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『YouTuber張陽氏の「桜、花之世界の侍」にもの申す!【後編】 ~現代に求められる武士道精神とは?~』

まずは前編をお読みください。

武士道精神とはなにか?

《武士道の歴史について》

「武士道」といっても、歴史の中でその精神はまったく同じではない。
大きな分岐点は江戸時代以前と江戸時代以降に分けられる。

江戸幕府以前の武士のあり方と、江戸幕府による太平の世となってからの武士のあり方には違いがあります。
それは武士が軍事的役割、つまり戦闘をしなくなったということです。

平安期には貴族の身分の者が軍事的あるいは護衛の役割を与えられた職業として存在していました。ですから、その時代は武家という概念ではなく、貴族の一形態として時代のなかに存在していました。
(武家の代表格である源氏も平家もその血筋をたどれば天皇家にたどり着きます。)

武士が日本社会のなかで独立した武家として認識されたのは、武家政権が成立した鎌倉時代からです。
もう少し正確に言えば、平清盛によって武士が朝廷の一員として認められ、武士の身分や立場が日本社会全体から認められた時期です。
そして室町末期の戦国時代には、公卿や朝廷をしのぐ大きな権力を得る立場にたちます。
戦国時代には、主君を換える武将も多く、また、儒教的な倫理観に裏打ちされた存在でもありませんでした。

やがて徳川家によって天下が太平の世となると、武士の本来の役割である戦争(戦闘)がなくなりましたので、武士のあり方、生き方が大きく転換することになります。
戦わない武士とはいかにあるべきか?ということです。
農民は農産物を生み出し、商人は商売を営む、しかし、戦をしない武士の存在理由はどこにあるのか、という問題がつきつけられたということです。
そのため武士の世界に精神修養という徳目が大きく入りこむことになったのです。
平和な世となり、戦をしなくなった武士は儒教の教えによって自らを律することを旨とします。
儒教による自己修養を武士の心得としたのです。

張陽氏や欧米の人たちがイメージする武士は、江戸時代に形成された儒教的精神をもとにした武士道に比重があります。
一口に「武士道」と言っても時代によって違いはあるのです。
ただ、共通の精神は存在します。

《武士道の根本精神とは?》

結論を言うと、武士道には大きな精神的支柱が2つあります。

武士道を語る上で欠かすことができないものがあり、それについて張陽氏が語っていないことがあります。
それは武士にとって、自らが仕える主君に対する「忠義の心」が一番の精神的支柱である、ということです。
武士(サムライ)がなんのために存在するのかというと、主君に仕え、主君の為に命を捧げる、ということにあったのです。
では、その武家の棟梁たちはなんのために存在していたのかというと、天皇や幕府、広く言えば国家を守護し民を治めるために存在していたのです。

つまり、自らの主君に忠誠心で仕えることが天下国家のためとなるという思想がサムライの思想なのです。
ですから、武士道を語る上で「忠義」「忠誠心」を抜きにしたものは武士道の核心に迫れません。

武士道精神の柱の一つが「忠義」「忠誠心」なのです。
そしてもう一つが「正義の心」です。

要するに、「混濁の世に正義を打ち立てる」、それが武士道精神なのです。
武士道精神の大きな支柱は「忠義の心」と「正義の心」なのです。

武士の役割が警察的役割であり、軍事的役割である以上、社会の混乱を回復すること、平和と秩序を維持することにあることは明白です。
そこに絶対的に必要となる柱が「正義の心」なのです。
そして張陽氏が指摘しているように「弱者をたすける」という精神は、この「正義の心」から現れてくるものなのです。

《武士道の特徴とは?》

では、武士道精神の特徴とはなにか?
それは2つの大きな特徴が中心となっています。

一つは『強さ』です。

武士は戦闘集団、つまり戦う人ですから、強くなくてはなりません。
敵を前にして逃げたり、卑怯な振る舞いをすることは武士道から外れます。
要するに「勇敢でなければならない」ということです。

強くあるために剣術等の戦闘術を身に付け、自己の精神力を強くするために精神修養をするのです。
「強さ」を前提とする武士道の最大の特徴は、張陽氏が指摘しているように「散ることの美学」です。

「散ることの美学」とは、「死を恐れずに仁義の道を貫くこと」「正義のために自己を犠牲にすること」「利欲のためでなく、公の幸福のために自己の魂を捧げる生き方」です。
それを一言であらわすと『潔さ』です。
大義や正義のためなら、己の命は惜しくない、という意味での潔さです。

決して自己の利益や自己の命に執着するものではありません。
ですから、戦う人であっても、強い人であっても「潔さ」がない人は武士道精神を持っていないということになります。

「潔さ」は、潔癖な生き方を求めます。
「潔さ」は、勇敢な生き方を求めます。
「潔さ」は、命の長さではなく、命の輝きを求めます。
「潔さ」は、美しく散る(死ぬ)ことを求めます。

潔い生き方は日本社会の気質である「恥の文化」を形成しました。
また、本当の意味での名誉を重んじるという文化を生みました。
そうした命まで投げ出して大義や正義に殉じる自己犠牲の精神が武士道精神なのです。
よってそれが出来ない(潔くない)人を「恥」と呼ぶのです。

その「潔さ」は、帰結として「生きること」と「死ぬこと」の生死がいつも裏合わせでいることを意味します。
つまり、「いつでも死ぬ覚悟はできている」「正義のためならいつ死んでもかまわない」「今日が人生の最期かもしれない」という覚悟です。
それが“武士道精神”です。

武士道精神を語る上で非常に大切なことは、「自分の命に執着しない」ということと、「何が正しいかを見極めて、正しさのなかを生きる」ということなのです。
そのために強くあり、守るべきもののために戦うなかに武士道精神が発揮されるのです。

《武士道とは何か?》

武士道とは「正義諭」を裏付けるものです。
武士道精神とは「悪なるものは許さない。正義の戦いはする」「己は卑怯な振る舞いはしないが、卑怯者は許さない」という善悪の明確な概念の上にたった自己犠牲の精神なのです。
「戦うべきときに戦う」のが武士道精神なのです。

つまり、「正しさの裏付け」がないものは武士道精神ではないということです。
別な言い方をすると、「卑怯な振る舞い」「嘘」「騙し」「隠蔽」「ズルい行為」を許さないのが武士道精神なのです。

大切なことは、いくら精神修養を積んでいても「怒るべきときに怒らない」ようでは武士道精神ではないのです。

混濁の世(何が善で何が悪か分からなくなる世の中)にあって、真実を明らかにし、正義を打ち立てようとすることが武士道精神なのです。

桜の花と日本人

《桜の花は日本人の気質を表わすもの》

張陽氏は、桜の花に武士道を見ていますが、確かに重なり合うといえば重なります。
しかし、ご意見番としては、桜の花というものはもっと大きな日本人(大和民族)の気質と特徴を表わしていると思うのです。

桜の花びらは小さいです。
小さい花びらがたくさん咲くことで桜の木全体で大きな美を作り上げています。
それを人間に置き換えると、集団の美しさと言えます。
一つ一つの花びらが人間だとすると、多くの人間が集団で一致団結したときの美しさを桜の花は表現しています。
桜の花は一輪よりも桜舞うという言葉どおり、たくさんの花びらが咲き乱れてこそ美しいのです。
そこに日本人の集団の団結力、結束力、調和の心を見ることができます。

そして桜の花で重要なことがあります。
なぜ日本人が桜の花を愛するのかというと、桜の花のなのです。
欧米人は、はっきりとした色の花を好む傾向があります。
大陸系の多くの人たちは原色の強い色をより好みます。
しかし、桜の花は“淡い色合い”なのです。
白いようで赤、赤にようでピンクというはっきりと濃い色ではないのです。
そこに日本人の曖昧な文化が反映されています。
そう、別な言い方をすると桜の花は曖昧な色なのです。
日本人は桜の花の淡い色合いに強く惹かれるのです。
そこに奥深い美の世界を見ているのです。

もう一つの特徴が張陽氏の指摘にあるように、「散り際の潔さ」なのです。
淡い色の花を集団で咲かせる桜の花が満開からパッと散ることによって、桜吹雪を起こす。
咲き誇って美しい世界を展開していたかと思ったら、前後裁断するように散っていく。
その潔さに慕情を感じるのです。

要するに、桜の花が日本人の気質を現わしているということは以下の3つなのです。

「集団が結束する美」
「決して強く自己主張しない淡い色合いの美しさ」
「散り際の潔さ」

現代に必要とされる武士道精神(サムライ・スピリット)とは?

「忠誠心」と「正義の心」が武士道精神の根本精神だとすると現代社会ではどうなるのか?
以下の3つを語りたいと思います。

《国民への忠誠心に裏付けられた武士道精神》

民主主義社会において忠誠を誓う対象とはずばり「国民」です。
つまり、権力者ではなく、国民のために、国民を幸福にすることのために戦う人が現代のサムライです。
権力の座にある者が自分たちの利益や主義主張を守るためにすることは、武士道ではありません。

何が真に国民のためなのかという正邪を見分け、悪なる存在と戦うことが現代の武士道精神なのです。

《顧客への忠誠心に裏付けられた武士道精神》

ビジネスの世界にも武士道精神は発揮されると思われます。
それは「真の顧客主義」です。
つまり、お客様への忠誠心です。

ビジネスにおいて、どうしてもお客様のためと言いつつ、実は自社の都合で仕事をしているときがあります。
それは偽の顧客主義です。
本当に顧客の立場に立ち、心底顧客のことを第一に考えるビジネスには武士道精神に相通じるものがあります。
要するに、ビジネスにおいても武士道精神が成り立つということです。

《最も崇高な武士道精神とは?》

「忠義の心(忠誠心)」と「正義の心」が武士道精神の発露であるならば、最高の武士道精神とは、「神への忠誠心」に裏付けられた「神の理想実現のための正義の戦い」こそ武士道精神である。

ここでいう神の理想とは「自由」「民主」「信仰」「チャンスの平等」などです。

神を信じ、神への忠誠を誓う証として、神の代わりに邪悪なるものと戦う者こそサムライスピリット(武士道精神)の体現者なのです。
アメリカでは、ドナルド・トランプ氏がその一人です。

サムライスピリットを持つ張陽氏にエールを贈る!

天安門事件を経験し、中国の民主化運動に命を掛けたことがあり、中国共産党政府の邪悪さを暴き出している張陽氏とは、サムライスピリット(武士道精神)を持つサムライ(侍)と言えるのです。

大きな理想と正義を持ち、邪悪さと戦う者こそ現代のサムライなのです。
多くの苦しむ民衆への忠誠心を持って立ち上がる者こそ武士道精神の体現者なのです。

世直しご意見番が見る限り、張陽氏は立派なサムライです。
これからも世直しご意見番は、張陽氏を応援します。
共に戦おう!!

最後までお読みいただき、ありがとうござりんした!

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