『宮迫博之よりご報告』の動画を観て。
1月29日、闇営業問題により謹慎中の雨上がり決死隊の宮迫博之氏がYouTubeチャンネル「宮迫ですッ!」を開設し、謝罪とともに自身の胸中を語った。
アチキもさっそく視聴してみたでありんす。
世間では「低評価が3万近くでた」「応援できん」「嫌悪感しかない」などと宮迫氏に対する嫌悪感がすごく、一刀両断で拒絶された感じがある。
なかには「芝居じみている」などの意見もある。
まぁ~すごい大荒れでありんすな~!
宮迫氏は所属していた吉本興業から契約を解除され、明石家さんま氏の個人事務所に現在は所属する形となっている。
そして、世間の人が怒っている原因となっているのは、東京で上映される舞台「七転抜刀!戸塚宿」で芸能界復帰を果たすことだろう。
これは後ろ盾となっている明石家さんま氏の強い後押しによって、宮迫氏の出演が決まったのだという。
要は、世間の人の気持ちは、
「反省しているように感じられない」
「もっと謹慎するべきだ」
「芸能界復帰は早すぎる」
「芸能界に復帰することは許さない」
というようなものだろ。
多くの人たちが宮迫氏に対して、いけすかねぇ~と思ったのだろう。
(「いけすかねぇ~」は、好きじゃない、嫌いだ、という意味)
《アチキの感想》
まず、ヒゲを剃れと言いたい。
そして、謝罪の気持ちを伝えたいなら、謝罪に関する言葉をもっと多く語るべきであった。
7分という時間の内容を時間配分すると、謝罪ではなく「芸能界に復帰したい」という自分の気持ちを述べることに時間を費やしている。
(今後の活動についても含む)
多くの人たちが真摯な謝罪をいまだに求めていることを理解していないのだ。
なにより表情からは、冷たく硬い印象しか伝わってこない。
「謝罪したい」「応援してもらいたい」
と思うなら、明らかに失敗した動画(報告)であることは間違いない。
アチキが勝手に思う宮迫氏の印象は、「自己中心的な性格」「欲が深い」「自分勝手」「真心が足りない」などである。
ただ、今回の宮迫氏の報道に対してアチキは疑問に思うことがありんした。
不祥事を起こした芸能人に復帰は許されないことなのか?
宮迫氏は反社会的勢力への闇営業をし、それ以前にも不倫などの問題を起こしているお笑い界の問題児だ。
それは世間が認めることだろ。
アチキが問題としたいのは、宮迫氏が「心の底から本当に自分の罪を認め反省しているのか」ということだ。
宮迫氏をかばうつもりはないが、人間なら過ちをおかすことはある。
だが、大切なことは過ちを素直に認め反省して、悔い改めて生きるかどうかだと思う。
心の底から反省し、立ち直ろうとする人に対して、それをバッシングしてそのチャンスを奪いかねないような発言や報道をすることは許されるのか?
宮迫氏が本当に反省しているが、それが彼の損な性格から伝わらなかったとしたら、可哀想だとも思う。
「謹慎期間が短すぎる」
という意見もあるだろ。
だが、SNSでそういった意見を言う人たちは表現に自由のもとに勝手に主張しているだけで、宮迫氏に直接影響をもっているわけではない。
つまり、宮迫氏に被害を受けたとか、宮迫氏を直接支援しているとか、宮迫氏に仕事を与えたり奪ったりする立場ではないということだ。
なにを持って謹慎期間を定めるのか?
法治国家である以上、国の定める法を犯せば、罰則にしたがって処分される。
処分されたということは、それで罪は基本的に帳消しとなったということだ。
それが「法のルール」のはず。
しかし、ここにもう一つ慣習(掟)がある。
世間からの社会的制裁だ。
この社会的な制裁は時に魔女狩りのように弱い者いじめをするときがある。
宮迫氏に罰を与えられる人は宮迫氏から直接被害を被った人だけであり、宮迫氏をいままで応援してきたファンの人たちだけであるはずだ。
直接的な関係者でもなく、応援してきたファンでもない人が、立ち直ろうとする人に対してその人生を奪うような発言を安易にしていいものだろうか。
宮迫氏に嫌悪感を表し、バッシングする人、およびマスコミはなんの権限をもって彼をバッシングするのか?
マスコミの意図は単純である。
悪者に対してバッシングする現象は報道や記事として取り扱いやすく、世間の注目を簡単に集められるからだ。
もちろんSNSで個人的な意見をすることは表現の自由だが、それが行き過ぎて一人の人間の人生を奪ってしまったら、コメントした人たちはその人に謝罪するのだろうか?
責任を取るのだろうか?
もし、宮迫氏が世間のバッシングに耐えられなくなったり、生活できなくなって(収入を得られなくなって)自殺してしまったら、バッシングした人たちは責任を取れるのだろうか?
そうしたことはしないだろう。
要するにアチキが言いたいことは、宮迫氏にも家族がいて彼自身も生きていかなければならないのだから、仕事をしていかなくてはならないということだ。
それを妨害するような発言や報道ばかりが世間にでるということは本当に表現の自由なのだろうか?
宮迫氏をバッシングする人に言いたい。
宮迫氏をバッシングするなら、宮迫氏を支援している明石家さんま氏などに対してもバッシングせよ!
そうでなければ、正当な論理ではない。
「明石家さんまはなぜ宮迫氏を支援するのか」と彼を糾弾せよ!
そうでなければ、片手落ちで、偏った感情からくるただの弱い者イジメとなってしまう、ということを理解してもらいたい。
これはマスコミの方々にも言いたいことだ。
宮迫氏のことを悪く扱いたいなら、支援している人も同時に叩け。
それをなぜしない?
世間やマスコミには共通することがある。
それは、悪事は大きく取り扱われ、良いことはほとんど扱われない、ということだ。
宮迫氏の家族のことも考えろ。
宮迫氏のファンの人のことも考えろ。
宮迫氏のファンの方に、もの申す。
もっと積極的にSNSで意見を発表せよ。
勇気をだして、発言せよ。
ネットの世界は悪口を言う方は安易に直ぐに発言を投稿するが、擁護する意見や賛成する意見などを持っている人たちは前者に比べて消極的だ。
アチキは思う。
もし、宮迫氏が心の底から自分の罪を悔い改めているのなら、彼のセカンドチャンスを奪ってはいけない。
これ以上宮迫氏の立ち直りを邪魔してはいけない。
宮迫氏にチャンスを与えても、もし彼の芸が世の人たちに受け入れられなかったら、彼はお笑い芸人を引退しなくてはならないのだ。
そこを初めから復帰のチャンスを奪ってはいけない。
彼の芸が認められないのならば、世間の人から求められないのならば、誰がなにもいうことなく彼は廃業せざるを得なくなるのだ。
マスコミの報道は偏りがあると主張しておく。
テレビなどは編集ができる。
つまり、マスコミ側が都合のいいところだけ放送することが可能なシステムになっている。
取材と放送も偏っている。
マスコミは宮迫氏のすべてを取材しているのか?
宮迫氏に関わる人たちのすべての人に取材してそれを報道したのか?
明石家さんま氏からの気持ちや考えを取材して報道したのか?
していないのなら偏った報道だと言わざるを得ない。
それは宮迫氏を叩くことで世間から視聴率を取るという図式だ。
繰り返して言う、一番大切なことは宮迫氏が反省しているかどうかである。
そして彼が今後まっとうな人間として生まれ変わるかどうかである。
彼が反省し、立ち直ろうとしているのなら、暖かく見守ることが世間の人に求められていることではないだろうか。
後は、彼が芸人としてやっていけるかどうかは彼の人間性と芸の腕次第なのだから。
【ご意見番が宮迫博之氏にもの申す!】
「自分の罪を心から反省せよ! 自己中心的な性格を改め、多くの人に笑いという喜びを与えられる芸人に生まれ変われ!」
「宮迫氏が心の底から反省しているのなら、ご意見番はエールを送る!」
【ご意見番が世の中にもの申す!】
「必要以上に個人攻撃して人生をやり直そうとしている人を潰そうとすることは罪である!」
【おまけ】
《ことわざ》
『背水の陣』
*一歩も退けない決死の覚悟で物事にあたること。
(中国の漢の武将韓信が、川を背にした不利な場所に陣を構え、決死の覚悟で大敵を撃破したという故事による)
「大きい活字の故事・ことわざ辞典」より
お読みいただき、ありがとうござんした!