『旭川の14歳中学生がマイナス17℃の公園で凍死=悪魔たちの所業に、もの申す!【中編2】 ~無責任で無慈悲な教師たちを糾弾する!~』

まずは【中編1】をお読みください。

Y中学校の教師(担任及び校長)の言葉は、教師の言葉ではなく、人間の言葉でもなく、悪魔の言葉!

《担任という悪魔》

〈「デートがあるので相談は明日でもいいですか?」〉

爽彩さんの怯える異常な様子を心配した母親は、何度も中学校の担任教師に相談した。

「娘はイジメられているのではないか?」
「イジメられていますよね? 調べてください」

4月に1回、5月に2回、6月に1回、入学して間もないたった3ヶ月で4回もイジメの相談に行っている。
母親は爽彩さんを守るために必死に担任にお願いした。

だが、担任の口からでた言葉は、とても教育者の言葉とは思えない。
「耳を疑う」というよりも、もし、アチキがその言葉を言われたら憤怒して校長を呼び出して大騒ぎしただろう、と思うものだった。

「あの子たち(A子ら)はおバカだからイジメなどないですよ
「今日は彼氏とデートなので、相談は明日でもいいですか?」

(ゴールデンウイークの深夜に、爽彩さんが上級生のB男から呼び出されて、非常に怯えていたことを母親が担任に伝えたときのこと)

この担任の言葉は、絶対に聞き逃せない。そして絶対に許せない!
仮にも担任である教師が、「我が子がイジメを受けている」と訴えているにもかかわらず、調べもなにもしないで「イジメなどない」と言い切っていることは、教師として最大級の無責任である!

この女教師に言いたい。
教師である前に、一人の人間としてあなたは最低である!
教師失格というよりも、人間失格である!!

「デート」と「受け持ちの生徒のイジメ」で、「デート」を優先する担任だから爽彩さんは死んでしまったんだよ!
爽彩さんの死にあなたは大きく関係していることを自覚せよ!!

〈家庭環境の認識は?〉

「何かを訴えたくて、飛び出したのは自傷行為ですし、彼女の中には以前から死にたい気持ちっていうのがあったんだと思います」

「具体的なトラブルは分かりませんが、少なくとも子育てでは苦労してるんだなという認識でした」

【中編1】でも語ったが、これが悪魔と心が同通した人間の吐く台詞である。
悪魔の心を持つ人間は、必ず「論理をすり替える」、そして「責任転嫁する」のだ。

担任の悪魔の弁論術はこうだ。
まず、「飛び出したのは自傷行為」と実際に起こった事実を先に述べ、その後から「彼女の中には以前から死にたい気持ちっていうのがあった」と主張している。
実際に起こった事実を先に述べているところに、悪魔の弁論術のポイントがある。
事実は否定できない。
否定できないことを先に述べておいて、それを聞き手の頭の中に受け入れさせておいて、自分の考えを主張する。
そういった弁論術を“悪い意味で使用する”のが悪魔の弁論術である。

この担任の言い分はこうだ。

「爽彩さんは自殺願望が以前からあったから、私(担任)には責任がありません」
「爽彩さんは母親と上手くいっておらず、家庭環境に問題があったので、それが理由で自殺したのでしょう。だから私(担任)には責任がありません」

この悪魔の弁論術に反論しよう!
ならば担任に詰問をする。
以前から死にたい気持ちっていうのがあった」のはなぜか?
物事には原因があって結果がでる。
「死にたい気持ちになった原因」はなにか? 答えなさい!!

人が「死を選択する」ことは、生半可な理由ではない。
この担任の言葉には、大事なものがすっぽりと抜け落ちている。
それは「爽彩さんの死の原因」または「爽彩さんの死の動機」である。
担任の言葉は、それを完全にスルーさせるための意図的な虚言(弁論術)である。
熟練の詐欺師も太鼓判を押すであろう虚言術である!

〈「二度と会いたくない」〉

爽彩さん自身も担任にイジメの相談をしたことがあった。
そのとき爽彩さんは、当然ながら「相手には言わないでほしい」と言った。
だが、その日の夕方には加害生徒に担任の教師たちが直接話をしてしまった。
爽彩さんは、担任に「二度と会いたくない」と言った。

これは学校内で、教師が絶対に、絶対に、絶対に、“やってはいけない”ことだ!
万が一、話をするのならば、解決を固く誓い、絶対に、絶対に、絶対に、解決しなければならない!
そうでないならば、イジメは倍加するからだ!

それが何を意味するのか分からないとしたら、精神病院に行ったほうがいいだろう。
教え子がイジメを受けて苦しみ、救済を大人である教師(担任)に求めたその手を振り払い、
足で蹴りつけ、拳で殴りつけたこととだと言うしかない。

つまり、担任のせいで「イジメは教師公認」となり、「イジメが加速、倍化」したのだ。

担任には爽彩さんの「死」に対して、大きな責任がある。

社会には法律があるが、社会を間違って捉えている大人たちがいる。
それは「法律至上主義」だ。
現代社会の法律は、「多くの人間が争いなく人権を守りながら生きるためのルール」でしかなく、法律の以前に、法律の根底に、法律を包含するように、「真理」があるのだ。
「真理」とは、人間の「良心」であり、「人として守るべき大切なもの」であり、「人類の叡智」である。

だから、法律さえ侵さなければ「何をしたっていい」という生き方は「人として間違っている」。
法律に反しなければ、「好き勝手にやっていい」ということは「人としての道を外れている」。
法律よりもっと深く、もっと大切な人の道、人としてのあり方があるのだ。

「イジメから生徒を救う」ことが担任の役割(使命)であるのに、「イジメを増長させる」とは、いったいどういうことか!!
この担任は、教師などという職業に就くべき人間ではなかった、ということだ。

《校長という悪魔》

〈「子供は失敗する存在です」〉

質問
「自慰行為を強要すること自体が問題だと思いますが?」

答え
「子供は失敗する存在です。そうやって成長していくんだし、それをしっかり乗り越えてかなきゃいけない」

Y中学校の校長は明らかに加害生徒たちをかばっている。
だが、校長(元)が庇っているのは、本当は自分たち教師であり、学校であろう。
つまり、校長としての責任を追及されないために「生徒を庇う」という「盾」をかかげて防衛しただけだ。
この校長の台詞も担任と同じ“悪魔の弁論術”である。

もう一度、校長の言葉を読み返してみてください。
どこかおかしいところがありますか?

「子供は失敗する存在です」
「それをしっかり乗り越えてかなきゃいけない」

別に間違ったことではないですよね。
でもこれが悪魔の弁論術なのです。
部分的にはあっているが、その状況に当てはめたときに、あるいは総合的に考えたときに「間違っている」のです。

それはこの言葉単体で存在した場合に問題がない、ということであって、爽彩さんの件に当てはめた場合は、大問題の発言なのだ。
一見、正論を吐いていると思わせて、相手を騙すのが悪魔の弁論術である。
悪魔の弁論術は、「部分的にはあっている」が、「全体を通してみると間違っている」というものなのだ。
正しさの中に「悪質な何か」を紛れ込ませるのが悪魔の弁論術なのだ。

この校長の弁論術も担任と同じく冒頭に「子供は失敗する存在です」と定義している。
確かに子供は未熟であり、間違いを犯すことが多い。
誰もが否定できない台詞を先に持ってきて、問題の本質をすり替えるのが、校長の吐いた台詞だ。

要するに、校長が言いたいのは、「加害少年たちは子供という未熟な存在なのだから、失敗(イジメをしたこと)をしたのはしょうがないでしょう。それよりも子どもたち(加害少年たち)が今後どうやってこの事件を乗り越えていくのか、ということが大切でしょう」ということだ。

質問の「自慰行為を強要」という犯罪の問題を「加害少年たちの立ち直り」という加害者側の更生の問題にすり替えているのだ。
悪質、ここに極まれり!!

さらに言うと、この校長の言葉は重要な意味を含んでいる。
悪魔の弁論術を使う校長も“うっかりした”ようだ。
それは、質問に対する校長の返答は、「加害少年たちのイジメ(犯罪)を認めた」ことになるのだ。
「自慰行為を強要する犯罪」を「子供の失敗」と語彙のすり替えをしてはいるが、それは「子供の失敗=イジメ(犯罪)」を認めたことになる。

この2重の意味を持つ校長の言葉の中に校長という人間の人間性がある。
つまり、加害少年という子どもたちを守ろうとしている立派な教師を演じることで、教師という職業についている人間としての面目を取り繕うとしているのだ。
校長が真に心配しているのは「自分のこと=教師としての責任」であり、真に重要としているのは「加害少年たちではなく、自分のこと」なのだ。
腐っている!!

こんな人間が校長として権力を握っているとは、Y中学校の生徒と保護者が可哀想で仕方がない。
即刻、懲戒処分にするべきである!
もちろん退職金は0である!
校長よ、それを心配しているのだろう?

この悪魔の言葉をアチキはずっと忘れない。
この悪魔の言葉を吐いた校長の存在をアチキはずっと忘れない。

〈「お話することが出来ません」〉

質問
「生徒たちの対応や指導に対して、加害生徒たちはどういう反応でしたか?」

答え
「それについてはお話しすることが出来ません。学校内で起きたことを個別でどういうことを指導しているかについて、学校として他に喋ることはできない。そんなことをしたら生徒に対する裏切りになる

どうしてこうも聞き逃せないような台詞、とても教育者とは思えないような台詞を次から次へと吐くのでしょうか?

校長よ、あなたはなにか大きな勘違いをしているのではないか?
学校には治外法権があるとでも思っているのか?
思ってるんですね!

他の記事でも述べましたが、この「学校には学校外の介入を拒絶する治外法権」が不文律の法のように存在しているのです。
教師たちはその間違った価値観にいい加減に気づけ!
いや、気がついていて、あえてやっているのだろう!

いいか校長、アチキの言葉をよく聞け!

「学校内で起きたこと」ではなく、「社会のなかで起きたこと」が正しい認識だ!

学校で起きたことも、スーパーで起きたことも、会社の中で起きたことも、ネット上で起きたことも、路上で起きたことも、すべて「社会のなかで起きたこと」だ。
詭弁を弄するのはいい加減にしろ!

もう一つ、「生徒に対する裏切りになる」???
爽彩さんを裏切ったのは校長と担任の学校側であろう!!
これも問題のすり替えである。

校長が言っている裏切る生徒とは加害生徒たちのことだろう?
その他の大多数の生徒には何の関係もないのだから、関係のない生徒を巻き込むのは止めなさい。
(イジメを知っていて、見て見ぬふりをした生徒には関係がある)
要は、被害者である爽彩さんを裏切っておいて、加害生徒たちをかばっている、ということだ。

この校長の言葉に共通するのが、表面では正論の様な「盾」を用いて、本質を隠す論理である。
つまり、ズルい人間(弁論)なのだ。

〈「教育機関のあるべき姿じゃない」〉

質問
「2019年9月11日に行われた『謝罪の会』ですね。学校側として、弁護士の同席を拒否しようとしたのは事実ですか?」

答え
「それは事実です。教育機関のあるべき姿じゃないです。実際に指導の場に弁護士が立ち会うものですか? 僕は入れるべきじゃないって言いました」

まったく何を言っているのか分からない人間だな、この校長は!
この校長には、人としての倫理や良心がまったく見られない。
常識さえない。

弁護士が立ち会うのが教育機関のあるべき姿じゃない?
意味不明!

まず言えることは、学校関係者が起こした事件(イジメによる死)の話し合いで、校長に弁護士の立ち会いを拒否する権限も法的根拠もない、ということだ。
逆に、弁護士はその依頼者の代理人なので、その人と一心同体であるから、話し合いに拒む権利も法的根拠も、学校側に存在しない。
それは、単なる校長の横暴である。

校長よ、弁護士と法律論争をするのが怖かったのだろう。
なぜなら、負けることが分かっていたから。
ズルい、卑怯、無責任、意気地なし。

弁護士立ち会いの話し合いを拒絶したことが、回り回って学校側に落ち度アリと宣言していることに、いい加減気づけ!!

〈「トラブルがあったのは事実」〉

質問
「学校の認識として、イジメはなかったという事ですか?」

答え
「そうですね。警察の方から爽彩さんにも聴取して『イジメはありません』と答えてます。それは病院が聴取に向かって、聞き出したことで、学校が聞き出したことではないです。実際にトラブルがあったのは事実ですけど」(原文のまま)

Y中学校の校長の頭の中は支離滅裂である。
「イジメはありません」でも、「実際にトラブルがあったのは事実」??
これも悪魔の弁論術であり、語彙の入れ替えをして真実を捻じ曲げる悪意がここにある。

つまり、「イジメ」を認めると教師(学校側)の責任を教育委員会や社会から責められるので、「トラブル」と表現(語彙)を言い換えて、「とくに大きな問題ではない」と思わせる“騙し戦術”なのだ。

そのような騙し戦術はご意見番には通用しない。
校長よ、「生兵法は怪我の基(もと)」という諺を学んだ方がいいだろう!

この言葉も誤魔化そうと語彙の入れ替えをして騙そうとしているが、校長の戦下手を露呈させている。
言葉は入れ替えているが、「トラブルという名のイジメがありました」「トラブルという名の間接的殺人事件はありました」と言っているようなものである。

校長よ、「トラブル」とは具体的になんなのか、はっきりと答えなさい!

〈「何でもかんでも、イジメとは言えない」〉

質問
「改めてトラブルがあったのは事実だが、イジメではないということですか?」

答え
「何でもかんでも、イジメとは言えない」

では訊くが、「自慰行為を強要することは、イジメか?イジメではないのか?」
「わいせつな画像を送れというのは、イジメか?イジメではないのか?」
「わいせつな画像を送らないと……脅迫することは、イジメか?イジメではないのか?」
「大勢で寄ってたかってバカにして中傷するのは、イジメか?イジメではないのか?」
「『死にたい』と口にしている人に向かって『死ねるなら死んでみろ』というような意味ととれる挑発をするのは、イジメか?イジメではないのか?」

「何でもかんでも、イジメとは言えない」

この台詞は、悪魔の台詞にしか聞こえない。
これ以上に被害者を愚弄する言葉があるだろうか!

確かに加害少年のやったことはイジメと呼べるものではないかもしれないね、校長!
それは明らかに「犯罪」だよな、校長!
人間として「最低最悪の行為」だよな、校長!
「犯罪」「最悪の行為」を「イジメ」なんて軽い言葉でいっちゃいけね~よな、校長!
でもな、世間様ではそれを「イジメ」と呼んでいるんだよ、知らなかったか? 校長!

〈「亡くなったことと関連がない」?〉

質問
「男子生徒が当時12歳の少女に自慰行為を強要して撮影することは犯罪ではないですか?」

答え
「当然悪いことではあるので、指導はしていました。今回、爽彩さんが亡くなった事と関連があると言いたいんですか? それはないんじゃないですか

ここのポイントも「悪いことではある」と認めつつも、最終的に「爽彩さんの死と関係がない」という言い逃れに持っていく、悪魔の弁論術を使用している点だ。

【前編】で、記載した爽彩さんが行方不明になる直前に友人におくったメッセージを思い出してほしい。

Y中学校の校長の発言は、徹底的に悪質な言い逃れ、責任転嫁、隠蔽をしているのが特徴である。

質問と答えのやり取りを正確に読み解くと、校長は加害少年の犯罪行為を認めたことになる。
「自慰行為を強要して撮影することは犯罪ではないですか?」➡「当然悪いことではある
なのに、それを爽彩さんの「死」と切り離そうとしている。
悪質の極み!

校長に訊ねる!
爽彩さんが亡くなった事と加害少年たちのイジメ(犯罪行為)が関連ないことを詳しく説明してみろ!
説明も論破もしていないくせに、簡単に、しかも根拠もなく「関連がない」と逃げる卑怯な態度は許せない!!

校長は、爽彩さんと加害生徒らとの間に「トラブルがあったのは事実」と認めつつ、それが「イジメ」であるとは認めなかった。
それでも加害生徒に対して適切に指導を行ってきたと主張した。
意味不明??
論理破綻!!

だが、爽彩さんは医師からPTSDと診断され、転校してもなお後遺症に悩まされ続けた。
それは紛れもない事実だ。
PTSDになったのは「悲惨なイジメ」があったからだというのは、誰が考えても「それしかない」という結論にしかならない。

校長の悪質な言い逃れは、悪魔の弁論術(言い逃れ)でしかない!!

《教頭という悪魔》

Y中学校の教頭も悪魔の一員である。
教頭が爽彩さんの母親に告げた言葉は?

「わいせつ画像の拡散は、校内で起きたことではないので学校としては責任は負えない」

「加害生徒にも未来がある」

「どうして先生はイジメたほうの味方にはなって、爽彩の味方にはなってくれないの」

そう言って、爽彩さんの母親は涙を流した。

おい、教頭!
未来が奪われたのは爽彩さんの方だぞ!!
爽彩さんにだって未来はあったんだ!
爽彩さんは未来を奪われたんだ!
それを加害少年の未来うんぬんを言うとは、赤い血が通っている人間とは思えない!
「加害生徒の未来」を考えるのではなく、加害生徒の「罪を問う」のが一番重要なことだ。

自分たちのしてきた「悪事」を教え、それがどれだけ人として悪いことなのかを教え、被害者遺族に謝罪し、反省の日々を送ることを教えるのが教育者というものだ!
それをすべてすっ飛ばして、「加害生徒にも未来がある」とはどういうことか?

教頭の言った台詞を語彙を入れ替えてアチキがいってやるよ、耳の穴かっぽじってよく聞きな!
「通り魔にも未来がある」
「一家惨殺殺人犯にも未来がある」
「レイプ犯にも未来がある」
いくらでもあるぞ!
あんたの言っていることは、悪魔の台詞だよ!

《学校という地獄》

〈「弁護士が同席するのなら教員は同席しません」〉

Y中学校での「謝罪の会」が開かれたときのこと。
学校側から「音声の録音は禁止され、学校は『弁護士が同席するのなら教員は同席しません』と、最初に学校側の校長と教頭が挨拶だけして教師たちは全員退席してしまった。
これではイジメが発生しても当然だろう。
要は、Y中学校という学校の教師たち=Y中学校そのものが、地獄なのだ。

〈爽彩さんの葬儀〉

爽彩さんの葬儀にY中学校の関係者は誰ひとり参列しなかった。
(2019年4月から9月まで在籍)
これがY中学校の悪魔性を証明している。
いくらなんでも、建前であっても、葬儀には出席するものだ。
これは村八分以上の仕打ちだ。

(注:「村八分」とは、村の住人たちが特定の家(人)に対して一切の関係を断つという酷い仕打ちをすること。だが、それでも同じ村人として2つだけは付き合いをやめなかった。その2つとは「火事」と「葬式」)

〈「イジメの真相を知りたい」〉

Y中学校は事件後に加害生徒たちから聞き取った調書を冊子にまとめているが、母親がいくら「イジメの真相を知りたい」と訴えても見せなかった。
弁護士を通して、学校と市の教育委員会に情報開示請求を何度行っても、すべて拒否された

大きな声を出して世直しご意見番は言う!
学校には治外法権なんか存在しない。
学校は単なる社会の一部でしかない。
生徒の保護者とその代理人である弁護士が情報開示請求をして拒否する法的な根拠はない。
それは「人権を無視した横暴」でしかない。
被害者の人権と遺族の当然の権利を拒否する学校などあってはならない。
それは、悪者に味方する世の中であり、被害者が泣き寝入りする社会である。
傲慢にもほどがある!!

Y中学校の学校名と校長、教頭、担任の実名報道を強く求める!
実名報道するべきである!
なぜなら、凶悪犯罪と呼べるものだからだ!
上記の3人には「少年法」の壁はないはず。

《主張の補足》

この記事を読んだ方からこんな意見がでるかもしれません。
「教師たちを悪魔なんて呼んでいいのか?」と。

逆に聞きます。
では、なんと呼べばいいですか?
これを悪魔の言葉と言わずしてなんという!
あなたは一体誰の立場で物事を考えているのですか?
アチキは被害者の立場を一番大事にして、ことの真相に迫り、真実とあるべき姿を浮き彫りにし、悪を糾弾しているでありんす!
14歳の中学生の命が失われたのですよ。

あなたの子どもが同じ目にあったら、Y中学校の校長、教頭、担任を何と呼びますか?
どんな感情が芽生えますか?

苦しみながら死ぬしかなかった爽彩さんの人生はわずか14年で断たれてしまったのですよ。
加害生徒たちは、まだ長い人生が残されているではないですか?
そのどちらが「かわいそう」なのですか?
爽彩さんにどのような落ち度があったのですか?
それは「死ななければならないもの」だったのですか?

未成年だから許されるということは間違いです。
誰も責任を取らないというのは、「被害者無視」「被害者軽視」です。

何よりも、イジメ(犯罪行為)をしておきながら、謝罪も反省もない人間を「人」として扱えますか?
これは法律的に言っているのではありません。
人道上の問題として言っているのです。

命が失われたにもかかわらず「悪ふざけ」「証拠があるならだせ」「加害生徒にも未来がある」「何でもかんでも、イジメとはいえない」なんて平気で言える人間を、アチキは「人間の心を持った存在」とは呼べない!!

悪魔の言葉の特徴

《邪悪さについて》

精神科の医師であり、心理療法カウンセラーであるM・スコット・ペックは著書『平気でうそをつく人たち』の中で人間の「悪」について以下のように語っている。

「邪悪なものがあるときには、きまってそこにはがあります」
「邪悪なものというのは、必ずと関係があります」

ペックは邪悪な人間が罪を突きつけられたときのパターンを以下のように指摘している。

「自分の罪悪感と自分の意思が衝突したときには、敗退するのは罪悪感であり、価値を占めるのが自分の意思である」

これは簡単に言うと、もし、何か悪いことをしたときに、それを指摘や叱責、または追求されて罪悪感を感じそうになったとき、「いや、俺は(私は)悪くない」と、自己正当化の意思で自分を守る、ということである。

《邪悪な人間の特性》

M・スコット・ペックが「邪悪な人間の特性」をあげている。
(著書『平気でうそをつく人たち』より引用)

「邪悪な人間は、『自責の念』に苦しむことを拒否し、投影や罪の転嫁によって自分の苦痛を他人に負わせる。自分が苦しむかわりに、他人を苦しめる

「みずからのナルシシズムによって、自分には何も悪いところはなく、自分は心理的に完全な人間の見本だと信じるというのが、邪悪な人間の特性である」

「邪悪な人間は、つねに、自分たちの動機を嘘で覆うものである」

「邪悪なものたちは、自分の正体を明らかにする善の光、自分自身をさらけだす精察の光、彼らの欺瞞を見抜く真実の光、を嫌うものである」

「邪悪な人間は、自分自身の欠陥を直視するかわりに他人を攻撃する

「邪悪な人たちの中核的な欠陥が、罪悪そのものにではなく、自分の罪悪を認めることを拒否することにある」

「邪悪な人間というのは、他人を騙しながら自己欺瞞の層を積み重ねていく『虚偽の人々』のことである」

つまり、邪悪な人間というのは、

「うわべを取り繕う(仮面をかぶる)」
「常習的に嘘をつく」
「自分の罪を正直に見つめたり、認めたりしない」
「自分の罪を否定する」
「自分を守るためなら他人を平気でスケープゴートにする」

ということです。

「嘘つきは泥棒の始まり」という諺のとおり、「嘘」は「犯罪」と深く結びついているのです。
犯罪者は、必ずと言っていいくらい「嘘」をつきます。

「嘘」をつき、自分たちの罪から逃げる加害少年たちを庇う教師たちの行為は、教師のやるべきことと真逆です。
「嘘はいけないことだ」「他人を傷つけることは悪いことだ」と教えなければならない立場の人間が、「嘘を擁護」し、「加害行為を隠蔽」している。
それのどこが教育者なのか?
アチキにはトンとわかりかねる。

悪を犯しても罪を認めない人間に大きく欠落しているものがある。
それは「自己嫌悪の欠如」であり、「自分自身に対する不快感の欠如」である。

邪悪な人間は、自分が「善」であると思っているのだ。
いや、倫理を捻じ曲げてでも自分勝手にそう思い込んでいるのだ。
自分を嫌うことをせず、他人を憎むことを意図的に行う。
自分の間違いには目を背け、他人に責任をなすりつける。
自分が傷つくことには敏感で、必死に防衛するが、反対に他人の傷みにはものすごく鈍感で、意図的に傷つける。
徹底的な自己愛がそこにある!!

旭川で起きた事件のA子たち加害少年たちとY中学校の教師たちの姿が、まさに“それ”である!

《悪魔の弁論術とは?》

邪悪な人間(=悪魔)の言葉には特徴がある。
それは?

「言葉(文)の一部を入れ替えて、違った意味に捻じ曲げる」

「核心的な部分を意図的に避け、別の話題に話をすり替える」

「都合の悪いことは答えない、認めない」

「自己を正当化する嘘は平気でつき、責任を他人になすりつける」

「論点をズラす」

「結論を真逆にする(自分の都合のいいように)」

要するに、悪魔の弁論術とは、「嘘で塗り固め」、「語彙のすり替えによって真実(本質)を捻じ曲げる」というものである。
論理をすり替え、責任転嫁するのが悪魔の弁論術である。

旭川で起きた事件のA子たち加害少年たちとY中学校の教師たちの姿が、まさに“それ”である!

『【後編1】~「少年法」は被害者と遺族の感情を無視する法律!~』につづく。

最後までお読みいただき、ありがとうござりんした!


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