【宗教的真理編】~旧統一教会の宗教としての間違いを指摘する~
これまでの記事
【宗教問題編①】~正しい宗教とカルト宗教の見分け方とは?~
【宗教問題編②】~諸悪の根源は旧統一教会の思想(価値観)にある~
旧統一教会の宗教としての間違いを指摘する
《旧統一教会のルーツについて》
松浦晋也の“読書”ノートによると
記事『第64回 1980年時点における旧統一教会と政治権力との関り』によれば、旧統一教会のルーツは1930年代の日本植民地時代に、李龍道と黄国柱という2人の宗教指導者が興したキリスト教系カルト宗教だとされる。李と黄は、キリストの化身と自称し、自らと交わることで原罪が浄化されるとして女性信者を集めて乱交にふけった。
その後、金百文という理論家が加わり、後の旧統一教会につながる体系的な教義ができあがる。金百文の理論は、「原理講論」にある堕落論、復帰原理そのものであり、そのカルト性は「キリストの化身との血分け」にある。
これらの人物に学んだ文鮮明が1954年に韓国ソウルで立ち上げたのが「世界基督教統一神霊教会」、いわゆる統一教会なのです。
なお、文鮮明の「原理原本」を「原理解説」「原理講論」へと仕上げた人物に劉孝元がいるとされる。
ここから何が言えるのかというと、「原理講論」は文鮮明氏のオリジナルではないという重要なことです。
旧統一教会の根本経典とされる「原理講論」は、李龍道、黄国柱、金百文の思想が結実したものと言える。なかでも金百文が果たした役割は大きい。
ここで重要な疑問が浮かぶ。
なぜ、文鮮明が旧統一教会の“教祖”なのか、ということ。
団体として設立したのが文鮮明であったとしても、根本経典を示した者が通常は教祖となる。それが宗教的真理です。
ただし、本当に「聖書の奥義」を解き明かしたものが「原理講論」であるならば、教祖ではなく“派祖”となる。
《宗教としての間違い》
旧統一教会は、宗教として間違っている。
すでに複数の間違いを示したが、あらためて旧統一教会の宗教としての間違いを指摘する。
〈旧統一教会はキリスト教(一派)ではない〉
以下の論は、旧統一教会の宗教としての姿を考える。
大江氏が語っているように、旧統一教会は「キリスト教の一派」と名乗っている。
現に聖書(旧・新)を聖典としている。
だが、聖書は「聖典」ではあるが「経典」ではないと主張している。
この主張が重要なポイントとなる。
では、主たる教え(教義)とは何かと言えば、旧約聖書と新約聖書の“奥義を解説した”とされる「原理講論」なのです。
しかし、聖書の奥義とは何か?
摩訶不思議な価値観を持ちだしている。
そして教祖(?)の文鮮明氏は「再臨の救世主」であり、イエス・キリストの声を聞き、イエスが生前なせなかった使命を引き継ぐ存在とされている。
ポイントは、「聖書が教団の経典」ではないこと、文鮮明氏を「再臨の救世主」としていること。
あくまでもキリスト教の一派と名乗るならば、根本経典として新約聖書があり、それに次ぐ聖典として「原理講論」を位置付けなければならない。
旧統一教会が本当にキリスト教の一派であるならば(キリスト教を名乗るならば)、教団の最重要経典は「聖書」でなければならない。それも旧約聖書よりも新約聖書をより重んじなければならない。
なぜならば、キリスト教の信仰の対象は「イエス・キリスト」だから。
本来は、イエスが天なる父と呼んだ存在こそ本尊であり最高の信仰対象であるはずだが、開祖がイエス・キリストなので、当然、信仰の対象(本尊)はイエス・キリストとなる。
よって、最重要経典は「新約聖書」となる。
これがキリスト教のあるべき姿であり、ここから逸脱したものはキリスト教ではなく、キリスト教を語った偽者でしかない。
さらに指摘すると、キリスト教の一派としての位置付けとするならば、文鮮明氏は教祖ではなく「派祖」となる。
旧統一教会は文鮮明氏を教祖として位置付けてしているので、これをキリスト教というにはおこがましいと言える。
キリスト教への叛逆と言えよう。
もし文鮮明氏が本当に再臨の救世主ならば、旧統一教会は「キリスト教の一派」ではなく、「新しい宗教」と位置付けらなければならない。
イエス・キリストはユダヤの地においてユダヤ教の中から登場したが、ユダヤ教とは別の教えを説いたために“ユダヤ教の一派”ではなく、文字通り「キリスト教」という新しい宗教となった。
キリスト教は根本経典(中心)を新約聖書におきながらも、ユダヤ教の教典である旧約聖書も聖典としつつも“ユダヤ教の一派”とは名乗らない。
同時に、イスラム教はユダヤ教の経典である旧約聖書とキリスト教の根本経典である新約聖書も聖典としつつも“ユダヤ教の一派”または“キリスト教の一派”とは名乗らない。
なのに、旧統一教会は聖書を聖典と位置付けながらも、「原理講論」を根本経典としてキリスト教の一派と名乗っている。
この“おかしさ”が信者たちには理解できないようだ。
文鮮明氏が本当に救世主ならば、それが意味することは新しい宗教の出現であり、過去の宗教の一派ではなく、伝統宗教の派生でもない。
それが意味することは、「文鮮明教」の出現となる。
なのに、キリスト教の一派と名乗ることは宗教的無知を通り越して、騙しのレベルである。
〈旧統一教会の教義の間違いを指摘する〉
旧統一教会の教義は、「創造原理」「堕落論」「復帰原理」である。
3つの教義のうち、特にひどいのが「堕落論」「復帰原理」である。
『堕落論』ではこう説かれている。
「神は人類の始祖であるアダムとエバを創造された。ところが、エバが未完成の段階で、天使長ルーシェル(サタン)と不倫なる血縁関係を結んだ(霊的堕落)後、再びアダムと夫婦関係を結んだためにアダムもまた未完成期に堕落してしまった(肉体的堕落)。
これらの原罪のため、人類はサタンの血を遺伝により承継し、すべての人間が悪を行うようになった。人間は悪魔の子であり、サタンの子孫である」
つまり、人類(人間)は「サタンの子」であると堕落論は言っているのだ。
そもそも「原罪」とは、イエス・キリストの教えではない。
ユダヤ民族の考える伝統的な「メシア(救世主)」とは、神の教えを伝えつつ、政治的にも偉大な指導者たる存在とされている。
この定義に、イエス・キリストは当てはまらない。
よってユダヤ教徒たちはイエス・キリストを救世主とは認めず、預言者の一人としての位置付けしか与えていない。
救世主が無実の罪を着せられて処刑された、この悲劇をひっくり返すために後世の弟子たちが編み出した論理が「原罪論」なのです。
そもそもイエス・キリストがすべての人類の罪をあがなうということ自体が宗教的真理から見れば矛盾でしかなく、キリスト教を正当化するための弟子たちの捻じ曲げでしかない。
原罪論とは、神は人間一人ひとりに自由を与えたという宗教的真理を無視し、因果応報(原因結果の法則)に叛逆する思想でしかない。
なぜ、エバの過ちを全人類が遺伝として(アダム経由で)受け継がねばならないのか。
ここに真理(法)の捻じ曲げがある。
堕落論の間違いは、性的関係や遺伝によって他者の悪を継承することなどあり得ない点に尽きる。
「悪」というものがサタンの血によって必然的に生じるとする思想こそがサタンの思想なのです。
神は人間に自由を与えたが、自由には当然責任がともなう。
これを別な言い方をすると「因果応報(因果の理法)」という。
堕落論には隠された“秘密の縛り”がある。
それは「あなたには原罪があるから旧統一教会の教えを学び活動しなければ救われない」というシークレット・ドクトリンが隠されている。
これにより信者は目に見えない縛りよって拘束される。
神が人間に自由を与えたことを否定する洗脳でしかない。
人間がサタンの血を受け継ぐサタンの子であるならば、イエス・キリストも、アブラハムも、モーゼも、ムハンマドも釈尊も、そして文鮮明も悪魔の子となる。
ここに大きすぎる矛盾がある。
『復帰原理』は、堕落論から導き出される歪んだ思想と言える。
「復帰原理」では、人類が本来の人間に復帰するためには、メシアによる原罪の除去が必要であると説く。
この教義は、個人の「思い」と「行い」という自由の顕現と責任の発生を完全否定するものである。
原則、個人の罪は個人に帰結する。
これが正しい宗教的真理です。
イエスは説いた、「汝ら悔い改めよ」と。
つまり、イエスの教えとは個人が罪を犯したならば悔い改めによって罪が清められることを意味しており、それが可能という宗教的真理が含まれている。
これは仏教でいうところの「反省」によって心が浄化されることと同じ意味を持つ。
もし、人類がサタンの血の遺伝によって原罪を背負っているならば、「悔い改める」必要がどこにある?
これは簡単に言えば、「悪行への免罪符」となっている。
人間がサタンの子であり、悪を犯す存在だから、悪を犯すことは仕方がないとして、そこに反省(懴悔)や改心が入り込まない。
唯一救われるには文鮮明を信仰することとなる。
旧統一教会には、原罪を払拭するための「血代交換(血分け)」という方法がある。
「血代交換(血分け)」とは、文鮮明を原点として次々と信者が性的関係を持つことで、汚れたサタンの血が清められるとする教えである。
これは「人は性交によってのみ義とされる」という教えなのです。
しかし、こうした肉体的欲望を中心とした教えを真の神が説くはずがなく、性的関係によって肉体的な堕落が救済されるはずがなく、魂が清められるはずもない。
単に血の池地獄が展開しているに過ぎない。
伝統的なキリスト教は一夫一婦制を取っている。
ということは、不倫や他の異性との性交渉はご法度ということ。
だが、キリスト教の一派と名乗りながらも、旧統一教会は配偶者以外の異性との性交を容認しているに等しい。
この矛盾は明らかに聖なる教えとは真逆である。
「人間はサタンの子」という教えから、旧統一教会の違法行為を含む間違いが発生している。
サタンが支配している世界から、人々や金銭を神の側に「復帰」させる行為は、たとえそれが反社会的行為であり、犯罪行為であっても、神の御心に適った正しい行為としている。
犯罪行為を認める神とは如何なる神なのか?
地上における法の根源をたどれば、仏神の教えにたどり着く。
つまり、地上の法律や道徳とは、仏神から流れ出した教えをもとにしているということ。
よって、地上の法律や道徳を無視する教えとは神の意思に逆らうサタンの教えとなる。
「目的のためには手段を選ばない」という手法を導き出すものが「堕落論」と「復帰原理」なのです。
結局、旧統一教会の教えを信じれば、嘘や騙しも平気となり、性的趣向に乱れが生じ、反省の出来ない人間ができあがる。
『【政治問題①】』につづく
主たる参考書籍(引用元)
書籍名:『旧統一教会 大江益夫・元広報部長懺悔録』
著者:樋田毅
出版社:光文社
発刊は、2024年8月末
その他の参考書籍(情報)
書籍名:『まちがいだらけの宗教選び』
著者:比較宗教研究会編
出版社:幸福の科学出版
書籍名:『ルポアフリカに進出する日本の新宗教』
著者:上野庸平
出版社:花伝者
松浦晋也の“読書”ノート
『第64回 1980年時点における旧統一教会と政治権力との関り』
最後までお読みいただき、ありがとうござりんした!