サイトアイコン 世直しご意見番の世間にもの申す!

『コラムニスト伊是名夏子氏の「乗車拒否された」発言炎上騒動にもの申す!【追記2】 ~伊是名氏擁護の東京新聞の記事は、朝日新聞に続く赤字転落の序章~』

まずは『【追記1】~伊是名氏擁護の東京新聞の記事は「論点ズラし論法」であり、擁護の体をなしていない!~』をお読みください。

伊是名夏子氏の「乗車拒否発言」擁護の「東京新聞」に、もの申す

《東京新聞の記事は、「語彙のすり替え」によるミスリード》

東京新聞の記事は、とても看過できるものではない。
その手法の一つは「語彙のすり替え」によるミスリードである。

〈語彙のすり替え1〉

伊是名氏は自身のブログにこのような表現をしている。

「乗車拒否された」

しかし、正確にはこうでなくてはならない。

「乗車拒否されそうになった」

この違いは、雲泥の差である。

後者の発言であったならば、まだ世間もそれほど非難しなかっただろう。
アチキも同様。

結果的であろうが、実際は128㎏の電動車椅子を熱海駅の駅員に運ばせている。
伊是名氏の主張は最終的に通っている。
なのに、あたかも結果的に「乗車拒否」された、と言わんばかりの表現でブログを綴っている。
この言葉の表現は意図的であり、障害者への差別が行われていると世間に思わせるためのミスリードである。
それを世間の人たちは看破して、抗議の声を上げたのだ。

東京新聞よ、伊是名氏の「乗車拒否された」発言はJRに対する名誉毀損にも該当すると思うが、なぜ、そこを取り上げない。
ご都合主義もいい加減にせんかい!

〈語彙のすり替え2〉

伊是名氏は、小田原駅で来宮駅での車椅子対応をめぐる交渉において「語彙のすり替え」をしている。

「障害者差別解消法があり、エレベーターがない駅は合理的配慮としてほかの手段で対応していただく法律があります。エレベーターを作ってほしいと言っているわけではなく、エレベーターがないならば、それ以外の方法で対応する義務があります

「義務」と「努力義務」では、これまた雲泥の差となる。
似て非なりの別物である。

伊是名氏の「語彙のすり替え」は、現実や事実を尊重するのではなく、自分に都合の良いように現実を捻じ曲げる手法である。

世間の人たちはそこを怒っているのだ。

伊是名氏の言動は、こうした“偽りの言動”が多い。
世間の人たちはそれを敏感に感じ取っている。

しかし、当の伊是名氏は左翼思想に基づいているので、まったく世間の人たちから指摘されていることにピンとこない。

きちんと「できない理由を説明し、改善策を提案したJR」に対して、合理的配慮が強制的な「義務」であるかのように交渉した伊是名氏の言動を、なぜ、問題にしない?

東京新聞に訊く。
「義務」と「努力義務」は同じなのか??

《左翼思想の危険性》

伊是名氏の「語彙のすり替え」は事実とは違うフェイクであり、印象操作そのものである。
左翼にとっては事実などどうでもよく、自分たちの都合にあわせて物事を解釈する。
そもそも左翼思想とは、人間をただの物質と考え(唯物論)、暴力を肯定して革命を起こす、というもの。
さらに恐ろしいのは左翼思想には、その国の「伝統の破壊」「愛国心の破壊」「自由の破壊」が根本に流れていることだ。
いま、日本もアメリカ合衆国同様に、左翼化の危機にある。

《東京新聞の記事の間違いとは?》

松田氏ともとみつ氏がすでに指摘しているので、改めてご意見番が意見を述べる余地は本来ないのであるが、それでもあえて意見を言わずにはいられなかった。
それは、2020年のアメリカ合衆国大統領選挙において自由の大国アメリカ合衆国が急速に左翼化している。
その余波は同じ自由主義国であり、民主主義国家である日本にも及んでいる。
日本はいま、全体主義、左翼化の津波に襲われている。
反日思想の活動家が活発に動いている。
そう感じているからだ。

ご意見番は、日本という国の伝統と文化、愛国心を破壊する者の言論や行動を許さない!

結局、東京新聞の記事は法的には世間の人たちに説得できないとみて、感情論に訴えたものである。
障害者の生の声を出し、伊是名氏が障害者たちの味方であり、社会的に有意義な発言をしているのだと錯覚させることが東京新聞の記事の目的である。

しかし、松田氏やもとみつ氏などが指摘しているように、論理は破綻している。
さらに、一方的な情報発信しかしておらず、偏見に満ちた言論と言える。

アチキは伊是名氏のブログ、ツイートなども調べたが、伊是名氏自身が告白しているではないか。

「同じ障害を持つ人からたくさん非難の声があがった(伊是名氏に対して)」と。

東京新聞の記事は、伊是名氏が障害者全体の意思を反映しているように言っているが、とんでもないフェイクである。
多くの障害を持つ人が伊是名氏の「乗車拒否騒動」によって心を痛めている事実をなぜ、無視する。
そこには悪意さえ感じる。

結論

東京新聞の記事は、論点ズラしの論法を使用して感情論に訴え、世間の人たちをミスリードするための偏見に満ちた印象操作である!

伊是名氏の問題を「たとえ話」で考えると?

《「たとえ話」で考える伊是名氏の問題とは?》

ここで伊是名氏の主張がいかにおかしなものか、間違っているのか、ということを“たとえ話”で論じてみる。
みなさんも一緒に考えてみてください。

〈肥満の人が愛宕神社に参拝〉

肥満の人にはすみません。
たとえ話の例として使わせてもらいます。
別にアチキは、「肥満」の人に偏見や嫌悪を持っていません。
分かりやすい話として使用することをはじめにお断りしておきます。

もしもの話。
もしも、体重100㎏の人が愛宕神社に参拝に行ったら・・・。

東京都港区にある愛宕神社に参拝するためには「出世の階段」と呼ばれる急な参道を登っていかなければなりません。
愛宕神社は愛宕山という小さな丘に建つ神社で、参道の階段の傾斜角度は40度階段の数は86段
傾斜が急な愛宕神社の階段を体重100㎏の人が登るのは一苦労です。
でも、その人は出世のために愛宕神社に参拝したいと思ってやってきました。
彼は階段の急な傾斜と86段もの長い階段に不安を覚えます。
そこで近くのいた人に助けを求めるのです。
自分をおぶって階段を登って欲しいと訴えます。
しかし、誰も他人である彼を助ける人はいません。
助けようにも体重100㎏の人をおぶることができる人は稀であるからです。
もちろんそんな義務も責任もありません。
しかたがないので、先に階段を登っている人に愛宕神社の宮司と巫女を呼んできてほしいと伝えます。
やってきた宮司と巫女に体重100㎏の彼は同じことを伝える。
すると「それはできません」と断られます。
彼はその宮司の発言を聞いて「差別だ」と言い返す。
すったもんだした末に、誰も彼をおぶってくれる人がいなかったために、自力でゆっくりと一歩一歩急な階段を登っていった。
86段の階段を登り切ったときには、息が切れて地面に座り込んでしまった。
彼は世間の冷たさに嘆いた。

この話をどう思いますか?
??
と思いましたか?

まず、肥満の人も痩せている人も愛宕神社に参拝に行く権利と自由はあるはずです。
ところが、痩せている人、体力がある人には軽い負担で済んでも肥満の人や年寄りには困難がともないます。

これは差別でしょうか?
差別ではないでしょうか?

まず言えることは、こうした状況は社会のあちらこちらにあるということです。
痩せている人と肥満の人ではさまざまな環境に置いて違いがでます。
ですが、「肥満者差別解消法」なるものは存在しません。
でも、「障害者差別解消法」は存在します。
ある意味では、恵まれていませんか?

こうした状況にあるときに、肥満の人たちが「愛宕神社にエレベーターをつけろ」、「太っている人を差別する環境は解消されるべきだ」と訴えるでしょうか?

外出時に障害者の利便をはかる法律があるのに、肥満、子ども、年寄りを保護対象とする法律がないのはなぜでしょうか?
(バリアフリー法は、障害者以外の人にも有効なものでもある)

肥満の人でも瘦せている人と同様に愛宕神社に参拝したいのです。
でも、瘦せている人と同じようにはいかないのが現実です。
(太っている人、失礼しました)

〈足を骨折した人が無人駅を使用して旅行したら?〉

ある人が観光旅行(家族旅行)を計画しました。
家族は幼稚園と小学生の子ども2人と30代の夫婦の4人。
しかし、旅行にいく一週間前に男性(父であり夫)が交通事故で足を骨折してしまいました。
それでも、楽しみにしていた家族旅行です、彼は松葉杖で旅行に行くことにします。
目的の最寄り駅に行くための乗り換えの駅で、駅員さんに訊ねると目的の駅が無人駅で階段しかないことが分かります。
彼は乗り換えの駅員さんに無人駅まで同行して階段をおぶって移動させてくれと頼みます。
ですが、断られてしまいます。

これは違法ですか?
不条理ですか?

こんなとき障害者の方であれば、「障害者差別解消法」があります・・・と交渉できます。
しかし、負傷者には「負傷者差別解消法」は存在しません。
負傷者は無人駅を使用して家族旅行してはいけないのでしょうか?

これは負傷者に対する差別でしょうか?

自己管理ができなくて肥満になった人、一時的なケガを負った人、と「生まれついての障害者」、「好き好んで障害を持ったわけではない障害者」を一緒にするな、と抗議の声があがるでしょう。

〈無人駅に車椅子の旅行者が殺到したら?〉

とある無人駅の手前の乗り換えの駅で多くの障害者の方(車椅子)が駅員となにやらもめています。
どうやら目的の駅が無人駅で階段しかないと言われているようです。
しかし、障害者の方々は「障害者差別解消法」を盾にして「合理的配慮の対応」を求めています。
駅員は困ってしまいます。
この場合、本来の勤務地(所属する駅)の業務を放棄して、乗り換えの駅の駅員たちがこぞって障害者の方たちに同行して人的対処をするべきでしょうか?

どうしましょうか?
えっ、そんなことは起こらない?
その可能性は0ですか?

障害者の方々が無人駅を利用してはダメだという常識でもあるのでしょうか?

もし、対応できなかったら、「障害者を差別した」と、マスコミに垂れ込まれてしまうかもしれません。
どうしたらいいのでしょうか?

本来の勤務地ではない無人駅での対応をすれば、本来の勤務地の駅が“空(から)”になってしまいます。
それでも合理的配慮をするべきでしょうか?

伊是名氏と東京新聞よ、答えてくれ!

もし、伊是名氏と同じように対応するべきと言ったならば、本来の勤務地の利用客が公共交通機関を利用できない事態、または利用客に不便や混乱を与えることになる。
逆に、人数が多いから対応しなくてもいいと答えるならば、問題は「人数」だということになる。
しかし、「人数」に関することは障害者差別解消法には規定されていないはず。
合理的配慮の「努力義務」に人数制限はないはず。
では、問題の本質とは?

《ポイント》

要は、「現実的に出来ることと出来ないことがある」ということです。
もう一つは、「差別という“色眼鏡(偏ったものの見方)”で社会を見れば、いくらでも差別が見つかる」ということです。

でも、それは本当に差別でしょうか?
差別ではないことまで差別とする人たちがいるのではないでしょうか?
(もちろん本当の差別も存在します)

伊是名氏の炎上騒動の本質とは?

《伊是名氏の問題の本質とは?》

すでに以前の記事で指摘しているが、もう一度言う。
伊是名氏の発言と行動が世間の人たちから批判、非難されているその本質とは、結局「人としての問題」なのである。
つまり、障害者の問題ではなく、人間としての「礼儀の問題」「社会のなかの常識」「人間関係におけるコミュニケーション能力の問題」「旅行の準備諭」などの「人としてのあり方の問題」なのである。

障害者であるか、健常者であるか、という問題では無く、人間としての共通の問題なのだ。
それを伊是名氏も社民党も、東京新聞も、論点を「障害者が世間の人たちから差別されている」と“すり替えている”のだ。

東京新聞がこの論点ズラしの論法を使用したことによって、炎上騒動は鎮火が遅くなり、将来に禍根を残すことになった。
要するに、東京新聞がやったことは「伊是名氏を擁護する」という目的と逆の効果を自ら作り出してしまった、ということだ。

差別は障害者へのものだけではなく、障害者の人からの健常者への差別もある!

《逆差別(障害者から健常者への差別)も存在する》

差別とは、健常者から障害を持つ人に対するものだけでしょうか?

「障害者はペコペコしなければいけませんか?」(松浦明美さんの発言)

「障害者は世に出ていい存在ではなく、施しを受けて暮らしていく存在との考えが脈々と受け継がれている」(佐藤紀喜さんの発言)

この二つの発言は、一面では“正当な抗議”の意味を含んでいるが、同時に“別のもの”をも含んでいる。
その別のものとは?

「健常者のほとんどは、障害を持つ人を差別している」
「障害者は、健常者たちから虐げられている(ペコペコしなければならない)」
「障害者は、健常者から常に差別を受けている」
という、「障害者による健常者への差別」である。

「差別」するな! と抗議するのならば、自分自身が相手を差別しないことが前提条件となります。

世の中の大多数の人は、障害者を差別していません
ほんの一部、おかしな人間がいるだけです。
その特殊事例を一般的または全体的な思考にすり替えてはいけません。
むしろ、障害者の方を温かく見守り、障害者の人たちを応援し、障害者の人たちが住みよい社会になることをほとんどの健常者が望んでいます。

東京新聞に伊是名氏擁護の声を上げた2人の意見は偏見に満ちており、それは同じ障害者の人たちをも貶める発言です。
日本にいる障害を持つ人すべてが伊是名氏を擁護しているのですか?
現実は、伊是名氏に抗議した人、伊是名氏を非難した人がたくさんいます。

障害を持っていても、健常者よりも輝く人生を送っている人はたくさんいます。
その生き方は、健常者に「生きることの大切さ」「健康のありがたさ」を教える“師”の役割をしていると思えます。

また、仏法真理では、生まれる前に自分の人生を決めてくる、という真理があります。
障害のある人生を自ら選んで生まれてくる、という真理があります。
そこには魂としての学習の意味があるのです。
理由があってその人は障害を持って人生を送っているのです。
そうした価値観で生きる人にとって「障害」とは、卑屈なものでも、差別されるものでもなく、自分を磨いてくれる砥石と考えるのです。
人間の本質は心であり、その心が美しいかどうかが、その人の本当の価値です。
しかし、偏見や度を超えた差別意識、むやみやたらに人権を振り回す言動は美しい生き方ではありません。

差別、差別と叫ぶ障害者の人たちには、健常者への差別意識があることに気がつくべきです

それを認識しても健常者の人は、それを責めることはしません。
大切なことはお互いを理解しようと努力することです。

「障害者への差別が脈々と受け継がれている」などという考えは偏見でしかありません!
それは健常者への差別発言です!

《企業への合理的配慮の「義務」に反対する》

なお、「障害者差別解消法」の合理的配慮の企業への「努力義務」が「義務」に変わるということは絶対にあってはならない。
なぜならば、それは片方の人権や自由のみを一歩的に味方する法律であり、企業活動を阻害し、社会の混乱を招くからだ。

障害者の差別を解消する社会のあり方(企業)としては、「努力義務」という法的根拠があることで十分であり、法律ではなく、人の善意によってなされ、それを施しを受けていると思わずに、お互いの存在に感謝し合う社会こそ健全な社会であると信じる。

リンク先

令和電子瓦版(松田隆氏)
『伊是名氏擁護「障害者はペコペコ」に見えた病巣』

もとみつ【時事ニュース】
『伊是名夏子を擁護のため論点ずらし!!まるで批判してる人が障害者差別をしているかのような印象操作がヤバすぎ!!』

最後までお読みいただき、ありがとうござりんした!

モバイルバージョンを終了