はじめに
法治国家である日本国において最高法規は「日本国憲法」です。
法律、政令、省令などは憲法に反しない限りにおいて存在が許されます。
ですから、憲法に反する法律や政令等を施行又は行使する議員及び官僚がいた場合、それは法治国家における不法行為者(憲法違反)とみなすべきです。
【補足説明】:法律は国会でつくられ、省令や政令は行政でつくられます。
憲法とは、主権者である国民が権力者(国家)の横暴から自由や人権を守るために存在しています。
ですから、「主権者である国民は憲法によって守られる立場」であり、「国民から選ばれる議員及び公務員(官僚)は憲法を守らねばならない立場」なのです。
この点を、主権者である国民は深く理解するべきです。
日本を全体主義に侵させないために、国民が知識武装することは必然であり権利でもあります。
国民の幸福追求権および人権、自由を制限する不当な政治家は排除されるべきなのです。
昨今の政治情勢、社会状況において危惧することが非常に多い。
法治国家を標榜する限り、日本国の主権者が国民であるということを日本人は自覚するべきでしょう。
歴史的にみると日本人は権力者(お上)に従順な性質を持ち、何事もお上まかせの傾向性があります。
しかし、それは主権者である国民という立場を放棄することにつながります。
国民として最低限知っておき、不当な権力を発揮する権力者と戦うための知識武装は必要だと思います。
それが今回の主旨です。
主権者である国民が「自由」と「幸福追求権」を守るために必要な憲法の知識武装!
《主権者である国民が知っておくべき憲法とは?》
日本国憲法前文より抜粋引用
~ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。
われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。~
日本国憲法第11条
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
(「与へられる」旧字体、現代的に言えば「与えられる」)
日本国憲法第15条
第1項
公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
第2項
すべて公務員は、全体の奉仕者であって一部の奉仕者ではない。
補足説明:ここで言う「公務員」とは、官僚という限定されたものではなく、選挙で選出された議員も含みます。
日本国憲法第17条
何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。
日本国憲法第21条
第1項
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
第2項
検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
日本国憲法第36条
公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
日本国憲法第96条
この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
《論点1=国民の声を黙殺する政治家は「民主主義社会における政治家」にあらず》
近年、議員の家系に生まれた2世、3世などの議員が増えました。
これは厳密に言えば、“貴族制”が現代に出現したとも言えます。
親から地盤、看板、算盤を受け継ぐことで苦労せずに権力者の地位につく人に多い傾向性が「傲慢さ」「民衆の気持ちが分からない」です。
そうした傲慢な政治家は、憲法を理解していないと思われます。
その最たるものが「国民の声を聴こうとせず、国民の声を黙殺する」であり、「国民の意見や批判を逆に弾圧する」です。
重要論点を指摘します。
国民から選ばれる議員(政治家)が国民からの批判・非難を受けるのは当然のことなのです。
逆に、国民が政治家から弾圧、威圧されるということは、原則あってはならないのです。
これは民主主義の根幹です。
これを理解しない政治家が最近話題になっていますので、国民はこの論点を深く理解し、政治家は自分の立場を深く理解することが必要です。
誰のことを言っているのか、分かりますよね?
では、その裏付けの法(憲法)を示します。
日本国憲法前文
「国政は、国民の厳粛な信託によるもの」
日本国憲法第15条
第1項「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。」
第2項「すべて公務員は、全体の奉仕者であって一部の奉仕者ではない。」
ですから、国民の声を聴き、受け止めることが国政を担う国会議員には求められます。
論点1の結論として、「国民の声を黙殺、抹殺する政治家は“民主主義社会における政治家”にあらず」なのです。
《論点2=国民は政治や行政を批判・非難・抗議する立場にあり、政治家及び官僚は批判・非難・抗議を受け止める立場にある》
日本国憲法が規定することを国民と権力者の立場を位置づけると以下の通りになります。
「国民は政治や行政を批判・非難・抗議する立場」にあり、「政治家及び官僚は批判・非難・抗議を受け止める立場」にある。
これを理解していない国会議員及び知事などがいます。
言語道断と言っておきましょう。
勘違いしている権力者は以下のことを噛みしめて理解するべきです。
日本国憲法第21条
第1項「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」
第2項「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」
〈報道の自由はない〉
国民のなかにも勘違いしている人がいるのが、「言論の自由」と「報道の自由」でしょう。
「言論の自由」の対象者は個人及び思想信条を持つ組織体ですが、基本は「個人」を主体としていることは明白です。
一方、「報道の自由」とは、文字通り「報道機関」または「公の報道をする組織」が対象です。
この違いは「言論の自由」の方が幅は広いと言えます。
具体的に言うと、「報道の自由」は、出版社、テレビ局等のメディアとなります。
重要なことは、日本国憲法において「言論の自由」はありますが、「報道の自由」の規定はないという点です。
ですから、メディアが利益を求める情報操作又はスポンサーの意向に沿うような偏向報道をしていいという法的根拠は存在しないのです。
主権者である国民の言論の自由は、主権者であるがゆえに主権者の代理として統治する議員の言動を批判するものであり、主権者である国民の政治や行政への批判・非難・抗議は当然の権利なのです。
以下の法を国民は知識武装として使うことです。
第21条第1項「言論の自由、表現の自由は、これを保障する」
第21条第2項「検閲は、これをしてはならない」
〈検閲はしてはならない〉
『検閲』とは?
検閲とは、狭義には国家等の公権力が、表現物(出版等)や言論を精査し、国家が不適当と判断したものを取り締まる行為。
憲法の言う「検閲」とは「行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的とし、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを特質として備えるもの」
(Wikipediaから引用)
簡単に言うと、公権力(内閣、行政、及び政治家)が国民の思想・言論の内容と表現を強権的に取り調べる、公権力に反するものを排除又は罰すること。
つまり、権力者(政府や行政)にとって不都合な思想・言論を調べ上げ、権力者に都合の悪い思想・言論を改めさせる又は封殺すること。
検閲ではないですが、それに近いものがあることにどれだけの国民が気づいているでしょうか?
具体的に指摘します。
それは「ファクトチェック」です。
こうした手法は巧妙で卑劣なやり方です。
政府や行政(省庁)の息のかかった者を送り込み、別組織(通常は民間組織を装う)を立ち上げ、間接的に(憲法違反にならないように)国民の言論を調べ、なおかつ権力側にとって有利な情報操作をする。
うまいやり方です。
合法的に権力者の利益と立場を守る手法をやるのです。
騙されず見破らねば主権者としての権利は奪われます。
検閲をもしするのであれば、受けるべきは第一に権力者側(内閣、行政)なのです。
主権者である国民の政治や行政における批判や非難を弾圧するというのは民主主義社会における政治ではないのです。
そして重要な点は「権力者が主権者である国民の声(意見等)を検閲してはならない」のです。
ここで言う検閲とは「弾圧」「封殺」も含むと考えるべきです。
(注:検閲と弾圧は当然ながら本来は別の意味です)
政府や行政の政策に反対する国民の声を無視したり、弾圧したりすることは民主主義社会ではあってはならないのです。
なぜならば、民主主義社会とは「国民の声」によって形成される社会だからです。
ですから、国民が反論できない場で、政治家が脅しのような発言をして、国民に恐怖を与えるような行為は「主権者への言論弾圧(統制)」と呼ぶべきものです。
(誰のことでしょうか? 分かりますよね!)
ただし、単なる悪口や度を過ぎた誹謗中傷は主権者である国民であっても権限を越えたとみなされて責任を追及されても仕方がありません。
ですが、政治への不満や不平を国民が口にすることは当然のことなのです。
それを弾圧するような政治家は民主主義社会における政治家ではありません。
人間としてみても「傲慢」です。
〈権力者が国民をコントロールする手法の一つ〉
しかし、権力者は国民の声を聞くふりをして、自分たちの思惑通りに国民をコントロールしようとします。
その手法の一つが「業者(または業界)を取り込む」なのです。
「業者(または業界)」、分かりますか?
各産業界、学界などの人たちを取り込むことで「手先」として使用するのです。
「業者(または業界)」には、テレビ局、広告代理業、製薬会社、食品会社、パチンコメーカー(店も)、医学会などです。
(注:医学会は業者ではありませんが、同じ括りにしてあります)
論点2の結論として、「国民の批判、非難(政治や行政への)を弾圧する政治家は“民主主義社会における政治家”にあらず」なのです。
民主主義社会の政治(家)でないならば、なんでしょうか?
権力者が憲法や法律を超えて、その権限を行使することが意味することとは?
《権力者が国家法(憲法等)を逸脱し始めると、やがて全体主義社会へと変貌する》
最後に日本という伝統ある国家と日本国民にとって重要な論点を示します。
選挙で選ばれる議員(政治家)と国民の奉仕者である官僚は、憲法を守ることで国民から権力を与えられていることを自覚するべきです。
(国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使する。)
民主主義社会(国家)とは、国民全体が主権者であり、国民の意思(声)を代表者(議員)及び奉仕者(官僚)が代理権力者として行使するものです。
それは「法の裏付け」と「法の範囲内」が原則です。
ですが、世界には「民主主義」と言いながら独裁主義国家、全体主義国家が存在します。
その特徴は「国家法の上に存在する者がいる」、または「国家法よりも上位概念がある」です。
中国と北朝鮮がこれに該当します。
直接、間接を問わず、憲法や法律を超える力を行使する者、又は行使しようとする者とは「法治」を超える存在であり、法治国家から逸脱することであるのです。
なお、宗教的権威は地上の法の上に存在するものですが、それは宗教が地上の法律を侵してもいいということではありません。
宗教の存在は、全体主義や独裁主義ではありませんのでご注意ください。
宗教は権力ではなく“権威”を求めるものです。
また、宗教が政治活動をすることは世直しの一環であり、否定されるべきものではありません。
【重要論点】
法治国家であるはずなのに、法を超える存在や概念がある、それを共産主義国家又は独裁主義国家と呼ぶのです。
日本国憲法第11条が保障しているのは、「国家権力の保障」ではなく、「国民の人権の保障」です。これを「侵すことのできない永久の権利」と定めています。
よって、「予防接種」と呼ばれるコロナワクチン接種は、国民の一人ひとりの判断と選択にゆだねられなければならず、一方的な宣伝、干渉、推奨によって強制力を持つことは許されません。
また、「何を食するか」という問題に置いても、「昆虫」を食するかどうかという問題に置いて、国民の健康と趣向を無視した政府主導の食生活への介入は許されません。
食品業者へ補助金を出し、特定の商品(昆虫入り)を国民に食させようとすることは民間事業のレベルをはるかに超え、国民の生活への国家介入とみなせます。
これは憲法における「国民の基本的人権への不法な介入」です。
重要な点を再確認します。
権力者は国民に対し、「検閲」してはならない。
主権者としての国民の声(思想、信条、政治等への批判、不満等)をチェックし「弾圧」してはならない。
もし、これが破られたならば、それは実質的に民主主義社会から全体主義社会となったということを意味しています。
全体主義の本当の姿は「独裁主義」です。
独裁主義は、権力を安定させるために軍事力や弾圧の力を強化します。
また、戦争と簡単に結びつきます。
いま、日本はヤジロベーのように民主主義社会と全体主義社会がゆらゆらと揺れながら変貌していこうとしています。
この均衡が破られれば、全体主義社会にまっしぐらとなってしまうでしょう。
その指針となるのが「言論の自由が守られるかどうか」です。
別のいい方をすると「国民の声(批判や抗議)を権力者が許容するか、それとも弾圧するかどうか」です。
◆主権者である国民は、自分たちの代理である議員(政治家)と奉仕者である官僚に権利を与えている立場なのですから、当然の権利として政治や行政に対し、不満・批判・非難・反対意見・要望・抗議・反論をして当然なのです。
それを許さない権力者とは、独裁主義的気質を発揮する人物と言えるでしょう。
何度でも言います。
選挙で選ばれる政治家と主権者である国民の奉仕者である官僚は、「主権者である国民の声」を聞くべきなのです。
これは道義的に言っているのではなく、憲法という法的根拠を持ったものなのです。
それを権力者側と国民が同時に深く認識することが肝心です。
この国が民主主義国家であり法治国家であるというならば、他国の利益を優先する様な政策をすることは国民への裏切りであり、国民の命と健康を守らない政策は民主主義の終焉を告げるものです。
権力者というものは、いつの時代でも権力を守り、自分たちの利益を優先するものなのです。
名君、明主よりも暗愚、強欲者、己惚れ者、凡夫が権力を握ることの方が多いことは歴史が証明しています。
日本人は「国民が主権者であるという意味」を深く自覚するべきでしょう。
最後までお読みいただき、ありがとうござりんした!