『“自由論” ~自由とは何か? 正しい自由論と間違った自由論~』

はじめに

2025年初めの記事に、どうしても再度言っておきたいと考えていた『自由論』を選びました。
「自由」という概念をどうとらえるのか? ということでその組織、社会、そして世界がどのような思想に色付けされるのかが決まります。
「自由論」は分かりやすいようで難しく、幸福を実現することにも不幸を呼び込むことにもなり、人生を輝かすことにも人生を破滅させることにもなり、人間としての喜びをもたらすこともある一方で人間を堕落させるものにもなる可能性を持つものなのです。
問題なのは「自由」をどうとらえるのか、という点につきます。
「自由論」とは、天国と地獄の分岐点に立つものなのです。
自由を望む人の前には“2つの分かれ道”が用意されているのです。
「自由」という概念をどのように捉えるかで善にも悪にも成り得るのです。

昨年、とある政党(政治団体)が出した「間違った自由論(私の判断では)」への反論記事を書きましたが、今回の記事はその続編ともいうべきものです。
宗教団体を支持母体に持つ政党が自由論を間違えるということは、政治団体の正当性を失い、信仰者として失格と言えます。自由論のはきちがえは宗教性の喪失となります。
これに対して、該当政党が反省をし、見解(方針)を改めるべきだと考えています。

「自由」とは幸福の創造につながる道筋を示すが、間違った自由論は人類を堕落に導くものであることを理解することが、いまの日本国と日本国民には必要だと強く思う次第です。

2025年の初頭に「自由論」について何らかの学びを提供できれば、筆者として望外の幸せです。

自由論

《ワクチン接種における「打つ自由」は守るべきなのか?》

とある政党がmRNAワクチン接種に関して「ワクチンを“打つ自由”を認めるべきであり、ワクチンを全否定することはいけない」と公式に発表しました。
(発表後すぐに「打つ自由」の文面は削除された)
また、2022年の参議院選挙では、「ワクチン接種(mRNAワクチンのこと)を有料にするという公約」を掲げて選挙活動をしました。
これに私は驚愕したことをいまでも覚えています。
なぜなら私は、2021年当時からmRNAワクチンには危険性がある、被害が出ているという情報をつかんでいたので、警告的な内容の記事を書いてきたからです。

2021年は、mRNAワクチン接種に関して異議や否定的意見を語ると「反ワク」という根拠のないレッテルを貼って迫害されました。
2022年、mRNAワクチンの被害が世に出たため、危険性に気づく人が増えましたが、まだまだワクチン接種に否定的な意見は危険分子という風潮が残っていました。
2023年、接種者たちでさえ危険性に気がつき、危険性を示す情報が世界に溢れました。
「反ワク」と悪者呼ばわりしていた御用学者や政治家は沈黙し始めました。
2024年、mRNAワクチン接種が危険であると世間に浸透しつつも、政府は頑固に接種中止をせず、むしろ推奨を静かに推し進めて世間からひんしゅくをかいました。
2025年、ケネディJrが米国医療分野のトップに立つこと(予定)で、mRNAワクチンに関する真実が公式の情報になるはずです。世論は完全に逆転するはずです。
(すでに政府や行政、マスコミ以外の人々にとっては常識となっている)

この状況の中で、「(mRNA)ワクチンを打つ自由を認める」「mRNAワクチンを有料にする(中止にしない)」という政策(思想)を打ち出す政党がどう出るのかを、私はこの一年見ていくつもりです。
ずばり言ってしまうと、誤った考え(政策含む)を認めて「反省」するのか、ということを確かめたいと考えている。
もし、反省しないならば、自分たちの間違いを認めないならば、言っておく。
「その思想(判断)は間違っている」(弟子たちの)と。

mRNAワクチンに関する答えは明らかです。
接種後の死亡者、被害者(副作用、後遺症等)が異常なまでに出ているワクチン接種は中止すること以外に考える余地はなく、それが医療の倫理であり、国民の命と健康を保障する国家機関の義務であり、社会正義を担保することなのです。

《自由論》

〈自由とは何か?〉

「自由」とは何か?
さまざまな角度から語ることができる自由論は簡単そうに見えて非常に難しさを含むものでもあるのです。
自由論で最初に語るべきは、「自由とは創造主から与えられたものである」ということです。これを言うと宗教嫌いの人は“ペッ”と唾を吐きかけたくなるでしょう。
ですが、現代に生きる多くの日本人には受け入れがたいこの理論が世界の常識であることにいい加減に気がつくべきでしょう。
戦後の日本は明らかに「宗教オンチ」の国民に成り果てました。
これは意図的に“された”と言った方が正確でしょう。
別の角度から言えば、唯物論に染まってしまったということです。
それにあいまってインチキ宗教が多く出現したため、「宗教嫌い」にもなりました。
しかし、人類の歴史は「宗教」とともにあったことは事実なのです。
過去は迷信ばかりで現代は科学の時代だ、という価値観は洗脳された価値観だといい加減に理解するべきなのです。
科学は世界のすべてを解明しましたか?
宇宙のすべてを明らかにしましたか?
人間とは何かを人々に提示しましたか?
生と死の本当の意味を解明しましたか?
科学とは創造主の作った世界を確認出来ることとして提示しているにすぎないものです。
科学は未知なるものの探求であり、未知なるものは人間の想像を超えて存在するのです。
地球に住む人類の持つ科学が宇宙すべての謎を解いたわけではないので、謙虚さを忘れ、未知なるものへの探求心を捨て去ったならば、それはもはや時代遅れの道具にしか過ぎません。

「自由」には明らかにある方向性があるのです。
それは「神へと続く道」あるいは「仏神へ向かう方向」と言っていいでしょう。
肉体人間としての幸福よりも、魂を持つ存在としての幸福を至上に考えるという命題が自由には含まれているのです。
つまり、創造主が与えた自由とは「魂(心)の向上」において発揮されるべきであるということです。
ここで言う“魂”とは「霊的なエネルギー体」であり「知性ある(見えない)エネルギー体」のことです。決しておどろおどろしいものではありません。
魂的存在の自由が肉体人間の自由より優先するということです。
すべては「幸福」「繁栄」「成長」「進化」というものを実現するためにこそ自由は与えられているということです。

〈自由と自由の衝突が悪となる?〉

「自由と自由がぶつかることによって悪が発生する」という考えがあります。
これを間違って解釈すると、真の自由からかけ離れてしまいます。
「自由と自由がぶつかることによって悪が発生する」というなかで語られている自由とはどちらも前項で示した「創造主から与えられた方向性を持つ自由」なのです。
決して間違ってはいけないのは、エゴイズムの自由、欲望の自由、堕落の自由、破滅への自由、自滅の自由無責任の自由、悪魔的自由を「自由の概念」に含めてはいけないのです。
悪の自由と善の自由の衝突が“悪となる”のではないのです。
これらを自由と呼んではいけないのです。
善なる方向性を持った自由と悪なる要素を持った自由を混同してはいけないのです。

魂には創造性がありますから、善でも悪でも思おうとすれば思うことはできます。
しかし、他人を傷つけたり、犯罪行為をしたり、欲望丸出しの“思い”を「自由」と認めてはいけないのです。
それは「煩悩」と呼ぶべきものなのです。
悪を思うことができることと、自由と呼ぶべきかという判断を区別して考えなければならないのです。
つまり、自由には「正しい自由」と自由とは呼べない「間違った自由」があるということです。

ですから、他人から何かを奪う(盗む)自由は正しい自由ではなく、自他ともに傷つける自由は正しい自由ではなく、不幸を呼び込む自由も正しい自由ではなく、職業倫理に反することをする自由も正しい自由ではないのです。
なぜなら自由の先には幸福や発展あるからです。
ただし、正しい自由と正しい自由が相対した際に調節(調和)が必要になることは当然となります。
進歩や進化する自由のなかでこそ調和の存在価値は出現するのです。
「調和」とは調和そのもの自体を目的としているのではなく、進化とあいまって幸福や向上を出現させるためにこそあるのです。
進歩や進化に寄り添わない調和とはただの停滞なのです。

結局、自由と言っても「善なる方向性」と「悪なる方向性」があるということです。

〈真なる自由には責任がともなう〉

善の自由、悪の自由とは何かと疑問が聞こえてきそうですが、「真なる自由」と「偽(いつわり)の自由」と言ってもいいでしょう。

「真なる自由」と「偽りの自由」の違いは「責任」で判定できます。
真なる自由(善なる自由)には必ず責任を取る姿勢があります。
ですが、偽りの自由(悪なる自由)には逆に必ず無責任が横たわっています。

具体的に身近な事例で言うと、結婚して子供がいる家庭を持っている人が配偶者以外の異性と不倫、浮気をすることは、配偶者と子供への責任を無視した行為です。場合によっては無責任では済まず、害していることも多いのです。
既婚者であるにもかかわらず、配偶者以外の異性に恋してしまう、または欲情をもって行為に及ぶことは個人のエゴ(身勝手)以外の何ものでもなく、自らが背負っている責任に反することでしかありません。

このように、自由には責任がともなうということです。
責任がともなうからこそ、偽り、嘘、デマ、脅し、誹謗中傷などを言論の自由と呼んではいけないのです。
もちろん議論においての言論の自由では、間違いと気がつかないこともありますが、それでも結果的に嘘やフェイク情報を流したならば、それは言論の自由によって許されることではなく、責任が発生するということです。
場合によっては、その責任とは法的責任ともなるのです。

《医療行為における自由とは?》

では、医療行為における自由を考えてみます。
この視点は2つあります。
医療を施す側の医師及び医療従事者としての自由と医療行為を受ける患者側としての自由の2つです。

医療行為が法的に正当性を持つためには以下の3つの条件を満たす必要があります。

【医療行為の正当性の3条件】
1.医学的に適応性があること
2.医術的に正当性があること
3.患者の同意があること

「医学的適応性」とは、治療行為が患者の生命や健康の維持・回復に必要であり、患者にとって優越的な身体利益となること。
つまり、施そうとする医療行為(ワクチン接種含む)が患者の生命と健康を害さず、逆に維持または回復をもたらすものであること。
ですから、ワクチン接種において被害が多く発生しているという状況では、いつ誰が同じ被害にあうのか分からないので、結果的に患者の命と健康を危険にさらす可能性を含むことになり、それでも行うならばその医療行為は医学的適応性が認められないとなるのです。あわせて医療としての倫理に欠けています。

「医術的正当性」とは医療を施す医師が治療目的であり、医療行為(医療方法)が妥当とされることを意味する。
ということは、他に優れた治療方法または他に適切な医療方法があれば、劣っている医療方法または次策となる医療方法を取るべきではない、となります。
コロナウイルス感染症においては、イベルメクチンやヒロドキシクロロキンなどが有効であるとされるデータがあります。
となると「予防(名目上)」であって「治療」ではないワクチン接種を行う正当性が失われる事となります。
そもそもコロナウイルス感染症において“治療”に焦点が当てられず、“予防”に焦点が当てられていることは医学的に異常であると言えます。

「患者の同意があること」とは、メリットとデメリット情報のどちらかが欠けることなく、正確な情報を患者(接種者)に示すこと、またはその医薬の成分がどんなものであるのか、副作用にどんなものがあるのか、さらに先行する治験や被験者にどんな結果がもたらされているのかを包み隠さず伝えることによってのみ、患者が正しい判断ができる状態のなかで患者自らが自由意思で判断すること。
ですから正確で漏れの無い情報を与えられていない医療行為(予防接種含む)の場合、「患者の同意があると認める」ことはまやかしにしか過ぎません。
デメリットや悪い結果(被害の発生等)、または成分にかんする正しい知識を伝えられていなければ、その医療行為(ワクチン接種)は医療行為の原則から外れることになります。

この3点を前提にして、患者の自由、医師及び医療従事者の自由を考える。
便宜的に両者の自由と呼んでいるが、これは同等の自由ではなく、明らかに患者の自由が優先されなければならない。
なぜならば、命と健康の被害は患者側に発生するからだ。
ですから、ワクチン接種における自由(ワクチンを受ける自由)とは、正しくインフォームドコンセントがなされる前提に立つものであって、正しいインフォームドコンセントがなされないで行われるワクチン接種を選択する自由とは、「自由の選択」とは呼べないことになる。なぜならば、そこに騙し(意図的及び意図的ではない両方を含む)や無責任が横たわっているから。

付け加えれば、mRNAワクチン接種においては政府(厚労省含む)及び政治家と大手メディアによる情報操作によって誤った判断をした国民がほとんどであり、日本人社会特有の同調圧力によるワクチン接種がまかり通っていたことは事実であり、これは医療を利用した詐欺行為と考えるべきです。

要するに、医療情報として正確で漏れの無い情報に基づかない「ワクチンを打つ自由」は、“自由とは呼べない”ということです。

医師や医療従事者側の自由とは自由と呼ぶべきではなく、「責任」と呼ぶべきです。
医師又は医療従事者は、その方法、その医薬が患者(ワクチン接種者)の命と健康を害さないという責任を負っているということです。
医師などの医療従事者は基本的に「ヒポクラテスの誓い」を守るべきであり、正しい医薬と正しい医療方法を選択する義務及び責任があるのです。
もし、その医療方法によって、その医薬によって被害が報告されているならば、その医薬の使用及び医療方法の検討をする義務があるのです。
医師とは、人々の命と健康を守る職業ですから、被害が出ている医薬や医療方法を続けるという自由は許されないのです。

もう一度言います。
医師及び医療従事者には、自由ではなく患者(ワクチン接種者)の命と健康を守る責任があるのです。
医療とは、決してお金儲けのためではなく、名誉を得るためでもないのです。

この項の結論を言うならば、コロナウイルス感染症によるmRNAワクチンには患者側の自由は明らかに破られていると同時に被害が出ていても中止にならないということはが示す結論は「mRNAワクチンを打つ自由」とは明らかに間違った自由の主張だということになります。

《愛のある自由と愛の無い自由》

『自由論』を別角度から語ります。
自由には「愛のある自由」と「愛の無い自由」があると考えられます。

〈愛のある自由とは?〉

「愛のある自由」とは、愛に基づく自由の行使であり、その自由判断および自由行為の根底に「愛」があるものです。
たとえば、愛国心による国家防衛の思想や行動、愛する者が危険にさらされている際に取る自己犠牲の行為、真実が隠されていることを知って真実を世に出す行為など。

要するに、愛のある自由とは主に「守る」という理念から生まれてくるものなのです。
本来、社会正義とは愛に基づいているものなのです。
だから、愛を含まない社会正義とは偽物だということです。
この場合の愛とは、誰かを守るという意味であり、誰かに何かを与えるという意味です。
決して自己利益優先の発想でも、他罰的な思考でも、独裁的支配の行使でもありません。

愛とは与えることであり、守るものなのです。
ですから、他の存在を傷つけたり、損をさせたり、奪ったりすることは愛のある自由ではなく、本来は自由とは呼べないものなのです。

〈愛の無い自由とは?〉

「愛の無い自由」とは、欲望による自由であり、利己主義の自由であり、支配欲や名誉欲による他の人たちを害する自由などです。
嘘などの騙し、犯罪、堕落した思考と行為、他罰的な行為、身勝手な思考と行為、冷酷な思想、社会を破壊する思想などを行使することを自由と呼んではいけないのです。

《自由のはき違え》

自由とは、制限が無い事ではないのです。
これには「地上世界にて」という前提がつきます。
本来、魂はどんな思いでも思うことは出来ますが、肉体を持つ人間にとっての自由とは制限の中で許された自由選択でしかないのです。
ここを悪用するのが悪魔です。

あなたがいま生活できるのは制限があるからです、といったら驚くでしょう。
これが分からないならば、空を見上げてみてください。
昼ならば青空などの空模様が見え、夜ならば星が見えるかもしれません。
空を見上げて何か気づきませんか?
空には天井がないのです。
つまり、物質的な行き止まりがないのです。
それが意味することは、宇宙空間とつながっているということです。
なのに、あなたは地に足を付けて生活し、娯楽を楽しみ、スポーツに汗を流せる。
なぜあなたは空中に浮かぶこともなく、宇宙空間に投げ出されることがないのですか?
それにはある条件があるからなのです。
それがあなたの肉体を制限している「重力」です。
重力がなければ、地に足を付けて歩くことも、スポーツをすることも、車に乗ることもできません。
つまり、重力という制限のなかであなたは人生を送っていて、その重量は制限であると同時に、あなたを守っている力でもあり、そのなかで自由が行使できるということです。
同時に、人間は「空気(酸素)」が地球上にあるからこそ生存できるのです。
それに加え「太陽のエネルギー」が地球に降りそそぐから人間を含む動植物たちは命を維持できているのです。
これは重力、空気、太陽エネルギーという「制限」があり、その制限に縛れていると言うことができます。

つまり、自由とは本当は、制限という囲いの中で行使することができる個性の発揮なのです。
要するに、自由とは方向性や制限(根底に)があるものであるということであり、なんでもかんでも許されるものではないということです。

《自由の正体とは?》

「自由」の正体(本質)とは、「創造主(神)の念い」そのものなのです。
自由とは、創造主(神)の「願い」であり、創造主(神)が人間に与えた「方向性」なのです。
自由とは創造主(神)の別名なのです。

ですから悪魔的な存在は、自由を捻じ曲げ、自由を奪います。
身勝手な自由を掲げて、正しい自由を破壊します。

自由論を間違えるということは、地獄へ通じる道へ歩みを進めることを意味し、魔界への扉を開くこととなるのです。
ですから、自由論は個人の幸福と社会の正常化に非常に大切な概念なのです。
自由論は、悪魔が利用(悪用)するものであることを知らなければならないのです。

付け加えるとディープステートなどの存在も「自由」を語ります。
騙されてはいけないのです。

自由が失われた世の中は、地獄でしかないのです。
自由を奪うことは、悪魔的所業であり、悪魔の創造主への叛逆でしかないのです。

《結論》

この記事の結論を言えば、「自由」には、善、責任、愛という判断基準で見分けることが大切であり、いま求められる自由とは「ワクチンを打つ自由」ではなく「ワクチンを打たない自由」であり、ワクチン接種などを政府が強制しない(義務としない)ことなのです。

これは単なる医療の問題ではないのです。
個人の選択の自由が認められるか、個人の選択の自由が奪われるのかという問題は、社会全体のあり方を決めることに繋がっているのです。
個人の選択の自由が認められない社会とは、全体主義社会、独裁主義社会なのです。
ですから、「ワクチンを打たない自由」こそ守るべきなのです。

創造主が人間に与えた自由を奪うことは悪魔の所業であり、創造主から与えられた自由を守る義務が人間にはあるのです。
創造主から与えられた自由を守ることを「正義」と呼ぶのです。

最後までお読みいただき、ありがとうござりんした!


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