はじめに
今回の記事は、世間を騒がせつづけている宗教団体である「旧統一教会」、正式名称『世界平和統一家庭連合(旧・世界基督教統一神霊協会)』の信者であり、広報部長という幹部職を務めた大江益夫氏の「懺悔録」を考察し、そこから“何が見えるのか”を問う記事となっています。
この「懺悔録」に含まれている内容は、宗教問題にとどまらず、政治の問題、そして組織論を含んだものとなっています。
特に言いたいことは、日本政界の裏側に潜んでいる旧統一教会(=国際勝共連合)について知ることなくして、日本政界の“浄化”はないということです。
注意していただきたいことがあります。
参考書籍の“著者”は樋田毅氏であり、旧統一教会信者の大江益夫氏ではありません。
樋田毅氏が大江益夫氏にインタビューするような形式で出された書籍となっていて、大江益夫氏が語る内容は旧統一教会という宗教組織の活動やあり方、国際勝共連合という政治部門(組織)に関する内部情報(本人談)などです。
語り手は元広報部長の大江益夫氏ですが、基本的には大江益夫氏個人の見解となっているため、書籍の内容が旧統一教会の正式の認識や信者の総意であるとは言えないかもしれません。また、教団側はこの書籍の内容を否定するかもしれません。
あくまでも元信者個人の懺悔録であって、教団の懺悔録ではありません。
その点に考慮してこの記事をお読みください。
大江益夫氏は、現時点では旧統一教会を辞めています。
この書籍発刊前の本年6月29日に教団に対して退会願いを提出し、関連団体の職も辞しています。
退会の理由を本人は、「教団を批判した本を出版した責任を取るため」としています。
なお、旧統一教会の信者数は一時、60万人と言われていたが、現在の信者数は8万人程度だと大江氏が語っています。
自民党政治の間違いを正すためには裏で暗躍する旧統一教会の政治部門である「国際勝共連合」を知る必要があり、旧統一教会の政治的間違い及び社会的事件の背景を理解するためには、旧統一教会の「教義」を知ることが求められるのです。
これは因果の理法なのです。
自民党政治の間違いの一つが、旧統一教会との密約(癒着)であり、日本を真なる主権国家とするためには、国民による国民のための国家として生まれ変わらせるためには、自民党政治の裏側で暗躍していた旧統一教会について知ることが必須となるのです。
日本の与党政党である自民党の裏で暗躍する旧統一教会とは、日本のディープステート(の一つ)と呼ぶべき存在なのです。
本記事は、【宗教問題編①】【宗教問題編②】【宗教的真理編】【政治問題編①】【政治問題編②】の5部編成となっています。
参考書籍(引用元)は、樋田毅氏の『旧統一教会 大江益夫・元広報部長懺悔録』です。
旧統一教会と自民党の関係、旧統一教会の政治組織・国際勝共連合などについて知りたい方はご購入して読むことをお勧めします。
正しい宗教とカルト宗教の見分け方とは?
《大江益夫氏の心境》
旧統一教会 大江益夫・元広報部長懺悔録より引用
私は信仰によって魂の不滅を信じています。なので、あの世に行って、いろいろな人に出会います。阪神支部で殺された小尻知博さんにも会えるでしょう。誰に会っても、後ろめたさを感じることがないように、この世に真実を語り残しておきたい。
〈人は死を前にして真実を語りたくなる〉
著書の樋田氏によれば、大江氏は2023年秋に末期に近い大腸ガンの手術を受け、現在は自宅にて静養中とのこと。
「人は死を前にして真実を語りたくなる」ということは真理であると思われる。
森永卓郎氏もそうであるように、大江氏も死を感じて真実を語りたくなったことは人としての姿の一つであろう。その心境が「この世に真実を語り残しておきたい」という言葉に表れている。ですから、大江氏が語る「懴悔録」とは、“真実”であると受けとめる。
逆に、不都合な真実を墓場まで持っていく人間は腹の底まで腐っている悪人であると言える。
本書全体を読んで思ったことだが、大江氏は世間から「カルト」と呼ばれている旧統一教会の信者であり続けた人間だが、宗教観以外はすごく真っ当な常識ある部分が大きいと判断している。
ただ、個人的には旧統一教会という宗教団体の存在を許すことはできないことははっきりと言っておく。
《旧統一教会の根本的な“間違い”とは?》
旧統一教会 大江益夫・元広報部長懺悔録より引用
懺悔その1より引用
「『高齢者など社会的弱者から多額の献金を受け取ることに慎重であるべきだ』『生活基盤を脅かす高額の献金を受け取ることは自粛が必要』。これらの私の提言が無視されてきたことが改めて悔やまれます。統一教会は目的のためには手段を選ばなかったところに根本的な問題がありました」
〈正しい宗教とカルト宗教を見分けるポイントとは?〉
旧統一教会を取り巻く社会問題に「献金」があることは間違いない。
特に高齢者や社会的弱者、低所得者への献金を強く勧めること、また生活基盤を脅かす高額の献金は宗教本来の目的である「信じた人を幸せにする」ということから大きく逸脱してしまう。
正しき宗教であれば、信仰することによって心の幸福を得、魂の成長をしてこそ本物と言える。少なくとも魂の成長を目指す方向になければ、その宗教は個人の幸福を犠牲にした上に教団が繁栄するという図式が成り立ってしまう。
純真からの献金と義務や強要された献金は似て非なりなのです。
では、なぜ高齢者や社会的弱者から多額の献金をさせるのかといえば、大江氏が指摘したことが最大の要因であると考えられる。
統一教会は目的のためには手段を選ばなかった
そして、この「目的のためには手段を選ばない」ということが旧統一教会の“全てに影響”している。これは宗教界全般に当てはめることができることであり、それが意味することは、善と悪、または正しい宗教とカルト宗教を分けるものなのです。
教団が発展するために、教団が活動するために、必要な資金を集めるために個人の生活が苦しくなってしまっても、家族が困窮したり迷惑しても教団に捧げる(献金する)、という思想は正しい宗教の姿ではない。
それはまさしく教団を発展、維持するという目的のために手段を選ばないことでしかない。
正しい宗教とカルト宗教を見分けるポイントが、教団の教えまたは方針として「目的も正しく、手段も正しく」となっているか、「目的のためには手段を選ばない」となっているかの違いです。
重要なことなので再度指摘する。
正しい宗教のあり方は、「目的も手段も正しさを求める」です。
目的のためというが、宗教の使命とは個人の幸福と社会の幸福を実現すること。
人間の本質が魂であり、仏神が存在し、あの世があることを教え、それによってこの世的価値観、肉体中心の価値観から脱却させることです。
「目的のためには手段を選ばない」という思想は非常に危険な思想であることを知るべきです。組織の理念がこうなるとその組織は必ず正当性を失い“悪”に転じます。
目的のためなら手段を選ばないという思想は何を生み出すか?
具体的に指摘する。
たとえば、職を失い家族を養えなくなった人が、“家族を養うため”にお金が必要だと考えるのは当然だが、その手段として泥棒などの犯罪をしてお金を得ることも可能となってしまう。
たとえば、医師になって“人を助けたい”と考えたとして、そのために裏口入学やカンニングをして大学試験(医学部)を通過したらどうか?
常識ある人間であれば判断出来るはず。
なのに、「目的のためには手段を選ばない」という思想を受け入れてしまう人間とはある意味で洗脳されている状態と言ってもいい。
さらに言うと、「手段を選ばない思想」を持つ人間が「本当に正しい目的を持っているのか?」という疑問が湧くのは自然なこと。めざす目的が“本当に正しいのか”という検討が必要だといことです。
結局、「目的のためには手段を選ばない」という思想は人間の欲をかきたてるだけで、独りよがりのエゴイズムでしかない。この世での執着を増大させ、他人を不幸にすることに繋がる。つまり、正しい宗教のあり方ではない。
実は、この問題は宗教だけではなく、政治でもその他の社会全般に当てはまる問題なのです。
「目的のためには手段を選ばない」という思想は、必ず誰かの犠牲に成り立つ傲慢な思考と言える。
政治団体、政党でも同じで、「目的のためには手段を選ばない」という手法を取っているかどうかを見れば、その集団が“正しさ”を持っているのかどうかを判別できる。
政治資金、選挙資金が必要だからといって収支報告書に違反したり、裏金を作ったりすることは、この問題(目的のためには手段を選ばない)にぶち当たっている。
旧統一教会の献金の問題に関しては、大江氏が語っている「献金の目的」と思われる原因がある。
それは旧統一教会の本拠地である“韓国に送金するため”です。
これは単なる本部(韓国)への送金ではなく宗教的意味(教え)が関係している。
旧統一教会の教えでは、日本が韓国を植民地支配した悪の国家であり、日本人は悪い人間だから、その日本人から献金を取ることで「贖罪」となる、という考えがあることがその背景にある。
大江氏は、韓国への送金を止める必要があると批判していたが、教団は聞き入れなかった。
付け加えると、献金という宗教的意味合いをこの世の価値観で判断することは間違いだと言っておく。
日本人は「宗教オンチ」であるので、宗教的価値判断ができずに、この世の価値判断で宗教を見てしまう点は良くないと言っておく。
ちなみに、「目的のためには手段を選ばない」という表現は懴悔その5にも出てくる。
旧統一教会は「キリスト教の一派」とは呼べない
《キリスト教の一派??》
旧統一教会 大江益夫・元広報部長懺悔録より引用
そして、キリスト教の一派である私たちは、キリスト教の伝統に則って「10分の1税」(毎月収入の10分の1を献金する)を導入し、日本の教団の運営を支える。そうすれば、日本の信者も世界各国の統一教会の信者たちと同じように、祈りと伝道の日々を取り戻すことができる。
〈旧統一教会はキリスト教の一派ではない〉
『アフリカに進出する日本の新興宗教』というルポの書籍がある。
そのなかで旧統一教会のルポがあり、アフリカの旧統一教会信者には高額の献金、生活を圧迫するような献金はしていなかった。
大江氏によれば、旧統一教会は、キリスト教の一派の中でも「超教派」と名乗っているという。万教帰一、万教同根、すべての宗教は根っこのところが同じという考えを持っているという。
「すべての宗教は本来同根」という点には賛成するが、この思想が示す答えは「キリスト教の否定」でしかない。「万教帰一、万教同根」と言っている時点ですでにキリスト教の一派ではない。キリスト教は「一神教」なので、純粋にキリスト教を学ぶと他の宗教に対して非寛容となる。この点から見ても明らかにキリスト教の範疇から逸脱している。
それが信者になった人には理解できないのだろう。
上記の大江氏の言葉の中で私が考察したいのは、「献金」の部分ではなく、「キリスト教の一派」という部分である。
おそらく大江氏だけではなく、ほとんどの信者が同じ考えを持っているのではないかと思われる。
だが、ここが重要なポイントなのです。
結論を先に述べれば、旧統一教会は「キリスト教の一派ではない」、もっと言うと「キリスト教でもない」。
この見分けがつかないために信者となってしまった人は多くいると思われる。
旧統一教会が、「キリスト教の一派」ではないということは、この記事全般のいたるところで出てくる。
一番の肝心な論点は、「聖書(新・旧)」が教典ではないことでそれが示される。
キリスト教のキリスト教たるゆえんはイエス・キリストの教えが伝えられている新約聖書を重んじる点にあり、キリスト教の背景となった旧約聖書を学ぶ点にある。
旧統一教会にとって聖書とは聖典ではあるが教典ではない、という摩訶不思議な論理がまかり通っている。
旧統一教会の教典は、旧約聖書と新約聖書の「奥義を解説した」とされる『原理講論』なのです。これはキリスト教の流れにある新しい宗教、キリスト教を土台とした新しい宗教と言うことはできても、キリスト教の一派とは決して言うことはできない。
ここに旧統一教会の詭弁がある。
では旧統一教会の教祖である文鮮明とはどんな存在なのかと言えば、16歳の時にイエス・キリストの声を聞き、「イエス・キリストから使命を託された」とされている人物。
文鮮明が与えられた使命とは、「イエス・キリストが成し遂げられなかった使命を担う」ことであり、文鮮明自体が「再臨のメシア(救世主)」であるとされる。
とするならば、キリスト教の一派とすることは大きな矛盾となる。
もし、上記の内容が真実であったならば、わざわざ「キリスト教の一派」などと主張しない。
再臨したキリストによる新たなる教えが説かれた、となるはず。
もし、本当に文鮮明が再臨の救世主(キリスト?)ならば、文鮮明教とか教えに特徴や活動目的にあった宗教名を名乗るはず。
再臨した救世主(キリスト?)ならば、「一派」などと言う必要はなく、矛盾でしかない。
(再臨と言っているので、再び地上に表れたメシアとはキリストを指すと理解する)
《洗脳のレベルが半端ない?》
旧統一教会 大江益夫・元広報部長懺悔録より引用
懺悔その2より引用
「私の経験に照らして、統一教会の信者になるというのは、すべてを捨てて、文先生を信じ、信仰にのめり込む、とてつもなく過酷で、大変なことなんです。自分でこんな言葉を使うのはおかしいかもしれないが、洗脳のレベルが半端なかった。ですから、信者生活の傍ら、何か別の人生を楽しむなどという余裕はありませんでした。こうした道を選んだことについて、懺悔に似た気持ちがあります。いまさら、どうにもならないことですが…」
〈カルト宗教は「自由」を奪う〉
ここで注目したい論点は、大江氏が「洗脳のレベルが半端なかった」と語っていること。
その発言が、外部の人間ではなく、信者であり幹部だった人の発言であることは非常に重い意味を持ちます。
別のページでも「統一教会の信者生活は過酷で、別の人生を歩む余裕はありませんでした」と正直に語っている。
大江氏が語ったことが本当であったならば、旧統一教会に入ると、教団の活動(信仰生活)によってそれ以外のことをすることが困難となり、活動(信仰)にのめり込んでしまうことになる。
そのためにこそ「洗脳」があると見ることができる。
オウム真理教がそうであったが、カルト宗教というのは、信者を思考停止にさせ、外部との接触を切断し、内部統制または内部規範によってのみ動く人間にする。
つまり、カルト宗教の特徴とは「自由」を奪う点にある。
特に「選択の自由」を奪う点が強調される。
《「統一」の意味は、すべての宗教を一つにする》
旧統一教会 大江益夫・元広報部長懺悔録より引用
日本の統一教会では、仏教や神道なども万教同根の対象に加えています。
~中略~
統一教会の『統一』には、すべての宗教は一つである、また、一つにしていく、というような意味合いがあります。
〈キリスト教の特徴とは?〉
大江氏の宗教的理解は大きく歪んでいると言わざるを得ない。
キリスト教もその背景となったユダヤ教も「一神教」の宗教である。
キリスト教の特徴に、他の宗教への排他性がある。
それは一神教ならではのもの。
純粋にキリスト教を信仰すると、他の宗教に対する排他性が芽生える。
しかし大江氏は、旧統一教会を「キリスト教の一派」と言っている。
「一派」であってもキリスト教の流れをくむ宗教団体であれば、上記の宗教的思考には至らない。この思想をみても旧統一教会がキリスト教の流れをくむ宗教ではないことは明白となっている。
ただし、別の宗教であるという主張ならば筋が通る。
大江氏の説明では、旧統一教会はあくまでも「キリスト教の一派」と主張しているが、これは宗教的無知に他ならない。
《親泣かせの「原理運動」》
大江氏が朝日新聞の「親泣かせの『原理運動』」という記事について触れている。
この記事は、旧統一教会とその学生組織である原理研究会を真っ向から批判した最初の記事。
旧統一教会 大江益夫・元広報部長懺悔録より引用
朝日新聞の記事を抜粋引用
このグループに入った若い男女は性格が変わってしまい、『理想社会とつくるため…』といって家出同然、学校に通わなくなり、活動資金をせびるため、東京では父母らが“被害者同盟”を結成するまでになった。
〈家庭を壊す旧統一教会〉
この記事に対して大江氏は大変憤慨したと語っている。
しかし、その後にこう語っている。
「親の意見は聞かないのですが、教会長の意見には従順でした」
朝日新聞の記事は正しいのでは?
基本的に宗教において信仰することによって「性格が変わる」という現象はあるが、問題は“どう変わるのか”という点です。心が平和になる、性格が穏やかになる、人間関係が苦手だったのが良質な関係を築けるような性格に変化した、など良い方向に変化することが正しい宗教の証明であるが、旧統一教会の場合、家庭崩壊につながるケースが後を断たない。
正式名称「世界平和統一家庭連合」は、名称の中にあるように「家庭の平和」を大切にしているとしている。また、「教え」として人間関係の連帯、平和の大切さ、家族愛の大切さを説いている。
だが、実際は真逆であることをどう説明するのか?
被害者の会が結成されるほど、家族の絆(愛)を断ち切っているのが当の統一教会側であることをいつになったら自覚するのだろうか。
《霊感商法につながる芽とは?》
旧統一教会 大江益夫・元広報部長懺悔録より引用
懺悔その3より引用
「早大原理研では、寮の費用や伝道活動の資金を得るため、物品販売や募金活動に取り組みました。その際、『障害者トーク』といって、障害者のふりをしてしての同情を得たり、『土下座トーク』といって、募金を求める際に土下座し、頭を地面に擦りつけてお願いしたり、と極端な手法を実践しました。これは、目的が正しければ、どんな手段も許される、という考えで、後々の霊感商法にも通じるものでした。過ちの芽を小さなうちに摘み取ることができなかった。このことを懺悔しなければなりません」
〈目的の正しさを証明するものとは?〉
学生信者が、寮の費用や伝道活動の資金を得るため、障害者の“ふり”をした『障害者トーク』、必死なお願いを“装って”同情を引く『土下座トーク』という姑息な手段を使ってお金を集める?
大江氏はこのやり方が「詐欺」であることを自覚しているのでしょうか?
ここでもすでに何度も出ている「目的のためには手段を選ばない」という思想に触れざるを得ない。
上記の場合は違法行為であり、大江氏が告白した学生の行為とは犯罪でしかない。
懺悔では済まない問題であることを自覚するべきだ。
そもそも論として「目的が正しいのか」という検証を大江氏が一切していないことが非常に気になった。
私の考えを言えば、目的のためには手段を選ばないという発想をする人間の場合、目的そのものが間違っていることが多いと判断している。
大江氏は懴悔しているのだが、手段は間違っていたから懴悔するが、「目的は正しかった」という言外の意が伝わってくる。
つまり、旧統一教会の活動資金等を集めるという目的は肯定していると受け止めることができる。
しかし、目的が正しいかどうかは、旧統一教会が正しい宗教かどうかにという問題に行きつく。
要するに、目的が正しいということにかんして、旧統一教会が正しく宗教の使命を果たしているということを証明するべきであったが、その証明は出来なかったのだろう。たとえしたとしても私は「正しい」と認めないが。
旧統一教会が考える「目的のためには手段を選ばない」という手段である『障害者トーク』、『土下座トーク』の延長線上に『霊感商法』があることは明らかだろう。
その意味で、旧統一教会の先人である大江氏がこうした悪質な手法を止められなかったという意味で懴悔することは当然といえる。
だが、問題はこの懴悔が大江氏個人だけで終わっていいのか、という点である。
《独特の聖書解釈》
旧統一教会には特殊な聖書解釈がある。
少し長いが、大江氏が紹介しているので引用する。
旧統一教会 大江益夫・元広報部長懺悔録より引用
別の元信者は、旧統一教会には独特の聖書解釈があったとして、こう話した。
「ヤコブの勝利という教えです。ヤコブのことは旧約聖書の創世記に書かれています。信仰の祖アブラハムの息子であるイサクの次男として生まれた人物です。青年になったヤコブは、年老いて目が見えなくなった父・イサクの前で、兄になりすまし、兄にいくはずの財産を騙し取り、母の手引きで遠いところへ逃れます。長年羊飼いなどをして財産を増やし、やがて帰郷し、その財産を兄に分け与えて和解します。この物語で、父親についた嘘は神の知恵だったと解釈し、ヤコブを勝利者として称え、人を騙しても神に祝福されると説いたのです。学生のころ、嘘をついての募金はおかしいと上司に訴えると、『ヤコブの勝利を思い出せ。神の知恵なんだ』と説教されたことが忘れられません」
〈嘘が肯定される根拠〉
「ヤコブの勝利」、ここに旧統一教会が「嘘」をついても平気でいられる根拠がある。平気でいられるというよりも「嘘」が肯定される根拠とされる部分です。
ですが、重要なことは、これがイエス・キリストの教えに整合するのか? という宗教的理解を完全にスルーしている点でしょう。
嘘をついて(騙して)得たお金でも増やして分け与えれば「勝利」とする。
これが間違っていること、人の道に背いていることはもちろんのこと、神の存在を汚していることに気がつかない旧統一教会信者は、宗教的真理に無知と言える。
嘘をつくことが神の知恵などという発想は大間違いであり、神ではなく悪魔の悪知恵でしかない。
財産を増やす、分け与える=目的で、嘘をついて(騙して)財産を得る=手段、という解釈は宗教的真理からみれば「法の捻じ曲げ」なのです。
神の属性は「善」であり「正直」「誠実」なのですから、嘘や騙しを肯定することは、神への叛逆でしかありません。
ですから「神の知恵」ではなく「悪魔の悪知恵」なのです。
悪魔は部分的には正しいことを言うが、結論が間違っている(悪となる)論理を使うのです。
「目的のためには手段を選ばない」、という思想は「悪魔の思想」なのです。
神は騙すことを奨励しません。
悪魔は部分的には善の論理を主張するが、どこかに悪の論理を混ぜ込んできます。
たとえば、「神は人間に自由を与えた、だから欲望のままに生きれば良い」などと悪魔は語ります。前半の神は人間に自由を与えたということは真実だとしても、後半の部分で捻じ曲げを混入しているのです。
神が与えた自由とは欲望の自由ではなく、堕落の自由でもなく、エゴイズムの自由でもない。
限りなく神に近づく自由であり、責任を取る自由であり、真実や誠実に生きることによって生まれる幸福を得る自由なのです。
大江氏はこの「ヤコブの勝利」という考えが教団にあるから、「障害者トーク」「土下座トーク」などが考案されたと判断していると思われる。
大江氏は、すごくまっとうは判断をしている。
『【宗教問題編②】』につづく
参考書籍(引用元)
書籍名:『旧統一教会 大江益夫・元広報部長懺悔録』
著者:樋田毅
出版社:光文社
発刊は、2024年8月末
最後までお読みいただき、ありがとうござりんした!