侵してはならないのであって、国家権力が条件をつけて制限することは、絶対に民主主義国家、立憲主義国家とは言えない。では何と言うのかといえば全体主義国家または独裁主義国家と言う。
根本的な問題を指摘すれば、国民の自由を守るためにある憲法を逆利用して、国民を逆に統制する憲法に変更することに他ならない。

表現の自由と民主主義…表現の自由には、①「個人が表現活動を通じて、自己の人格を発展させることにつながる」という個人的な価値とともに、②「表現活動を通じて、国民が政治的意志を決定をなす際の判断資料を提供する」意味で、民主制における社会的価値がある。民主主義を機能させるためには、国民各人が自由に意見を表明し、自由に討論することを保障することが何より重要であるため、表現の自由は民主主義にとって不可欠の要素として人権の中でも最優先的地位があり、大切に扱われるべきものであるとされる。

「言論の自由」は、「表現の自由」があってこそなのです。表現の自由は国民一人ひとりの個性の現れであり、その個性を認めることであり、個性の集合体として民意を形成し、それが政治の方向性を決めていくという民主主義の根幹でもあるのです。
表現の自由が制限されたならば、言論の自由は意味を失われてしまいます。それは統制された言論でしかなく、金太郎飴のように同質の言論しか認められないことになってしまいます。

「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動」という言葉に騙されてはいけないのです。この表現は真の狙いをオブラートして包み隠していますが、真の狙いは「政治批判の否定」に他なりません。
つまり、国民の声を塞ぐことで、国家権力が好き放題を行えるようにすることです。憲法とは国家権力を檻に入れる又は鎖でつなぐことを目的とするものですが、鎖でつながれた者たちが自ら鎖を解き、文字通り自由になるための改正に他なりません。
要するに、国家権力の座にある者たちが、自らの自由を勝ち取ることを目的とした改正に他ならないということです。
自民党の改正草案の基本姿勢は、国家が国民の上位に位置する又は国家が憲法の上位に位置するというものです。

この規定も、国民に特定の表現活動および結社の禁止を課する趣旨です。「公益及び公の秩序を害することを目的とした」とつけたことによって、政府の方針とは違う表現活動や集会・デモなどにも規制がかかる可能性があります。

私には分かります。
「公益及び公の秩序を害することを目的とした」という言葉がどれだけ危険なものなのかが。一見すると「きれいごと」を並べただけで何の問題もないように思う方もいるでしょう。
しかし、この表現に隠された真の姿は国民の側からすれば自由と人権の強奪に他なりません。
現在、「高市早苗氏の辞職」を求めるデモ等が全国各地で行われています。しかし、大手メディアは完全に無視を決め込み、国民の目に触れないように隠しています。
「公益及び公の秩序を害することを目的とした」という表現が入る憲法条文に改正されたならば、国民による政権批判、政策批判、デモ、反政府集会等は規制の対象となる可能性が高くなります。というよりもそれを狙っていると言った方が正確でしょう。
これは民主主義国家ではありません。独裁権力がすでに顔を出し、独裁権力が日本を包み込む前兆と言えます。

《表現の自由の制約》

現行憲法では、経済活動の自由(二十二条1項、二十九条1項)の条文に「公共の福祉」による制約が明記されており、これを根拠に、経済活動の自由は大幅に制約することができると考えられています。それに対して改憲草案は、さきの条項を加えることにより、表現の自由にも大幅な制約を認めようとするものです。
~中略~
しかし、精神的自由は立憲民主制の政治過程にとって不可欠の権利です。情報を伝え合い、考え、世論をつくり、選挙などを通じて国民が政治を行うのが民主主義国の基本ルールです。

「精神的自由」こそが人間にとって最も大切な自由であり、決して奪ってはならないものです。逆に国家権力が国民を統制下に置きたいと考えるときに、最も邪魔なものです。
人間の持つ自由の根源のすべてが精神的自由から現れるものです。
人間と動物の大きな違いが、人間が精神的な生き物であることであり、人間は精神の個性によって個性的な思考をし、その思考が各人の行動となるのです。
人は、精神的自由を奪われたならば、人でなくなるのです。
精神的自由は、経済的自由や国家権力による政治活動の自由、マスコミ等の報道の自由よりも優越的な地位を占める自由なのです。

この精神的自由を制限することが出来る理由が、他者(自分以外の)の自由を奪ってはいけないとする倫理からくる「社会全体の秩序の調和」なのです。別な言い方をすれば「他者の自由の行使及び人権との調節(調和)」なのです。この「他者の自由の行使及び人権との調節(調和)」を守ることで社会全体を維持するために「公共の福祉」による制限がかかっているのです。
しかし、この「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」は、別の論理です。
「公益及び公の秩序」が意味することとは、政権が生み出す国家優先の利益であり、社会秩序なのです。それ自体が個人の自由と相反する意味が内包されているのです。しかし、時の政権にとっては実に都合の良いものなのです。

自民党の憲法改正草案は、国家主義、国家優越を作り出す憲法秩序であり、その憲法で示された法の理念は、法律という国民を縛る法の支配を生み出すのです。
目的は、国民を時の政権の“完全支配下に置く”ということにあるのです。
だから、お試し改憲を認めてしまうと、次に本丸の改憲が行われ、それによって国民は息を殺し、個性を殺し、檻の中に入れられた家畜のように生きるしかなくなってしまうのです。
これは決して大げさなことではありません。
素直に、自民党の憲法改正草案を分析すればそうした答えが出てくるのです。
お試し改憲と言っても、これでも十分に危険なものであることは変わりません。

信教の自由について

《信教の自由》

自民党草案
(信教の自由)
第二十条 信教の自由は、保障する。国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のため教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない。

〈統一教会との関係を疑う〉

比較のために現行憲法20条を示す。

日本国憲法第20条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

自民党の改正草案では、宗教団体が「政治上の権力を行使してはならない」という規定を削除している。
私は、これは統一教会問題と関係していると睨んでいる。
実質的に、統一教会という韓国発の宗教団体(現在は解散命令が下っている)は、岸信介氏の頃から自民党と密接につながっていて、統一教会の政治部門である国際勝共連合を設立することで緩衝材の役割をさせ、自民党政権を裏で支え、政策に大きな影響を与えてきた。
こうしたことを合法化することが、この修正の真の狙いだと考えることができる。

自民党の改正草案では、「国が宗教団体に特権を与えてはならない」とするにとどまり、宗教団体による政治上の権力行使に対する制限が無力化されている。
著者の伊藤真氏はこう言っている。

つまり、宗教団体が選挙を通して政権与党を構成し、これにより政治権力を行使することを認めたことになります。

これは統一教会の政治介入を公式に認めることと同じ意味となる。
国民はこうしたことを許すのか?
ただし、宗教にも政治にかかわる権利は“本来ある”ものですが、統一教会のような社会犯罪を行うカルト宗教が政治に介入することは、何一つ国民を益することはありません。
むしろカルト宗教を排除するべきでしょう。
その為に必須なのが、日本国民による宗教の価値判断となりますが、GHQの占領によって、自虐史観を植えつけられ、洗脳されたことによって、日本国民は宗教の良し悪しを判断出来ない宗教オンチになり果てました。
この問題を解決する必要があります。

自由と責務

《自由と責務》

自民党草案
(身体の拘束及び苦役からの自由)
第十八条 何人も、その意に反すると否とにかかわらず、社会的又は経済的関係において身体を拘束されない。
2 何人も、犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服せられない。

〈適用外という罠〉

自民党の憲法改正草案第十八条を読んだだけでは、違和感を感じる人は稀ではないでしょうか。
しかし、問題があるのです。
根本的なことを言えば、現行憲法である日本国憲法を知らない人は、自民党の改正草案と「比較」ができないこと、憲法の存在意義を理解していない人は、自民党の改正草案の狙いが読み解けないことです。

「改正」では、何を削り、何を追加し、何をどう修正したのかということに深い意味があるのです。
草案18条では、現行憲法18条が定めている「奴隷的拘束」を削除しています。また、自民党の改正草案では「社会的又は経済的関係」と限定し、「政治的関係」を定めていません。
定めていないということは、そこは“適用外”となるということです。つまり、政治的な出来事によって身体を拘束されうる可能性があるということです。

〈最大の公益とは?〉

草案では国防軍を設け、国民の攻防義務を定め(前文第三段)、人権の公益適合性を求めています(十三条)。そこから、「憲法が認めた国防軍を維持する必要があり、国民にも国を守る義務がある。国防は最大の公益なのだから、徴兵制はゆるされる」というように解釈が可能です。

国家権力者が、国民が望んでいない憲法改正を進めようとし、その条文の中に「公益」という表現を使用することは、国民にとってとても恐ろしいことなのです。
「公益」の最大のものが何かといえば、「国家防衛」なのです。

ですから「国家防衛=公益」のために国民は協力する義務が発生し、もし拒めば憲法違反、後に立法される可能性がある法律に違反する事態となり、政治的事案によって身体を拘束されてしまう事態が発生する可能性があります。
これは戦前の治安維持法が跋扈していた時代に逆戻りするものと言えます。
法の名を借りた権力の横暴が起こる可能性があるということです。
こうした事態は、国家権力が強大となることで起こりうることであって、こうした事態を防ぐためにこそ民主主義制度があるのです。ですが、民主主義制度とは国家権力者にとっては、実に歯がゆいものなのです。なぜならば、国家権力を握ったはずの自分たちが最高権力(主権者)の座にいないからです。選挙で落とされてしまえば、国家権力者から無職の人間となるからです。

権力を思うように振るいたいという権力を握った者たちの欲望を防ぐことを民主主義制度は抑える役割があるのです。
国家権力が強大になるということは、たとえ表面上民主主義国家だ、主権者は国民だ、などときれいごとを言ったところで、実質的には独裁王による統治と何ら変わりがないのです。つまり、権力者がその権力を縛る鎖を解き放ち、好き勝手に権力という名の刀を振るうことができてしまうということです。これは近代国家構造から中世以前の社会体制に戻ることを意味します。
知ってください。この中世以前の国家体制に戻すことを画策しているのがディープステートと呼ばれている闇の世界権力者たちなのです。

【自民党憲法改正草案編⑥】につづく

参考書籍

書籍名:『「憲法改正」の真実』
著者名:樋口陽一、小林節
出版社:集英社新書

書籍名:『【決定版】白熱抗議!憲法改正』
著者名:小林節
出版社:ワニ文庫

書籍名:『赤ペンチェック 自民党憲法改正草案』
著者名: 伊藤真
出版社: 大月書店

書籍名:『高市早苗という病』
著者名: 適菜収
出版社: ベスト新書

最後までお読みいただき、ありがとうござりんした!

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