【「あだ名禁止ルール論争」の背景にあるものは?】
恐らく、多くの人がこの「あだ名禁止ルール」の背景にある「思想」に気がついていないと思われる。
絶対的にとは言わないが、このあだ名禁止ルールに賛成の人と反対の人の思考の奥深くにはある思想が存在する。
それは「自由」と「平等」である。
あだ名禁止ルールを作ることで子どもを守ろうと考える人には「平等思想」が強く現れている。
一方、あだ名禁止ルールに反対する人たちの根本には「自由思想」が根ざしている。
「自由」という思想も、「平等」という思想もどちらも人間の幸福と深く関係している。
どちらか一方だけあればいいというものではない。
そこが難しいところである。
つまり、どちらが絶対的に悪いとは言い切れない部分があるので、この論争についてアンケート調査で半数の人が賛成も反対もしない「どちらでもない」となっているのだ。
つまり、子どもたちの自由を守った上で、善悪を教えようとする立場なのか、子どもたちを平等の立場においてしまって教育するか、という違いなのだ。
自由を選べば、嫌がるあだ名をつける子どもも出てくるが、それに対して「何が良くて何が悪いのか」を教えるのが教師の役割だと考える先生(学校)はあだ名を禁止にしない。
(この場合のあだ名とは愛称を意味する)
一方、言われて嫌なあだ名を付けられて悩む子どもを無くすために子どもたちの自由を制限してまで平等の立場におくことで子どもたちのコミュニケーション能力を育てようとする教師(学校)があだ名を禁止しているのだ。
あだ名禁止に賛成するか反対するか、という問いかけの背景には「自由」を重視するか「平等」を重視するのかという思想的背景が横たわっている。
「自由」と「平等」の思想で重要なことは明らかである。
「自由」とは「身勝手」「好き勝手」ではなく、「平等」は、「チャンスの平等」こそ幸福をもたらすものであって「結果平等」になってはいけない、ということだ。
「自由」には間違いが発生することがある。
「平等」も扱いによっては、人間を不幸にすることもある。
【あだ名とイジメの関係】
《あだ名禁止ルールはイジメの根本解決ではない》
今回の「あだ名禁止ルール論争」において、世間の人と現場の教師たちでは“隔たり”がある。
これは、実際に騒動の話題となった小学校の熱血先生からご意見を聞いたので、世間の人たちの反応と現場の教師の考えに違和感を覚えたことは事実です。
結局、世間の反応は「あだ名禁止ルール」と「イジメ」を結び付けて考えているのです。
ですが、現場の教師は、「あだ名」と「愛称」は別、という認識は持ちながら「あだ名禁止ルール」を使っている。
そして、「あだ名禁止ルール」以外のイジメの対策も取っている。
では、何が問題なのか?
この問題で「あだ名禁止ルール」を賛成または、実際にあだ名を禁止している学校の大きな根拠となっている理由があります。
それは「ひどいあだ名をつけられて、それがイジメにつながったという体験がある」です。
これはよくかみ砕かないと正しく理解できないものです。
大事な論点は、「嫌なあだ名を付けられたからイジメが始まった」または「嫌なあだ名で呼ばれるようになったからイジメにつながった」のか?
という点です。
これは、下流に位置する人が、水が中流から流れてきたから中流をせき止めれば下流には流れてこない、と言っていることと同じです。
水は上流から中流、下流へと流れていくものです。
ものごとには原因と結果があり、原因と結果の間には縁(要因又は条件)があるのです。
(これを因縁果の法則と呼びます)
悪い結果(イジメ)を無くすためには、その悪い結果を作っている縁(要因又は条件)を無くすだけでは意味がないのです。
悪い結果(イジメ)を無くすためには、悪い結果を生み出す根本の原因を断ち切ることが必要なのです。
では、その根本原因(上流)とはなにか?
他人に嫌がるあだ名をつけて相手を貶めたり、馬鹿にしたり、蔑んだりする人間(子ども)の「愛なき心」、「善悪を知らない心」です。
もちろん、悪い結果(イジメ)を無くすための縁(要因)を取り除くことも大切だと思います。
でも、それでは表面上悪い結果が出なくなるように見えても、根本的な解決にはつながらないので、悪い結果(イジメ)はおさまらないのです。
「あだ名禁止」というルールを課して、子どもをイジメから守るという発想は、中流を無くす対策であり、イジメの要因(条件)を無くす発想なのです。
ですから、まったく効果が0ではないはずです。
ですが、大事な点は、上流を制していないため根本的な解決にはならないという点にあります。
結局、あだ名禁止ルールを適用している学校は「心の教育を行っていない」という批判をうけなければなりません。
アチキが「教育の放棄」と言った理由はそこにあります。
グリーン・ヒルズ小学校では、イジメにつながるような嫌なあだ名を付けて読んでいたら、教師がその発言をした子どもに考えさせます。
考えさせることで善と悪を指導することができます。
人間の心に善と悪が潜んでいることを認識し、悪なる考え(気持ち)を無くし、善なる考え(気持ち)を増やすことが心の教育です。
ですが、あだ名禁止をルール化し、「さん付け」で呼び合うと、それは一般社会での法律と同じ効果しかもたなくなります。
それが当然であって、時間が経つと、その意味を理解することなくただ「当たり前」となるだけなのです。
それは失礼な事例かもしれませんが、生まれたときから目の見えない人が、途中から目が見えなくなった人のように“不自由を感じない”のと同じです。
小学1年生という大人に対して素直な年齢から「さん付け」で呼び合う環境にいれば、そうしたルールが当たり前となるだけであって、それがイジメの根本的解決になるわけではないのです。
教育をしているというならば、もっと心に踏み込んだ善悪の教育をしなければなりません。
《「さん付け」で呼び合うと品位が見に付く?》
また、「さん付け」で呼び合うことで品位が身に付くからと言う理由も、おかしなものです。
完全否定はしませんが、人間の品性は「知性」「理性」「悟性」などを統合したものです。
言葉遣いや態度、所作を美しくすることで品性は身に付きます。
さん付けで呼び合ったから品性が身に付くわけではありません。
数ある品性を身につけるほんのひとつの要因でしかありません。
結局、この論争の問題は、問題(イジメなど)の根本を見ている人と問題(イジメなど)の要因(条件)に目を向けているかの違いなのです。
要するに、イジメを根絶するなら、根本から断たねばならないのです。
それは、「イジメをさせない心の教育」です。
それには宗教心、倫理が必要です。
たんなるルール作りの運営では、子どもの心に善なる価値は生まれません。
《「さん付け」ルールへの疑問》
ご意見番には、あだ名禁止ルール(さん付けで呼ぶ)を適用している学校に疑問があります。
あだ名を禁止して、さん付けルールを課している学校の理由が「イジメ対策」が主なものだと思います。
しかし、現場の先生たちも「あだ名を禁止にすればイジメがなくなるわけではない」という認識にあるのです。
では、あだ名を禁止してもイジメがなくならないと思いながらあだ名禁止ルールを適用するのはなぜでしょうか?
もし、あだ名と愛称を区別して、「相手が嫌がるあだ名を禁止する」というルールならまだ理解できます。
しかし、実際は「さん付けで呼び合うルール」を課しています。
それは子どもたちに「愛称」を付けたり「愛称」で呼び合ったりすることを禁止しているのと同じです。
結局、愛称に対して理解をしているといっても、世田谷小学校の子どもたちのような経験を奪うことにつながっているということを「さん付けルール」を課している学校は認識するべきです。
【イジメの主戦場はネット(SNS)である】
ある調査では、小学生がスマートフォンを所有する比率は、小1~小2で14%、小3~小4で35%、小5~小6になると40%という調査結果があります。
また、自宅でタブレット端末やパソコンを使用できる環境にいる子ども、オンラインゲームなどのネットを使用する小学生も増えている。
子どもたちのイジメというと学校で起こることをいまだに中高年を中心にした大人たちは考えている方も多いではないでしょうか?
だが、現代のイジメ事情は大きく変化しているのです。
それはスマートフォンなどの普及、ネットやSNSの発達による。
要するに、子どもたちの「イジメの主戦場」は学校内ではなくなっているのです。
現代の子どもたちの「イジメの主戦場はSNS(ネット)」なのです。
そのことにどれだけ現役の教師たちは理解しているのか?
つまり、教師たちの権限範囲外であり、教師たちの目の届かないところでイジメはSNS上で行われているのです。
だから、教室(学校内)では、普通の生徒を装っていても何の違和感もない。
SNSでイジメをしていても裏アカを使ったりして、匿名の世界を悪用してイジメをしているので、仮面をかぶって教師に接することが可能となる。
だから、いくら学校内であだ名を禁止して「さん付け」で呼び合っていても、ネット上であだ名どころか誹謗中傷して特定の対象者をイジメている。
では、どうすればいいのか?
だからこそ、あだ名を禁止せず、嫌がるあだ名をつけている子に「なにが良くて、何が悪いのか」を教師が教えなければならない。
それこそが教育である。
以前の記事で「あだ名禁止」は教育の放棄だと言ったが、それはこのことを言っている。
子どもたちは間違えることもあるし、人生経験も浅く、世界や社会に対する知識も未熟である。
だからこそ、子どもに考えさせなければいけない。
そして、教師は一緒に子どもと考え、善と悪の区別を教えなければならない。
あだ名禁止ルールを作ってしまうと、子どもたちはただ、無条件に大人の考えに従うだけになってしまい、考える機会を奪われることになる。
もし、考えさせる教育をきちんとしているというのならば、わざわざあだ名を禁止するルールなど作る必要はない。
子ども自身に考えさせるという教育にこそ、独創性は芽生えるのだ。
創造性と自由は密接な関係にあるのだ。
【学校の権限とあだ名禁止ルールについて】
あだ名禁止ルールについて前回の記事では触れなかった論点がもう一つある。
それは「学校の権限について」だ。
原則、学校の権限または校則は、学校内または学校の行事参加時にとどまるべきである。
つまり、放課後や家庭内での子どもの自由や選択権を奪うことは学校という教育機関が持つ権限を越えたものである、という点だ。
親権者が許している、認めていることを学校が、学校以外の時間と場所で規制することは、その権限を越えたものである、という論点がある。
原則、学校の規則やルールは子どもの学校以外で適用してはいけないのだ。
個人の個性と人権を大事にする西欧社会であだ名を禁止しないのはそうした理由からだ。
日本人は、「新型コロナウイルスの感染が拡大しているから自粛してください」というと、ほとんどの人が自粛する素直な国民性を持っている。
そうした国民性から、学校側が学校以外の時間と場所に対する校則やルールを作ってもほとんどの場合抗議しない。
あだ名を禁止することによって、イジメをなくす力とするためには、子どもたちの放課後や家庭の中でもクラスメートに対して嫌がるあだ名を付けない、呼ばない、ということを実践させなければ意味がない。
そこまで踏み込むことは学校の権限と責任を超えている、ということだ。
だから、禁止ルールを作るのではなく、子どもたちが自分たちで判断できるように教え導くことが教師の役割(教育)である、ということだ。
【「あだ名禁止」の教育にもの申す!】
《呼ばれて嫌なあだ名とは?》
“呼ばれて嫌なあだ名”とは、結局、「固有名詞と化した悪口」である。
つまり、呼ばれた人が嫌なあだ名とは、
他人を罵倒する意図を含むもの。
他人の価値を貶めようとするもの。
他人の身体的特徴をバカにするもの。
など、誹謗中傷の内容を含んだものだ。
要するに、「あだ名」が問題なのではなく、そうしたその人が呼ばれて欲しくないあだ名をつける人間(子ども)の心が問題なのだ。
《「あだ名」禁止は、教育としての間違い》
「あだ名」をつけることが「イジメにつながる」のではなく、「イジメようとする卑怯で意地悪な気持ちがあるから呼ばれて嫌なあだ名をつける」のである。
問題の本質は、「相手が嫌がることをしない教育をすること」「人間の違いを理解させる教育をすること」のはず。
「あだ名」を禁止したからイジメがなくなった。
イジメを無くすために「あだ名」を禁止する。
というのは、教育の放棄であり、子ども同士の「自由な結びつき」と「表現の自由」の侵害である。
子ども同士の関係は、「ニックネーム」「呼び捨て」で呼んだり、呼ばれたりすることで親愛の情が深まったり、コミュニケーションが良好になることに繋がる。
良い意味を含んだあだ名、ユニークなあだ名は好意(友情)の証である。
(この場合のあだ名はニックネームという意味)
それは中川翔子さんの言うように「生涯の宝」となる。
本名は大人(親)がつけたもので、子どもにとっては「公式の世界」であり、「大人の世界」なのだ。
子どもとは大人に秘密を持ちたがる存在で、「子どもの世界」を作り上げることに喜びを感じるものである。
よって悪意あるあだ名を排除するために良い意味を持つあだ名まで禁止することは、子どもの思い出をひとつ取り上げることに他ならない。
《「あだ名禁止」教育にもの申す!》
結論、「あだ名=イジメ」ではない。
イジメの根本は、人間の個性、環境や能力の違いからくるものである。
勉強が出来ない。
運動神経が鈍い。
太っている。
顔が変。
親(家庭)の経済的事情。
など、あげたらきりがない。
あだ名を禁止すればイジメ防止になるというものは幻想である。
イジメの本質と人間性の本性を見落とした教育の間違いである。
少し大げさにいえば、逃げの教育であり、教育の放棄である。
なぜなら、あだ名を禁止するというルールを作り監視することがイジメ防止となってしまっているからだ。
そうなるとイジメの本質である人間の心の奥底にある「憎悪」「嫉妬」「嫌悪」「差別的感情」に教師が目を向けなくなる。
イジメの根本は、子どもたちが持つ残忍性から発生する。
その残忍性は人間としての未熟さからくる。
その未熟さを育て指導するのが教師の役割だ。
それを「あだ名を禁止」することで「イジメがなくなった」と認識するようならば、それは教育の放棄でしかない!
《あだ名禁止の教育をすると・・・》
全国教育問題協議会常任理事の山本豊氏が主張しているように、「○○さんと呼べばイジメがなくなる」というものではない。
まったく馬鹿げていて、実効性がないものだ。
学校の規則で「あだ名禁止」をしてみたところで、子どもたちは教師のいないところや教師の目を盗んであだ名をつけ呼び合う。
なぜなら、あだ名は子どもたちのコミュニケーションにとって不可欠なツール(道具)だからだ。
山本豊氏が主張しているように、
「子どもの言語表現については、他者に危害を加えるものを除いては自由にするべきである」
あだ名を禁止することが教育だと考える発想に根本的な間違いがあるのだ。
「あだ名を禁止する教育」は、『面従腹背』、つまり『表は笑顔で接するが、腹の中は反抗する人間』、『本音と建て前を使い分ける人間』を育ててしまう。
なにより、“子どもらしさ”を失わせてしまう。
大人の事情を子どもに押し付けるのは良くないことだ。
【あだ名に関する正しい教育とは?】
「あだ名禁止」の教育に関する答えは、ご意見番が答える前に出ている。
全国教育問題協議会常任理事の山本豊氏の見解とグリーン・ヒルズ小学校の田中節子副校長の言葉の中に正しい教育の姿がある。
さすがである!!
あっぱれ!!
すでに答えは出ているがあえてご意見番が少しだけ補足する。
《「あだ名」に関する正しい教育とは?》
グリーン・ヒルズ小学校で実践しているように、愛称(ニックネーム)を「みんなで呼ばれたい名前、呼びたい名前を相談」して決めることだ。
「あだ名」ではなく「愛称(ニックネーム)」という語彙を使用することだ。
つまり、呼ばれたい愛称をつけて呼び合うことで親近感や連帯感を生み出すことだ。
もし、嫌がるあだ名を勝手につけて呼んでいたら教師が「本当にいい呼び方だったのかしら?」と問いかけて子どもたちに考えさせることだ。
教育とは、建前の生き方を教えるものではなく、善と悪を区別する知恵を教え、人間の違いを乗り越えてコミュニケーションをとれるように指導することである。
【万が一、あだ名禁止ルールを作るなら・・・】
それでもあだ名を禁止する必要があるのならば、以下の提言をする。
それは、「相手が嫌がるあだ名を付けることを禁止する」という規則である。
これによって、子どもと教師とが一緒に考え、教え、学ぶことができる。
全面的にあだ名禁止ルールにして「さん付け」で呼び合う教育は、子どもの思い出と宝物を奪うことでもある、ということを考えなければならない。
最後までお読みいただき、ありがとうござりんした!