『“保守の憲法論”最終結論【日本国憲法日本製編】(鈴木安蔵・憲法研究会の章)⑦~占領革命~』

【日本国憲法日本製編(鈴木安蔵・憲法研究会の章)⑦】~占領革命

これまでの記事

【日本国憲法日本製編(鈴木義男の章)①】~鈴木義男という人物について~
【日本国憲法日本製編(鈴木義男の章)②】~鈴木義男の新憲法制定への関与について~
【日本国憲法日本製編(鈴木義男の章)③】~憲法改正における鈴木義男の功績について~
【日本国憲法日本製編(鈴木義男の章)④】~日本国憲法“日本製”論を否定する~
【日本国憲法日本製編(鈴木安蔵・憲法研究会の章)⑤】~鈴木安蔵と新憲法制定~
【日本国憲法日本製編(鈴木安蔵・憲法研究会の章)⑥】~憲法研究会草案(要綱)を考察する~

占領革命

《憲法は歴史の転換点に生まれる》

書籍『日本国憲法の誕生』より引用

憲法はつねに歴史の転換点に生まれる。その意味では旧勢力の代表者である近衛が憲法を起草すること自体が異例であり、新しい時代を担う人々によって憲法が創られることの方が当然であったと言えよう。しかし戦後が革命ではなく、旧勢力が依然政権の座にあったことから、憲法は「官」の創った憲法草案と「民」の創った憲法草案とに分類された。後者は「民間草案」と呼ばれる。

〈マッカーサーによる憲法改正の示唆〉

マッカーサーが一番初めに憲法改正の“示唆”したのは近衛であることは知られていることだが、その後幣原内閣が誕生したこと、近衛に戦犯容疑が浮上したため、GHQ(マッカーサー)は近衛への憲法改正の示唆を“事実上”撤回した。マッカーサーから憲法改正の示唆を受けた幣原喜重郎は、「憲法問題調査委員会」を設立した(委員長は松本丞治)。
この「官」の憲法改正の動きとほぼ同時期に動いていたのが「民」の憲法改正草案を作成した憲法研究会であった。

この「民間草案」は明治時代からすでに存在していた。明治の自由民権運動の中で作られた日本憲法史案は「私擬憲法案」と呼ばれ、確認されているだけで68あったと言われている。一方敗戦による憲法改正での民間草案(私擬憲法案)は十数種しかない。つまり、民間による憲法草案の動きは明治期の自由民権運動の方がはるかに活発であったということ。
ただし、これは状況に違いがあるので一概に明治期の自由民権運動が優れていたとは言い難い。自由民権運動時の私擬憲法起草の動きは明治憲法がいまだ制定されていない社会であり、敗戦による民間草案の動きは公式にはGHQから当時の政府への示唆(実際は命令と同じ効果を持つもの)が本流であって、すでに明治憲法(大日本帝国憲法)が存在していたため、当時の保守系の人々にとっては明治憲法を改正するという明確な意識はなかったと言える。その証拠に、近衛草案、幣原内閣による松本草案は明治憲法を少しだけいじっただけの改正案でしかなかった。その内容はポツダム宣言が要求する「民主主義国家の憲法」とは言い難いものであった。

〈占領革命〉

ここで重要なことは、その当時の主流派とは“天皇制国家支持者”であること。一方、敗戦まで弾圧を受けたり、肩身の狭い思いをしていた現代で言うところのリベラル派(社会主義者、共産主義者)は、明治憲法を死守するという概念時代がもともとなかった。自分たちを迫害してきた社会規範の基にあるのが明治憲法なのだから当然と言える。この立場上の違いが憲法改正案に反映されている。
むしろリベラル派たちは、この機会に社会の法秩序を変えることを望んでいたという方が正解に近いだろう。
それこそが明治憲法を否定する民主主義的な憲法であり、天皇が主権を持つことを奪う国民主権の憲法である。
こうした当時の社会事情と立場を理解することなくして、憲法制定過程を正しく理解することはできない。

ただ『日本国憲法の誕生』の著者である古関彰一氏の言葉に反論する。
「しかし戦後が革命ではなく、旧勢力が依然政権の座にあった…」
旧勢力が権力の座にあったことは確かであるが、戦犯とされた権力者は排除され、公職追放令によって多くの主流派も排除されている。
前半部分の「戦後は革命ではない」としているが、GHQの占領政策の本質とは「革命」に他ならない。GHQによる占領革命とは、天皇制国家の解体であり、米国と同じような民主主義国家への変貌、さらには日本人の持つ精神性の破壊を企てたことは間違いない。
確かに内側からの革命ではなかったことは明らかだが、占領という支配力を背景にして強制的に日本国のあり方を変えたことは明白である。これを革命と見ずに何とするか。

《高野岩三郎と鈴木安蔵》

民間草案を考える上で決して見逃せないのは憲法研究会の作成した草案(綱領)であることは間違いない。その他の民間草案はほぼ世の中には知られていない。
前記事で少し語ったが、憲法研究会という民間組織を創設したのは高野岩三郎という人物である。

高野は東大教授をしていた頃は「統計学」を教えていた人物で、兄の房太郎が労働運動家をしていた影響で労働問題に関心を持ち、東大を辞職して1920年大原社会問題研究会を立ち上げ、自ら所長となった。
敗戦をむかえた時はすでに74歳と高齢であったが、当時の圧政から解放されて水を得た魚のごとく活動を開始した。
同年9月、社会党の再建を目指して安部磯雄、賀川豊彦らとともに民主主義的な社会と文化の建設を目指して「日本文化人連盟」を結成する。
社会党は11月8日に「新憲法の骨子」を発表している。
その少し前の10月29日、日本文化人連盟の創立準備会の折、出席していた在野の若い憲法研究家に近寄って「民間で憲法制定の準備、研究をする必要があるから、やってくれ」と提案する。
このとき提案された若い在野の憲法研究家こそが鈴木安蔵である。

《憲法研究会草案がGHQ草案に多大な影響を与えた?》

小さな知識人のグループであったが、後にGHQが草案を作成するにあたり、この研究会の起草した草案が多大な影響を及ぼしたことで知られている。

〈GHQの狙いとは?〉

誰も論じないポイントがある。
「なぜ、民間のグループである憲法研究会の草案がGHQ草案に影響を与えたのか」と言う点だ。

これはすでに少し語っているが再度語ることとする。
敗戦によって日本国はGHQの占領を受ける。占領下に置かれるということは主権がない状態であり、GHQの許可なく政治等を行えないということになる。
重要なことは、GHQによる占領政策だ。
GHQは日本がポツダム宣言を受諾する数年前から日本の文化風習等を調査研究しており、敗戦後の計画を練っていた。こうした事実は歴史上埋もれているが、西洋人とは何事も計画的に動く人種であることを理解するべきだろう。

GHQの狙いは、「戦争の廃止(放棄ではない)」であり、「天皇主権国家から国民主権国家への変貌」であり、「欧米並みの人権が保障される社会の実現」であった。
二度と白人国家に歯向かわないように軍隊を持たない国家とし、戦争ができない国家とすることが占領政策の重要な作戦であった。戦前の日本社会を分析した米国は日本の強さが「天皇制」にあることとし、日本国が将来、再び白人国家に歯向かわないようにするためには天皇制(天皇が実権を持つ国家)を廃止することが必然とされ、そのために国家の主権を国民とすること、国民の自由な総意によって国家が運営される民主主義国家とすることを計画した。
このGHQの政策に合致していた発想を持っていたのが、当時の保守派から弾圧を受けていたリベラル派(主に社会主義者や共産主義者)だった。
GHQが憲法研究会の憲法草案を高く評価した理由とは、自分たちの占領政策と合致していたからに他ならない。ここがポイントである。
もし、憲法研究会の草案がGHQの占領政策とは別の内容を持っていたとしたならば、どれほど良くできた草案だったとしても高い評価は受けなかっただろう。
つまり、GHQには評価の基準が既に存在したのであって、その基準を以て政府の草案、民間の草案などを評価していたということ。
もしも、憲法研究会が草案を作成しなかったと考えるならば、新憲法制定がどうなっていたのかと推測すれば、ほぼ同じような憲法が誕生したはずだということができる。
なぜならば、憲法起草の「原液」が存在し、憲法起草の「指針」が出されていたからだ。

《鈴木安蔵は連合国側の人間と会談していた》

憲法研究会は、新生社の会議室を根城にし、社長の青山から資金援助を受けて活動を始める。
憲法研究会で唯一の憲法の専門家である鈴木安蔵について調味深いことがある。

鈴木が当時書いたものを読むと、もう一つ、GHQの線が浮かび上がってくる。鈴木は創刊まもない『新生』に「憲法改正の根本問題」と題する論説を載せ、「私自身、本(憲法改正)問題の深刻さにやや愕然としたのは、…前後二回に渡る連合国側人との会談によることを率直に告白する」と述べ、「某外交官」と「ウォー・コレスポンデント」(従軍特派員)に会い、憲法改正の根本問題について深く考えさせられたことを述べている。

〈ノーマンの提案〉

つまり、鈴木安蔵はGHQ側の人間と接触していたということ。
著者の古関氏は、「某外交官」とは、近衛戦犯意見書を書いたカナダの外交官であり、当時GHQの対敵諜報部にいたE・H・ノーマンであるとしている。

古関氏によると、ノーマンが9月22日に鈴木宅を訪問し、「徹底的に『国体』の根本的批判をなさしむべきが日本民主主義化の前提と思う」と鈴木に対して語ったという。
その直後に鈴木安蔵はノーマンと私的な会談を持ち、ノーマンから次のような提案をされたという。

一、 国体護持を日本国民が希望するにしても、従来、国体の名のもとに、あらゆる反動的勢力が横行し、封建的帝国主義的政策が強行されたことを考えるとき、もし依然国体問題が無批判のままに放置するならば、再び国家主義的勢力ないし風潮が、国体護持の名分の下に結集し強化する危険がある。徹底的に、「国体」の根本的批判をなさしむべきが日本民主主義化の前提と思う…。
二、国体護持を認むる結果、日本民族は、依然万国に比類なき優秀民族なりとの根拠なき自負心を捨てず、真に謙虚な国際社会の一員たる再出発をなし得ないと思う。

要は、天皇制国家という日本国の「国体」を変えることなくして、国際社会の一員として認められることはなく、日本が民主主義化するためには国体への批判が必要だとノーマンが言っていることになる。

〈特派員の反論〉

もう一人の「特派員」は鈴木に対し、明治憲法第三条「天皇は神聖にして侵すべからず」は改正する要なきや(必要があるか)と質問した。
これに対して鈴木安蔵は、「国家の元首に対する規定としては当然であり、特に日本国民の国民的感情からして、本条の改廃はなさざる方適当と答えた」とされる。
しかし特派員は鈴木安蔵に、「新憲法は、天皇も含めて、一切に対する国民の批判の自由を保障すべきであることにかかわらず、本条を存置するは矛盾と思う」と反論した。

このことは鈴木安蔵及び憲法研究会が起草することに大いに関係してくる非常に重要な出来事である。

「特派員」の質問に対し鈴木安蔵は、「国家の元首に対する規定としては当然であり、特に日本国民の国民的感情からして、本条の改廃はなさざる方適当と答えた」とするならば、いま我々が知っている憲法研究会の草案とは違った内容となったはずである。
当時の日本社会の風潮としては天皇制を廃止するという発想を持つことは出来ない発想であったことは間違いない。
しかし特派員は、明治憲法第三条を残すことと国民の言論の自由を保障することは矛盾すると指摘した。これは天皇制国家(天皇主権)と民主主義国家(国民主権)が矛盾するという指摘に他ならない。
こうした言葉によってマルクス主義を思想の土台とする鈴木安蔵の脳内では何らかの変化が起こったと見ることも出来る。

〈鈴木安蔵にとっての敗戦とは?〉

鈴木にとっての敗戦とは、単なる言論の自由の回復にとどまらず、自らの批判の対象である明治憲法の改正を実践する好機であり、しかもそれが解釈学でなく憲法史とくに自由民権運動の私擬憲法案の研究者であったことから、敗戦の持つ歴史的意味が定まっていたといえる。

鈴木安蔵などのマルクス主義者たちは、当時の保守勢力=権力者側から弾圧を受けた。彼らに力を与えているものこそが明治憲法である。とすると鈴木安蔵が明治憲法を嫌うことはごく自然な感情であり、言論の自由のある社会を実現するために憲法改正を考えても何らおかしくはない。
鈴木安蔵の眠っていた“思想の蕾”を咲かせたのはノーマンと特派員が関係していると見ることが出来る。

〈憲法研究会の草案作成に関する重大な出来事とは?〉

憲法研究会の草案作成に関係する重大な出来事がある。

つまり鈴木は、憲法研究会での活動を開始するに先立ってGHQの憲法にたいする基本的な考えを知る機会を得ていたのである。

憲法研究会の草案の実質的起草者は鈴木安蔵であり、その鈴木安蔵が己の信条や学んだ憲法学から“独自”に草案を作成したことと、GHQの憲法に対する基本的な考え(憲法改正の意向)を知った上で起草したということは、大きな“意味の違い”が発生する。

鈴木安蔵自身が語っているので、GHQの人間及び特派員と接触し、憲法改正についての情報を得ていることは間違いないだろう。
だとすると、憲法研究会の草案とは日本人の完全オリジナルではなく、GHQの憲法改正(占領政策)に合致するような路線の上に起草されたと見ることが出来る。

ただし、古関氏の語っている内容とは違う情報がある。
中野昌弘氏が書いた『論文』「E・H・ノーマン=鈴木安蔵の戦後初会談―その意義と事実関係について」では、問題となる日付けは9月22日ではなく23日であり、古関氏が述べている都留がノーマンを連れて鈴木安蔵の邸宅を訪ねたのではなく、ノーマンが寄宿している都留宅(和田邸)に鈴木が訪ねたとしている。中野氏は「ノーマン日記」「都留日記」等のすべての情報を総合すると「鈴木からノーマンを訪ねた」ということが真相だとしている。

古関氏と中野氏の話は食い違いがあるが、実は古関氏の書籍を読んだ際、私は大いに違和感を覚えた。それは占領者側であるGHQの人間が政府の要人でも公人でもない在野の憲法研究家でしかない鈴木安蔵をわざわざ訪問すること自体が“変”ではないかと感じた。
当時の日本は占領下にあったため、GHQの許可なく勝手に政治等を行うことはできない状況である。また検閲が行われ、いわば日本人は公人か民間人かを問わず監視されている状況にあった。そのような状況下にあって憲法改正案を作成するとすれば、GHQの考え(方針等)を探ることは当然のことと言える。事実、最初に憲法改正を示唆された近衛や幣原内閣で設置された憲法問題調査会のメンバー等もGHQに出入りし、GHQ側の憲法改正の考えを探っている。
こうした観点から判断すれば、訪問したのは鈴木安蔵の方であって、ノーマンではないと考えることで筋が通ると私は考える。

《憲法研究会案の起草》

〈憲法制定の手続きについて〉

憲法研究会は、憲法制定手続きに関して、「日本憲法(明治憲法)は廃止されて、新たに民主主義的原則に基づく憲法が制定されるべきとした。その際、国民自身の憲法制定会議によって決定されることが当然」と主張し、明治憲法の改正によらず、帝国議会とは別に憲法制定会議を設けてそこで憲法の制定をする方法を打ち出した。

これは明治憲法の改正ではなく、新たに新憲法を制定するという手続きの提唱であり、その場を議会ではなく憲法制定会議とするという方法を提唱したということ。

また統治権を「国民より発す」とし、天皇の統治権を否定したが、注目の天皇制については、「我等の主張よりすれば、日本が共和制たることが望ましい。しかし現在の過渡期的段階の実態にかんがみて、しばらく民主主義的性格強き立憲君主制たるを妥当と考える」と改革による存続を打ち出した。

何度も言いますが、「国民主権=民主主義」と「天皇制国家=天皇に統治権がある国家制度」は、相反する国家体制である。もちろん明治憲法下でも国民(当時は臣民と言われていた)の自由はある程度認められていたが、それは「安寧秩序を乱さない範囲」とか「法律の範囲内」という制限がかかっていたことは事実であり、現在の日本国憲法が保障する制限なしの自由ではなかった。
つまり、「国民に主権がある民主主義国家」にするためには、「天皇制国家(天皇に統治権がある国家制度)」を変える必要があり、逆に言うと「天皇制国家(天皇に統治権がある国家制度)」を廃止するためには「国民に主権がある民主主義国家」にすることがベストとなる。
これはコインの裏表なのです。

憲法研究会の第二案では、「日本の統治権は国民より発す」と定め、「天皇は栄誉の淵源にして国家的儀礼を司る」とした。
さらに精神的自由権の総説規定として「学術、言論、宗教等の自由を防ぐる如何なる法令も発布することを得ず」と定めた。

また国民の義務として「民主主義並に平和思想に基づく人格完成、社会道徳確立の義務」が盛り込まれた。

憲法改正手続きに関しては、森戸から「実質はともなく形態上、現行憲法の改正ということでなければならぬ」と提案され、上記の手続き(案)が変更された。
最終的に「憲法改正要綱」と名称が変更され、憲法研究会の草案が出来上がった。

〈鈴木安蔵が10年後に見た国家像とは?〉

決して現代人が見逃せないことは、以下の考え。

「十年後新たに憲法会議を招集」して憲法の制定をすることとし、改正案を暫定的なるものとした。鈴木自身こう修正することに賛成しながら、「わたくし自身も、もしこの程度の憲法が施行されれば、十年のあいだに、国民は思想的にも必然的に一歩前進して共和制の国家形態を要望するにいたるであろうと考えたのであった!」

つまり、鈴木安蔵の憲法改正は2段階を想定していたということであり、現在知られている憲法研究会の草案は暫定的な草案であり、最終的には共和制国家の憲法に変更するビジョンがあったということ。そのために国民の意識が変わるための時間(期間)として十年をおくこととしたということ。
「憲法研究会の草案が日本国憲法の基礎」と主張する人たちに聞きたい。
鈴木安蔵は、共和制国家にするための暫定的憲法改正として「憲法改正要綱」を起草し、最終的には完全に天皇を排除する大統領制(共和制国家)の国家を目指していたということをどう受け止めるのか?

《憲法研究会草案が発表される》

憲法研究会の草案が発表されたのはいつか?

鈴木はここで二つの重要なことを述べている。ひとつは発表日が12月26日であるということ。これはよく研究書などでも「27日」と書かれており、鈴木は別の鈴木の著書で「26日」を強調してきたのであるが、その後も「27日」と記され続けてきたのであるから、こう書くのも無理はない。ところがGHQに提出した英訳には「27日」と日付が入っている。

〈英訳は作成されたのか?〉

鈴木安蔵は英訳文は作製しなかったと言っているし、一般的にはそう信じられてきたが、GHQ民生局で憲法の起草に重要な役割をはたしたアルフレッド・ハッシーの保存文書を古関氏が見たところ、日本人が書いたとしか思えないペン書きの和英両文の「憲法草案要綱」が「憲法草案綱」として入っている。

日付は「昭和20年(1945年)12月27日」となっている。
憲法研究会は、GHQの他に、「憲法草案要綱」を幣原内閣とマスコミにも渡している。

〈GHQの反応〉

GHQは憲法研究会が作成した憲法草案要綱に深い関心を示したと言われている。

なんと12月31日にはATIS(翻訳・通訳部)は翻訳を完成した。そこで、国務省から派遣されていた政治顧問のロバート・フィアリーは、さっそく年明けすぐの1946年1月2日に、バーンズ国務長官に宛てて「民間研究団体による憲法改正の草案」と題する書簡を送っている。

こうした動きから占領軍であるGHQのみならず米国自体も日本国における憲法改正の動きに深い関心を持っていたことが分かる。
一方、GHQ内ではホイットニー民政局長が英訳した草案をマイロ・E・ラウエル陸軍中佐に見せている。
“そのとき”ラウエル中佐はこう思ったという。

「民間の草案要綱を土台として、いくつかの点を修正し、連合国最高司令部が満足するような文書を作成することができるというのが、当時の私の意見でした」と述べている。
ラウエルは、さっそく年明けから11日にかけて、「私的グループによる憲法改正草案に対する所見」と題する小論を作成している。

〈ラウエル証言の矛盾〉

上記のラウエル証言こそが、「日本国憲法は憲法研究会草案が土台となった」と主張する根拠であるとされているもの。
だが、このラウエル氏の発言は「当時を回想して語っている言葉」であり、ラウエル氏が語った言葉がすべて真実であるとするならば、“重大な矛盾”がそこに存在することとなる。
重大な矛盾とは、1945年の12月末あるいは1946年の年初の時期にGHQが日本政府とは別に独自の憲法改正草案を作成することが決まっていた(予定含む)ということになる。
しかしGHQ民生局による独自の憲法改正草案作成に関する始まりの日は、1946年2月3日(日)である。

この日は日曜日であるにもかかわらず、この後GHQ草案を作成するメンバーは突然呼び出されてホイットニー准将の部屋に行く。
そこでホイットニー准将からある命令を受ける。
その命令こそが、GHQ民生局が日本国の憲法草案を起草することであり、その命令の発信源は当然ながらマッカーサーである。
つまり、ラウエル中佐等のGHQ草案起草者たちが憲法改正草案を起草することの始まりの日付けが2月3日であり、それ以前にはGHQ内での憲法改正草案の動きは存在しなかったこととなる
ただし、1945年10月頃からマッカーサーは近衛及び幣原内閣に対して憲法改正草案を起草する示唆を与えているため、GHQは日本国内における政府、政党による改正草案のみならず民間組織や民間人による憲法改正草案に注目していたことは間違いない。
検閲制度を敷いていたので、そうした動きは手に取るように把握することができたはずだ。
だから、憲法研究会の草案を英訳し分析することは当然と言えば当然のこと。

では何が問題なのかと言えば、ラウエル中佐の「民間の草案要綱を土台として、いくつかの点を修正し、連合国最高司令部が満足するような文書を作成することができるというのが、当時の私の意見でした」という“回想発言”のなかにある「民間の草案要綱を土台として作成することができる(草案を起草する)」と言う部分だ。
1946年の2月3日以前は、民生局は別の業務を行っていた。それがホイットニー准将(マッカーサー)による憲法草案起草命令によって憲法草案作成作業以外は中断されて、起草作業に集中する体制へと変わっている。
重要な論点は、ラウエル中佐の言葉は「回想」による発言であって、その“当時の発言の記録”ではないこと。さらに「当時の私の意見でした」と語っているように、ラウエル中佐の発言に信憑性があったとしても、その内容はラウエル中佐個人の意見であって、GHQ民生局全体あるいはマッカーサーの意見では無いこと。
もっと重要なことは、なぜそのような発言(回想)をラウエル中佐がしたのかという点。
端的に言ってしまうと、戦時国際法違反(ハーグ陸戦の法規慣例に関する条約およびポツダム宣言)を指摘されないような配慮をした発言であることは間違ないと思われる。
彼らは軍人であるから命令には逆らえない立場にある。だが自分たちの行っていることが国際法違反であると認識されれば、当然占領が終わってから日本側や国際社会から非難される恐れがある。そうしたことを払拭するための発言であると思われる。
彼らはGHQ民生局が占領国の憲法草案を起草したこと自体を知られたくないという意識があることは間違いない。当時のGHQでは憲法改正の起草作業はGHQ内でも“秘中の秘”であったことは事実である。GHQ内において民生局起草メンバー以外の人間にさえ極秘にされた状態での起草であった。
この論点を抜きにして憲法研究会の草案についての評価は不毛となる。
(こうした論点は【国際法編】で語る予定)

《高野岩三郎私案について》

憲法研究会を最初に呼びかけた高野岩三郎であったが、憲法研究会が天皇制を否定しないことは、「根っからの共和主義者」の高野にとって、それは賛成しがたいものであった。自ら音頭をとってつくった研究会の案が自己の願望と違ってしまったことは残念であったに違いない。高野は憲法研究会案がほぼ固まった11月下旬から「日本共和国憲法私案」の執筆にとりかかった。

〈高野私案の根本原則とは?〉

高野私案の特徴は最初の「根本原則」にある。

「天皇制を廃し、これに代へて大統領を元首とする共和国制採用」とある。

つまり、完全に天皇の存在自体を無にし、米国のような大統領制国家(共和制国家)を想定した憲法草案だということ。
高野が参考にした憲法等は、北米合衆国憲法、ソヴィエト連邦憲法、スイス連邦憲法、ドイツワイマール憲法など。

著者の古関氏は、天皇制が確立していない時代に生まれた高野には、民主主義は当たり前のことであり、明治末期から敗戦にいたる天皇制こそ異常なものであると認識していたと語っている。また、高野が目指したのは大正デモクラシーではなく、自由民権運動であるとも述べている。

高野の私案は、「主権は日本国民に属す」と国民主権主義を定め、その国民が大統領を選出するとし、三選は禁止されるとした。これはアメリカ憲法を参考にしていることは間違いない。
しかし「土地は国有とす」とソヴィエト連邦憲法の影響も色濃く出ている。

その後、高野はNHK会長に就任し、1949年4月に逝去した。
高野岩三郎が目指した憲法秩序の実現はかなわなかった。
さぞかし無念であったことだろう。

笑顔のファシズム

《笑顔のファシズム》

いつの時代も「戦争」は突然起こるものでもないし、「笑顔のファシズム」という言葉があるがごとく「戦争」は「平和」とともに「仲良く」手を携えてやってくる。

〈政治問題の本質とは“誰が”権力を握るのか〉

高市早苗氏の笑顔にファシズムを見るのは私だけではないだろう。
戦争は必ず「平和のため」という大義を纏う(まとう)が、それが真の大義かどうかを見分けるのは「誰が」を判断基準とすること以外にはない。

結局、政治権力の最大にして最終の問題とは、「誰が権力を握るのか」ということに尽きる。
民主主義における最大の欠点が「多数を擁立した者が権力を握る」というシステム自体が内包されていることであり、それを言い方を変えると「多数を形成できる方法を編み出したものが権力を握ることができる」となる。その方法が違法かどうかは問わない。その方法が倫理に反し、社会規範を蔑ろにし、法律を無視し、憲法秩序を乱しても、最終的に権力を掴みさえすれば、そうした悪事自体が裁かれることなく権力を振るうことが出来るという欠点を持っている。

もともと民主主義制度とは、悪王、民衆を苦しめる権力者の横暴から自由や人権、生命と財産を守るための防波堤として生み出されたものであり、最大の目的とは悪王(悪なる権力者)の出現を防ぐことにあった。だが、現実には民主主義は操作することによって悪王(悪なる権力者)が出現することが出来る抜け穴がある
その典型的な事例がナチスドイツのヒトラーであるのは言うまでもない。
近代法の憲法とは、そうした国家権力が暴走し、民衆を苦しめないように歯止め(鎖)をかけるために制定するものであり、高市早苗氏が言うように「国家に力を与えるもの」ではない。この発言の恐ろしさを国民は深く理解するべきだろう。
初代総理大臣の伊藤博文から続く日本の憲政史上最低最悪の権力者が出現したことを知るべきである。

【WGIP編】につづく

参考書籍

書籍名:『日本国憲法と鈴木安蔵』
著者名:金子勝
出版社:八朔社

書籍名:『日本国憲法の誕生』
著者名:古関彰一
出版社:岩波書店

最後までお読みいただき、ありがとうござりんした!


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