『プロパガンダ・リテラシー(3)~プロパガンダの定石Part2~』

『(3)~プロパガンダの定石Part2~』

これまでの記事

『(1)~プロパガンダとは何か?~』
『(2)~プロパガンダの定石Part1~』

プロパガンダの定石

《プロパガンダの定石4》

『プロパガンダの見抜き方』より引用

真実は無視しても構わない。
有利な認識を形成できれば、真実でなくてもかまわない。あるいは真実を無視してもかまわない。

〈真実は無視してもかまわない〉

烏賀陽氏はこう指摘している。
「プロパガンダのゴールは『真実を知らせる』ことではない。『情報を受け取る人の認識や思考を、自分に有利なように誘導すること』である」と。

通常、報道とは「真実や真相を知らせること」であるが、プロパガンダは全く異なり「真実を隠したり、捻じ曲げた情報によって発信者に有利になるように受け手の認識を誘導する」ものなのです。だから嘘をついても情報が正確でなくてもいいのです。
つまり、プロパガンダとは情報操作であり洗脳(マインド・コントロール)そのものなのです。
ただ、軽度の場合、単なる「宣伝」の役割しか持たない事も事実であるが、発信された情報の発信者の目的と動機によって違いが出てくると言わざるを得ない。

「有利な認識を形成できれば、真実でなくてもかまわない」というよりも、「有利な認識を形成するために、真実を捻じ曲げてでも他人の認識を変える」と言った方が正確だろう。
要するに、プロパガンダとは真実の探求ではなく、知る権利を担保するものでもなく、人々の選択の自由を守るものでもなく、逆に思考や選択の自由を奪うものでしかないということ。
「真実」とは、知的努力によって探さないと見つからないものでもあるが、「プロパガンダ」とはもっともらしい事やきれいごとを示すことで人々の思考能力を停止させるものなのです。

《プロパガンダの定石5》

『プロパガンダの見抜き方』より引用

切り取りは有効である。
「フレーミング」を用いよ。すなわち発信者にとって都合のいい事実だけを切り取って流し、それが全体であるかのような認識を広めるべし。

〈切り取り(フレーミング)〉

ここでいう「切り取り」とは、プロパガンダとしての役割を担うものであり、情報の発信者側に有利になるように、現実の一部だけを額縁にいれるように切り取って見せることです。こうした手法を「額縁化」あるいは「フレーミング」と呼ぶ。
重要な点は、切り取った一部があたかも全体のことであるかのような“錯覚を起こさせる”ことである。
これは特定の組織や特定の問題の全体を錯覚させるために、都合の良い部分だけを切り取って認識を誤らせる(誘導する)という悪質な手法です。

これは「宣伝」「営業」で常時使用されている手法でもあります。何らかの商品を購入して欲しい場合、ターゲットの顧客層に購入して欲しい商品のメリットや良い点、優れた点に焦点を当てて(切り取って)購買意欲をかきたてます。
決してデメリットを詳しく説明したり、他社の商品と比べたりして劣った点を強調することはありません。むしろその逆で他社の商品と比べて自商品が優れている点に絞って(切り取って)商品の宣伝または営業をします。
しかしこの場合は、その商品を顧客が気に入り、満足すれば、何の問題もありません。なぜならば、顧客が断ろうと思えばできるからです。
プロパガンダは思考と判断を誘導するものなので、考えているようで考えていない、自分で判断しているようで判断していない状態なので、これは明らかに「自由」を奪うものなのです。ただし自由を奪っていると思わせずに奪う高等作戦ですが。

烏賀陽氏はメディアに関してこう言っている。

『プロパガンダの見抜き方』より引用

日本の新聞・テレビといったマスコミは、政府がつくったプロパガンダを検証したり、反駁したりする姿勢がほぼ皆無である。
~中略~
権力を監視する「フェイルセーフ」がないという点で、民主主義社会にとって危険ですらある。

ネット民はとっくの昔に、マスメディアが国民の側にいないこと、真実を伝える報道機関では無いことを承知している。
本来、マスメディアの役割とは権力を監視し、国民が国民自身では得られない情報を伝えることによって正しく社会的判断ができるようにすること。これは「国民の知る権利」を守る役割があるということ。
重要なことは、マスメディアが政府などの権力に対して監視、検証、反駁しないこと、そのこと自体が民主主義を危険にさらしているということ。だが、現実にはそれでは済まず、国民に対してプロパガンダを流す側に位置していることは間違いない。
つまり、政治権力とメディア権力が結びつき、主権者である国民を欺いているのだ。

《プロパガンダの定石6》

『プロパガンダの見抜き方』より引用

ほんの少しの事実と大量のフィクションで構成するのが効果的である。

〈少しの事実と大量のフィクション〉

詐欺師の手法は「事実の中に嘘を混ぜて信じ込ませる」ですが、プロパガンダの手法も同じです。プロパガンダは100%虚偽・虚構だとうまく作動しないことがあるのです。人々を信じ込ませるためにはどこかに真実、事実が入っていた方が効果的なのです。
つまり、すべてが真実ではなくてもいいが、真実が皆無だと効果が薄くなるということ。
プロパガンダにおける真実と虚偽(嘘)の役割は、「真実(事実)」が入っていることによって受け手の信用を得られ、「虚偽(嘘)」を入れてあることによって特定の情報を植えつけることができる、という関係にあります。
ですから真実(事実)と虚偽(嘘)をセットにする必要があるのです。人々は真実と虚偽を混ぜられるとどこが真実でどこが虚偽なのかを見分けることが困難となってしまうのです。見抜くためにはその情報における専門知識、高度な判断力、鋭い分析力などが必要となるからです。

嘘で塗り固めた情報を信じ込ませるのは容易ではない。嘘で塗り固めた情報を信じ込ませることができるのは、カルト宗教とその信者の関係性が築かれていなければ難しい。
だから特定の意図を含んだ虚偽(嘘)を信じ込ませるために、最低でも数%は事実または真実を入れなければならない。人々の反応は、たいていの場合、全体的判断に帰結する。
これは一部に違和感があったとしても、事実または真実だと確信できる情報(内容)があるとそれを理由として「全体が正しい」と判断してしまう。つまり、違和感がある部分、嘘臭い部分があっても、そちらではなく事実と自分が判断出来る部分に依存して全体を判断してしまうということ。
もちろん、部分と全体を分けて考え判断できる人もいるが、それには専門知識や高度な知性的判断能力が必要となる。さらに「思い込み」「決めつけ」「安易さ」「他者依存」などの姿勢を排除しなければならない。
物事を自分で考えて判断するということは、実は“しんどい”ことなのです。
そこには知的鍛錬の継続があってこそなのです。

《プロパガンダの定石7》

『プロパガンダの見抜き方』より引用

自分の失敗や相手側の成功はできるだけ重要性が小さいように扱え(あるいは自分の失敗は、相手側がやったことにする)。反対に自分の成功はできるだけ大きく扱え。

〈自分の失敗と相手の成功は小さく扱う〉

このプロパガンダの定石を使用している国政政党があります。
お気づきでしょうか?
(もちろん大なり小なりどこの政党でもやっていることですが)

「自分の失敗を小さく見せる」ということは如実知見ができていないから。ものごとをありのままに、実直に、素直に受け入れてこそ知的向上はある。だが「自分の失敗を小さく見せる」ということは、虚栄心、名誉欲がそこにあってこそであり、その心情は己を高く見せ、間違っても低く評価されることを嫌っているということ。
「相手側の成功はできるだけ重要性が小さいように扱う」ということは、相対的に己が小さく思えてしまうので悔しくて仕方がないから。こうした負の思考は一般的には「負けず嫌いの性格の人」に多く見られるものです。
「負けたくない」という強すぎる気持ちが己を実力以上に高く見せ、逆に相手を正当な評価を下すのではなく極力小さく見ることによって、己の自尊心を保つという人間がいる。
組織というものは、その組織のトップの性格、性質となるため、法人や政党という組織であっても一定の人格的な要素があると見てとれる。

さらにもっとひどいものが、「自分がやった失敗は敵がやったことにする」という悪質な手法を取ることがある。
例えば、その組織に所属していた人間がその組織の悪質性に気づき、騙されてしまった自分を責め、責任の重さに耐えられずに自ら命を絶つという事件が起きた場合、内部に責任や要因があると考えるのが筋であるにも関わらず、敵対する人や勢力の攻撃によって自死したなどと責任転嫁する集団と人間がいる。
私は悪質な言論を使う者とSNS上で対決してきた経験があるが、たいていの場合この「白と黒を入れ替える論法」を使う者が多い。
本当は加害者なのにもかかわらず、被害者側だと主張して加害側と被害側をひっくり返す者たちがいる。これはまさに悪魔の発想と言える。

最悪なのは自らの失敗や罪などを無いことにすること。

プロパガンダの定石8》

『プロパガンダの見抜き方』より引用

記憶の上書きをせよ。

〈記憶の上書きをせよ〉

自らの失敗や罪などを無いことにすることにするためにどんな手法(プロパガンダ)を使うのか?
人間は古い記憶より新しい記憶をより鮮明に思い出す傾向性がある。だから、人々が忘れて欲しい記憶を消すことができないならば、新しい記憶で上書きして実質的に不都合な記憶を消し込んでいく
つまり、新しい記憶によって古い記憶の印象が薄まるか消える効果を狙って、別の情報を植えつけて新しい記憶で古い記憶(知られたくない記憶、忘れて欲しい記憶など)を消し込んでいく。この役割を果たすものこそがプロパガンダなのです。

この手法は単に情報だけではなく、建物などさまざまなものに使うことが出来る。
よくあることだが、ある土地で建物が解体され、さら地になる。その後に別の建物が建つ。
「あれ? ここ昔なんだったかな?」なんて思ったことありませんか?
これも古い記憶が新しい記憶に入れ替わったことの一例です。

逆もあります。
ある出来事を風化させないために、人々の記憶が薄れないように、世間が忘れないようにと願って悲劇が起きた現場や建築物をそのままにしたり、慰霊碑など悲劇を伝えるものを残すことで記憶が古くなって風化しないように防ぐことがあります。
例えば広島の原爆ドーム、例えば御巣鷹山の慰霊碑など。

《プロパガンダの定石9》

『プロパガンダの見抜き方』より引用

現実そのものを改変、加工せよ。

〈現実を改変または加工する〉

プロパガンダとはマスメディア上の文言や映像などの情報にとどまりません。上記で示したように建物などの建築物や催しなどにも用いられます。
上記の事例で言うと原爆が落とされた二か所で違いが出ていると言わざるを得ませんがその理由が、広島では原爆ドーム等を残したが、長崎では広島の原爆ドームのような“象徴的な建物”を残さなかった点にあります。
長崎のケースがそうなのかはわかりませんが、一般的にプロパガンダが発動される場合、「証拠隠滅」のために新しい建物を作って記録を入れ替えることが多いものです。

「現実そのものを改変、加工せよ」というプロパガンダは、単に思想や情報のレベルで思考をコントロールするだけにとどまらず、目に見える形で現実を変えていく点に違いがあります。
現実の建物、街そのものなどがガラリと変わってしまうと、人々の記憶が薄れ、別の記憶と入れ替わっていくことになるのです。そのために“現実世界の何か”を変えていくということです。

《プロパガンダの定石10》

『プロパガンダの見抜き方』より引用

分断は有効である。
グルーピングをせよ。「われわれ」と「彼ら」と分けよ。

〈分断は有効である〉

社会心理学の分野で「グランファンルーン・テクニック」と呼ばれる定理があります。それがどういうものかというと、「意味のないグループを作って集団を分けても、集団に誇りを持たせれば、所属者は同一グループの所属員に好感を持つ」という現象が起こることです。
これは要するに意図的に分断を作る手法または分断を強くする手法です。
「われわれ」は優れている、社会を変えられる、選ばれるべきなどの価値観を共有する一方で、「彼ら」は劣っている、改革などできない、選ばれる価値などないとしてベルリンの壁のような分断の壁を作ることで意図的に対立構造を生み出す手法です。
この手法は、「われわれ」には一致団結を固め、「彼ら」には弱体化を促すものです。

こうした「われわれ」は優れているが、「彼ら」は劣っているとする価値観が心の底に入り込むと特定の人たちからは支持されるがその他の人々からは支持されないという傾向性ができあがります。なぜ「私たち」の勢力が拡がらないのかと言えば、「われわれ」は優れているという傲慢さを持っているからなのです。

この手法をヒトラーが使ったことは有名です。
「優生学」と言われる腐った説がありますが、特定の民族(ドイツ民族)は他の民族よりも優れている。だから他の民族を排除、支配してもいいんだ、という論理です。
植民地支配も根底にはこうした思想の上にあります。
これらは「われわれ」と「彼ら」というグルーピングをしているのです。
「人類皆兄弟」「人類は皆尊い」とは考えず、特定の民族と他の民族を分け、さらに上下をそこに入れることで支配する者と支配されるべき者を分けていくものです。

アンソニー・プラトカニス、エリオット・アロンソンの著書『プロパガンダ』では以下のように語っている。

『プロパガンダの見抜き方』より引用
(『プロパガンダ』より引用)

①「私はこの集団のメンバーだ」という知識を持つことによって、人は世界を分断し、それに意味を与えることができる。(中略)集団間の違いが誇張される一方で、同一集団のメンバー間の類似は「これがわれわれのタイプである」という固い信念によって強調される。そこで、外集団のメンバーが非人間化される。
②社会的集団は自尊心やプライドの源泉となる。(中略)集団がメンバーにあたえてくれる自尊心を得るために、メンバーはその集団を防衛し、集団のシンボルや儀式や信念を受け入れるようになる。

私は所属する集団に意義や意味を見出し、誇りを持つこと自体には何の問題もないと考えるが、その前提となる「その集団がどんな人たちの集まり」なのか、あるいは「その集団の真の目的と動機は何か」という点が誇りを持つに値するかどうかを決めると思っている。良識ある人々から見て、その集団が持っている「誇り」が不当なものであるとされるケースのなかに該当してくるのが「カルト宗教」または「カルト集団」なのです。
ここでいう「カルト」の意味は、人類の智慧や倫理に反する価値観を有している集団、あるいは自集団のみが優越感に浸り、自集団に属さない人々を蔑むような価値観を持っているという意味を含んでいる。

問題は同一集団間で共有される価値観のなかにある。それは「これがわれわれのタイプである」、つまり「“われわれ”という概念が定義される」ということであり、その定義を守ると同時にその定義に合わないものを排除していく傾向性が発生すること。
人間は自分が信じたものを無意識に肯定していく傾向性がある。なぜならばその集団を選んだのが自分であり、それが意味することとは、価値ある集団を見つけた自分を評価する、つまり自尊心を満たすことになり、逆に自分が選んだ集団を認めないということは、その集団を選んだ自分の自尊心を傷つけることだと無意識に自覚し、自分が選んだ自集団を批判する者を排除、攻撃するようになる。

ここで特定の集団の事例を提示します。
参政党がやっていることは、自集団を英雄視し、参政党を批判する人たちを「非人間化」することでしかない。

ここで出てくるのが「レッテル貼り」あるいは「ラベリング」という手法です。

『プロパガンダの見抜き方』より引用

つまり「レッテル」と「ラベル」は元の言語が異なるだけで、原義は同じである。「内容を文字に書いて容器に貼り付け、外から容易に認識できるようにする」ことだ。

ネット上でよくみられるのが「ネトウヨ」「パヨク」などのラベリング。
上記で参政党の事例を出したが、参政党は自分たちを批判する人たちにこう言う。
「あなたは反日ですか?」「あなたは日本人ですか?」と。言われた人からすれば、反日である、日本人じゃないと言われていると受けとめることが出来る。最低限疑いを持って白い目で見られていることになる。これは失礼極まりないことでしかない。
この意味は、参政党を支持せず逆に批判や非難する人間は「すべからく日本人にあらず」「すべからく愛国心がない非国民」ということを端的に主張することでラベリングしている。
この超短いフレーズに収めること自体が実はプロパガンダ的要素を持っている。

この「レッテル貼り」「ラベリング」を根拠なく、客観的な論理もなく使う者は「悪」だと言っておく。人を騙すような連中は必ずと言っていいくらいこの「レッテル貼り」「ラベリング」を使う。根拠なく、客観的な論理もない「決めつけ」によってなされているということ、「決めつけ」という非論理的、非証明主義を使用すると誰でも何にでも使用できてしまい、敵対者を攻撃するための使い勝手のいい武器となる。

プロパガンダそのものには、正当な定義や客観的な論理がまず見られない。
「何となくそう思える」というレベルのものがほとんどである。
この「決めつけ」による「レッテル貼り」の手法を常時使うとどうなるのか?
バカになる。当然です。真実を探す努力もせず、白紙の目で情報を見ることもなく、批判的思考を働かせることもなく、客観的な意見に耳を傾けるのでもなく、思考回路を総動員して分析するのでもなく、ただただ無思考で決めつけるので、知性が発達しない。増えるのは知識であって知性ではない。この「知識」と「知性」の区別がつかない者がいる。いくら知識を増やしたからと言ってソクラテスのような賢者になるわけではない。性根が腐っていれば逆にその知識からは腐敗臭が漂ってくる。知識は正しい目的と純粋な動機、知的正直さと向上心があってこそ「知性の輝き」となる。

実はここが重要なポイント。プロパガンダのプロパガンダたるゆえんは「大衆操作」にある。操作(コントロール)する対象である人々が物事を鵜呑みにせず、批判的思考を手放さず、分析力と洞察力を働かせるならば、「大衆操作」は不可能となるからだ。
だからプロパガンダがプロパガンダとし機能するためには対象者を「無思考人間」にする必要がある。
この「無思考人間」を一般的な言い方をすると「カルト信者」という。

なお、「分断」という手法を常套手段としているのがディープステート(陰謀団)です。
「分断」とはグローバリストたちが十八番(おはこ)とする手法だということです。
(もちろん、グローバリスト以外が使用しないということではない)

《プロパガンダの定石11》

『プロパガンダの見抜き方』より引用

間違っているのは彼らだ。
「われわれ」は正しく、「彼ら」は(事実において、道徳的に、科学的に、法的に、など)間違っていると主張せよ。

〈我々は正しく彼らは間違っている〉

上記のプロパガンダの定石をよく読んでください(正しく理解してください)。

「間違っているのは彼ら(批判者、敵対者)だ」、「“われわれ”は正しく、“彼ら”は間違っていると主張せよ」という一見すると主張や反論に思えるこの論法も実は「プロパガンダ」の役割を持っているものなのです。
つまり、意図的な仕掛けがそこにあるということ。その仕掛けとは、敵対者を退け、自分たちが有利になるように世論を誘導することに他ならない。
これは悪質な論法であり、悪魔が使用する論法なのです。

そもそも「間違っているのは彼ら(批判者、敵対者)だ」という主張(本当はプロパガンダ)は、根拠を持つものでなくてはならず、また証明できるものでなければならないのです。論理や証明がなく「決めつけ」でしてはいけないものなのです。もし「決めつけ」でするならば、「悪意あるレッテル貼り」でしかないのです。
これは深い思考を働かせることなく簡単に批判者を退け、なおかつ自分たちの正当性を主張する反論に見せかけたプロパガンダそのものなのです。

重要なことは、「“われわれ”は正しく、“彼ら”は間違っている」と繰り返し強く発信すると事情(状況)を知らず専門知識がない人はその主張(プロパガンダ)を信じ込んでしまうのです。そう、それが“狙い”なのです。

この手法を常時使っている新規勢力の政党があります。
どこだかわかりますか?
分からない人はプロパガンダにやられている人です。

私は悪質な言論術を使う人間たちと論戦したことがありますが、彼らは必ずと言っていいくらい自分の罪や間違いを認めません。必ず指摘されたことをひっくり返そうとします。
白と黒をひっくり返すこの論法(反転の論法)はまさに悪魔の論法と呼べるものであり、問題は単に白と黒をひっくり返すことにとどまらず、それ自体がプロパガンダの意味を持っていることなのです。

重要な点を指摘します。
なぜこれがプロパガンダの役割を持つのかという点です。
それは「“われわれ”は正しく、“彼ら”は間違っている」という主張は、本当に正しい側の人も使うが、プロパガンダを仕掛けている側も使うことです。
ですからそれを判断することは事情が分からない人、関係する専門知識を持っていない人にとってみれば判断できないことになるのです。
上記の事例の一つが「新型コロナウイルスワクチンの問題」です。

『(4)~プロパガンダはあなたの日常に潜んでいる!~』につづく

参考書籍(引用元)

書籍名:『プロパガンダの見抜き方』
著者:烏賀陽弘道 (うがやひろみち)
出版社:新潮新書 (新潮社)

最後までお読みいただき、ありがとうござりんした!


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