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『TVプロデューサーの「過剰な演出は“やらせ”ではない」発言に反論する!【前編】 ~「演出」と「やらせ」の区別がつかないTVプロデューサーにもの申す!~』

はじめに

今回の記事は「弁護士ドットコムニュース」(4/11)の記事をもとにしています。
記事タイトル:「TVプロデューサーが明かす『恋愛リアリティー番組』の裏側 出演者が追い込まれる背景とは」
著者:津田環(たまき) TVプロデューサー(テレビマンユニオン所属)

この記事に対する反論なので、多くを引用することを述べておきます。
今回、わざわざ「反論する」とした理由は、一点に集約できます。
それは記事中にある「過剰な演出はやらせではない」という文言が看過できなかったからです。(項目タイトルになっていたので、もしかしたら、著者の直接な発言ではないかもしれません)

もし、この文言がなかったら、アチキは読んで終わりだったでしょう。
だが、木村花さんの件にしても、他のリアリティー番組においても、「過剰な演出はやらせではない」という考えが横行することは見逃すことはできないと判断して「反論記事」を書くことにしたことを記事本文に先立って述べておきます。

反論にあたって!

《反論の動機》

反論するにあたって述べておかなければならないのは、問題の記事はBPOが「放送倫理上の問題があった」としながらも「人権侵害があったとまでは断定できない」と判断したことを受けて、制作者サイドに意見を求めたものである。

この構図からは悪質性は感じられないが、著者(TVプロデューサー)の語る内容を読んでいくと、決して見逃せない内容となっていた。
よって、世の中に対して、間違った価値観が浸透しないためにも、反論することにした。

問題の記事を投稿した目的はタイトルから推測すると2つに集約できる。
それは「恋愛リアリティー番組の裏側」「出演者が追い込まれる背景」の2つ。

だが、文章と言うのは巧妙な意図を持たせることもできるし、事実を話しているように見せかけて虚偽の世界に引きずり込むこともできる。
なので、この記事の“真意”“影響”をご意見番なりに深く考えた上で、隠された意図本心本当の目的(意図的ではなくても)を探っていく!

《誰を思っての記事?(誰のための記事)》

記事からの引用

「リアリティー番組など多数のTV番組に関わってきたTVプロデューサー津田環さんは、リアリティー番組特有の出演者の負担感やケアの重要性を指摘します」

と、冒頭で述べているので、この記事の主旨は出演者(恋愛リアリティー番組の)サイドに立ったものの見方をしていると思われる。

だが、津田氏はこう述べている。

「私自身がリアリティー番組を制作してきたこともあり、木村さんが亡くなったことに非常に大きなショックを受けました。今後、制作側はどのような配慮をしていくべきなのか考えていきたいと思います」

つまり、記事を寄稿した意図(理由)は、著者を含めた「今後、リアリティー番組を制作する側が配慮するべきこと」と読み取れる。

記事(論文)の主旨は、「業界の今後」なのだ。

これでは出演者サイドの記事なのか、それとも制作者サイドの記事なのか、人によって感想が変わってきてしまうでしょう。

実は、官僚の答弁書などでもそうですが、核心部分を別の意味を持つ内容でオブラートに包んで論理を展開する、ということが弁論術のひとつにあります。

言論には必ず「意図」があります。
文章には必ず「真意」があります。

しかし、「意図」「真意」を別の話題で“煙に巻く”、または“目くらまし”をする、ということによって聴き手(読者)を最終的に間違った判断(感想)にさせることがあります。

はっきりと白と黒に分けることはできないが、大まかに言って、この記事は出演者サイドに立った意見のように表面上見えるが、奥にある真意は製作者サイドに大きく傾いた立場に立っていると、ご意見番は判断している。

《記事タイトルと著者の“本音”には大きなギャップがある》

このブログの読者は重要な点に気がついてください。
問題の記事のタイトルは、「TVプロデューサーが明かす『恋愛リアリティー番組』の裏側 出演者が追い込まれる背景とは」なのですよ!
つまり、「リアリティー番組制作の裏側」「リアリティー番組で追い込まれる出演者の背景」を語ると“タイトルでは”言っているのです。
ですが!

記事の冒頭でのべているのは、「リアリティー番組制作サイドが今後、どのような配慮をすべきなのか?」ということにすり替わっているのです。
どっちが主旨なのかというと、冒頭で述べていることです。

ただし、ケアの内容等に関しては、正しいことを述べているとアチキは思います。
ですが!

この記事には、意図的か意図的でないかはさておき、リアリティー番組制作における看過できない結論(主旨)となっているとご意見番は判断しました。
それを象徴するのが「過剰な演出はやらせではない」という言葉です。

《TVプロデューサーが語る『恋愛リアリティー番組』の裏側》

TVプロデューサーが語る「恋愛リアリティー番組」の裏側とは?
(リアリティー番組を実際に制作している製作者サイドの人間の認識とは?)

津田氏はリアリティー番組について以下のように述べている。

「テラスハウスなどのリアリティー番組は、何が起こるか分からないというスリル感、想定外のハプニングやトラブル、それによって本当に出演者の心が動く瞬間こそが『ウリ』であり、『おもしろさ』であり、存在意義です」

「どんな名優でも、『演技』と『素顔』の差は、視聴者にはわかってしまいます。ですので、詳細な台本や、いわゆる『やらせ』演出があると、どんどんリアリティショーとしての番組の質は落ちていきます。ある程度、本人の意思に委ねないと成立しません」

「しかし、出演者はその分、自分の頭で考え、予想し、空気を読んで、どういうリアクションや喜怒哀楽をだしたら、視聴者は喜ぶだろう? 共感してくれるだろう? と、常に緊張感やプレッシャーのかかる状態におかれます」

〈リアリティー番組がリアリティーとして成り立つためには?〉

この中に、重要な発言があります。
再確認します。

「出演者はその分、自分の頭で考え、予想し、空気を読んで、どういうリアクションや喜怒哀楽をだしたら、視聴者は喜ぶだろう? 共感してくれるだろう?」

これがリアリティー番組を制作している人たちの本音の認識なのです。
何気なく言ったのでしょうが、ご意見番は見逃しません!

これは、「恋愛リアリティー番組」という存在とは? という“定義付け”と大きく関わることです。

視聴者は、「リアリティー番組」とは、場所と時間などをTV局が用意し、その器の中で出演者が、「自分の意思で判断し、自分の責任で行動し、嘘偽りのない感情を見せている」と、思っているのです。
(ただし、「リアルなわけないだろう」という穿った見方をしている人もいます)

別な言い方をすると、「自分の意思で判断し、自分の責任で行動し、嘘偽りのない感情を見せている」から、「リアリティー番組」となるのであり、そこには現実世界と同等のあるものが欠けていなければならないのです。
それは「視聴者の目を気にしない」ということです。

おいおい! 番組に出演して、放送されるのだから、それは無理だろう!
確かに出演者の頭の中から、完全にその意識を取り除くことは無理でしょう。
ですが、「リアリティー番組」と言うからには、現実生活と同等のあり方でなければ「リアル」ではなくなってしまうのです。
視聴者の目がどこかにあると頭の片隅で思っていても、「視聴者の期待」に応えるということがあっては“リアリティー番組”ではなくなっているのです。

それは結局、「台本がなくても見えない既定路線の上を歩く」「脚本がなくてもまるで出演者の本来の感情とは違う感情で行動する」という世界が展開してしまうことを意味しています。
「どういうリアクションや喜怒哀楽をだしたら、視聴者は喜ぶだろう? 共感してくれるだろう?」と、リアリティー番組に出演者が考えたり思ったりしている段階で、それはリアリティー番組ではなくなっているのです。
リアルではないのです。

視聴者の目、視聴者の期待を意識しているということは、「リアル」ではなく、極めて「演技」に近くなっているのです。
ですから、制作者サイドが、本当に「リアル」な若者の恋愛番組を制作したいならば、出演者が視聴者を意識した「喜怒哀楽」「共感」などを考えさせないように細心の注意、最大の配慮をしなければならないはずです。
それを、TVプロデューサーが、「出演者は視聴者を意識した感情の動きや行動」が当然だという発想でいるのなら根本的な認識がズレている、ということです。
そもそも、テレビカメラが入ること自体でリアルが成立するか、という議論さえあるのですから。

ですから、制作者が「リアリティー番組」を制作しようというのであれば、第一に排除しなければならないのは、最後まで取り除かねばならないのは、「出演者が視聴者を意識すること」なのです。

要するに「出演者が視聴者を意識」することは、「リアル」の世界から「やらせ」の世界へ一歩足を踏み入れることになるのです。

本当にリアリティー番組を制作しているというのならば、あるいは“したいならば”、それを如何に排除するかを製作者サイドが最大限の努力をしなければならないのです。

津田氏の発言は、TV業界、制作者サイドの現時点での認識を如実に現わしたことになるのです。
これがTV業界におけるリアリティー番組を制作している業界人の偽ざる認識なのです。
この根本から議論しなければなりません。

〈テレビ局が過去、本気で出演者の精神的なケアをしてきたか?〉

「現実と虚構、両方の自分を常に行き来しているような状態なので、出演者の精神的な負担は、実はバラエティ番組やドラマよりも大きいのです」

テレビ局は、このことをどれだけ真剣に受けて止めているのでしょうか?
どれだけ真剣に対処、対応を取っていたのでしょうか?
木村花さんの件を見る限り、「マジで不十分過ぎる!!」と言わざるを得ません。

要するに、建前では「出演者の精神的な負担のケア」を口にしますが、本音は「視聴率最優先の番組作り」となっているはずです。

本音と建て前を使い分けるのは止めてもらいたい!

「出演者の精神的な負担は、実はバラエティ番組やドラマよりも大きい」のならば、テレビ局には、それ相応の実態のある対策、効力のある対応が求められ、なおかつ既に実行されていなければならなかったはず。
どこのテレビ局に、「リアリティー番組出演者専用の対応策」「リアリティー番組出演者用の注意規定」がありますか?
それだけ力を入れていますか?
実態は違うでしょう。

結局、津田氏の言っていることは“建前のきれいごと”にしか聞こえません。
精神的な面での危険性があると認識を本当にしているのならば、いったいどんな対応、対策をしてきたのかを語ってもらいたかったですね!
実際は、他の番組制作と同じような配慮しかしていないのが実態でしょう!

《リアリティー番組制作者サイドの狙い》

津田氏は、リアリティー番組の制作者サイドの本音をちらっと見せています。

「最近では、すでにSNSやYouTubeの個人アカウントを持っており、すでに一定数のフォロワーやファンがついている若者がキャスティングされる傾向にあります。つまり、彼らのインフルエンサーとしてのSNSの拡散力を、番組宣伝とセットで利用するということです」

「『テラスハウス』の木村花さんも、すでにプロレスというフィールドで活躍していました。そういう新たなファン層を獲得したい、という期待感も背負わされていたのではないかと思います」

これはネット時代における放送局としてのあり方の問題を含んでいます。
若者層を中心として、テレビ離れが進んでいます。
テレビ局としては、何とかそれを食い止めたいと考えるのは当然です。
テレビ局は報道機関としての役割を持っていますが、利益が出なければ潰れてしまう企業体であることには違いありません。
ですから、新しい顧客の開拓、新規事業というような発想は当然あってしかるべきであると思います。
ですが、ここにもテレビ業界の人間の本音(認識)が現れています。

要するに、テレビ業界は、何とかして「SNSを利用しようとしている」のです。
「SNSを利用しようとしている」ということの狙いは「炎上」「バズる」でしょう。

しかし、そこに危険性という大きく、そして新たなリスクがあることに対してテレビ業界は目を向けていないと言わざるを得ません。
それは「何よりも視聴率を優先」しているから、新しい局面における危険性に意識がいっていないのです。
それが不幸にも『テラスハウス』で起こったのです。

要するに、テレビ業界の認識が甘いのです!

津田氏には、そうした意図はないでしょうが、ご意見番には津田氏の発言が、木村花さんの件のテレビ業界の責任を露出させたように見えるのです。

「SNSの拡散力を、番組宣伝とセットで利用する」

だから、ネットフリックスで先行配信されて木村花さんがネット上で誹謗中傷されていたにも関わらず、地上波で放送したのです。

それは、どんなに言い訳しても、意図はなかったと主張しても、結局、「炎上を利用して視聴率を稼いだ」としか言えません。
つまり、出演者(木村花さん)の精神的なショックよりも、ネットで盛り上がっていることを利用して視聴率を稼ぐことを優先したということです。
出演者の心のケアなどという姿勢はどこを探しても見当たりません!
このことを大切な娘を失った母響子さんになんと説明するのですか?

《制作者サイドが考える出演者のケアについての認識は?》

津田氏は出演者のケアについて以下のような発言をしています。

「また、大人に『悩みを打ち明けて』と声がけされても、親や先生に言われているのと同じで、なかなか本音をさらけ出すことはありません。大抵、イヤなことがあっても胸の内に秘めて我慢しています。なので、日々の撮影中の中で、痩せたか太ったか、顔色や吹き出物の有無、持ち物の変化、SNSでの発言や頻度などを、丁寧にみながらケアしていく必要があるのです」

ごもっともでござりんすが、いままでやっていないのでしょうか?
だとしたら、問題ですな!

アチキが注目したいのは次の言葉です。

「しかし、問題は、誰がフォローできるのか、という点です」

津田氏は、さらに具体的に指摘しています。

「駆け出しの出演者は、マネジャーは掛け持ち担当するなど、万全なバックアップ体制があるとはいえません。そもそも事務所は、駆け出しのタレントの場合には、次の仕事が来なくなることをおそれて、演出に気を遣い、文句やクレームを言わない傾向にあります」

いやいや、制作者サイドはそれを承知で駆け出しのタレントなどを出演させているのでしょう?
であれば、制作者サイドに責任が生じるはずです。
これは巧妙な責任の言い逃れです。

所属事務所からのフォローが十分でない出演者を選んでおいて、そうした人たち(出演者)にはフォローが十分にされていない、だから・・・?
だからこそ、制作者サイドが責任を持つ体制、制度、規定、意志、を持つのでしょう?
津田氏の、制作者サイドの言い訳にしか聞こえない状況説明は続きます。

「現在のテレビ番組制作は多くの場合、テレビ局から制作会社に発注受注が行われています。さらに現場では、孫請け会社や期間限定、番組限定の派遣、非正規雇用スタッフなどが働いている状況です。その状態で、フジテレビのテラスハウス担当プロデューサーは、仕上がりチェックと、視聴率などの成果について意見は述べますが、現場の状況や進行について、ほとんど把握していなかったのではないでしょうか」

この部分が津田氏の寄稿の核心部分だと、ご意見番は見ています!

日本語の文章は、前半に「前置き」「見せかけの論理」「本音の主旨と違う論理」などを持ってきて、「後半」または「最後」で「本音」「主旨」がでることが多いものです。
ですから、日本語の言葉は、最初から最後まで読まないとわからないことも多く、場合によっては前半の主張が後半で覆っていることもあります。
そうすると前半の主張が読者の頭の中にありますので、それが肯定なら肯定している主張と思い込み、反対なら反対している主張と思い込んでしまうことがあります。

ズバリ言います。
テレビ業界の「下請け」「孫請け」などは世間で知られている常識です。
だから、なんですか?
だから放送権を持っているテレビ局には責任がないというのですか?
実際の製作は別会社がやっているから、どうなっているのか、どう作られているのか、細かいところまで知りません、だから責任がないというのですか?

アチキには、放送権を持つテレビ局には責任を負わせるのは酷だと主張している、としか聞こえませんが?

だが、企業活動において、いかに下請けをしようが孫請けがいようが、最終的責任を負うものは、テレビ業界においては著作権(放送権)を持つ存在です。

責任逃れは止めなさい!

ここで「フジテレビ」「テラスハウス」という言葉が出て来ています。
この問題に対して身内であるTVプロデューサーから援護射撃をすることが、この寄稿の真の目的(意図)であると、ご意見番は判断します!
いかがか?

《「不利な同意書」?それとも「出演契約書」?どっち??》

津田氏が、インタビュアーの質問に答えている場面で問題がある。

インタビュアーの質問は?

「今回、木村花さんは、番組に迷惑をかけたら損害賠償を負う、というような、非常に本人にとって不利な同意書にサインをさせられたそうです」

津田氏の答えは?

「個人のSNSアカウントや、拡散力を番組宣伝の場として利用するのであれば、番組制作サイド、特に発注側であるテレビ局が責任を持って、誹謗中傷などへの法的措置を取ること、仮にトラブルが発生した際には、訴訟費用の負担などを行うと、ちゃんと出演契約書に明記することを徹底していく必要があると思います」

えっ?
何が問題なのか? って思いましたか?

これは、SNS対策と法的な保護、対等な契約書の必要性を議論している“質疑”であるはず。
質問では「不利な同意書」という言葉を使用しているが、実際は「誓約書」である。
「同意書」と「誓約書」では、似たように感じるかもしれないが、「誓約」という言葉は「同意」よりも、さらに重く強い縛りを負わせるものである。
しかし、津田氏は「契約書」という言葉を使用している。

「契約書」と「誓約書」では、出演者にとって天と地ほどの違いがある。
「契約書」とは、権利義務を持つ当事者間での制作におけるさまざまな業務事項に関する合意であり、平易な言い方をすると製作者サイドと出演者の両者での「約束事」である。
だが、「誓約書」は、製作者サイドが出演者側に対して一方的に従わせるものである。
つまり、テレビ局が製作者サイドに有利なように出演者に押し付けるものである、と言う違いがある。

本来、『テラスハウス』で問題となったものは、「誓約書」であり、「誓約書と同等の意味を持つもの」である。
(もし、テラスハウス製作者サイドが「誓約書」という名ではないと否定するならば)

質問者の「不利な同意書」という語彙を、津田氏は「出演契約書」という語彙に変換して回答している
これが実に巧妙な点であり、言論戦におけるイメージ戦術なのだ。

「出演契約書」であれば、通常のビジネスにおける議論に過ぎなくなる。
だが、「不利な同意書」であれば、そこに人権侵害や製作者サイドの責任が問われることになる。
この“語彙のすり替え”「悪意ある詭弁術」であると、ご意見番は指摘しておく。
この語彙のすり替えによる、問題の本質を変えてしまう返答の中に津田氏の心の奥底の本心があると見ている。

津田氏は、「出演者は、制作コンテンツの顔であり、大切に扱われなければならず、また、発注側と対等な立場でないといけません。出演者も、現場のスタッフも、使い捨ての商品であってはならないのです」と主張している。
出演者のことを思っている意見であり、すごくまともな考えである。

だが、こうしたまともな意見、出演者サイドに立っているかのように見せる意見を混ぜることで(あるいは混ざることで)言論にスモークをはる効果が生まれる。
それは・・・?

《リアリティー番組を制作するテレビ局の本音》

津田氏は、恋愛リアリティー番組をテレビ局が制作する大きな理由として、「制作コストの低さ」をあげている。
恋愛リアリティー番組の制作費は、ドラマなどに比べて破格に安いのだ。

〈恋愛リアリティー番組が制作される本音とは?〉

出演者のギャラが安い。
街中やレンタルハウスなどのロケで済むので、大きなセットを組む必要がない。
日常生活をドキュメンタリー風に撮影するので、大人数の撮影技術スタッフが必要ない。
なのに、既存の番組よりも視聴率が取れる。

ビジネス的には、その通りだろう。
だが、テレビ局には、そうした「ビジネス感覚しかない」のだろう!

それが問題であることに、テレビ局(製作者サイド)が気づいていないことこそ問題である。

《TVプロデューサーの結論》

結局、津田氏の主張をよくよく読み込んでいくと、伏流水のように地下に流れるものがある。

それは、テレビ局(製作者サイド)の「弁明」であり、「擁護」である

表面上は、出演者のケアを大切にする、という主張を展開しておいて、一番肝心な主張は暗に含ませながら、読者の目を眩ませようとしている。
少なくともご意見番は、そう判断した。

ただし、「業界の問題点を浮き彫りにした点」「出演者のケア」に関する主張には同意と評価をしている!

だが、それでも津田氏の主張の行きつく先は「過剰な演出はやらせではない」ということを暗に示し、製作者サイドの裏事情を語ることで「木村花さんを追い込んでいったフジテレビ側には責任がない」と擁護している内容になっていると判断した。
(意図的か、無意識かは別として。別であっても問題があるとご意見番は判断した)

(情報は、「弁護士ドットコムニュース」(YAHOO!ニュース))

【後編】につづく。

最後までお読みいただき、ありがとうござりんした!

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