『プロパガンダ・リテラシー(2)~プロパガンダの定石Part1~』

『(2)~プロパガンダの定石Part1~』

これまでの記事

『(1)~プロパガンダとは何か?~』

マインド・マネージメント

《マインド・マネージメントとは?》

『プロパガンダの見抜き方』より引用

いま日本語で「マインド・マネージメント」というと「低い自己評価を肯定的にする」「自己不信を鎮める」などの自己啓発系用語になってしまった。はっきりいうが、これは誤用である。原義のMind Managementは「他者の思考を自分にとって好ましい方向に誘導・説得する」ことだ。
~中略~
こうしたマインド・マネージメントを応用して、政治・経済で多数を発信者に公的に説得しようという技術が現代のプロパガンダにほかならない。

〈思想戦における防衛戦を考える〉

マインド・マネージメントとは、「低い自己評価を肯定的にする」「自己不信を鎮める」ではなく、「他者の思考を自分にとって好ましい方向に誘導・説得する」こと。これは語彙表現のすり替え。
プロパガンダをプロパガンダとして成り立たせるためには、プロパガンダを見抜く技術(手法)を学んで欲しくない(プロパガンダを仕掛ける側が)。
そのために、「語彙の言い換え」をすることが多い。これはある種のイメージ戦略であり、騙しの技術でもある。人々がその語彙に隠された真の意味を理解してしまった場合、騙しの要素が低下する。だから別の言葉、イメージがついていない語彙にすり替えることで同じ効果を生み出そうとする。

何度でも言います。
ディープステートたちは常に思想戦から入ってくるのです。
宗教的に言えば、悪魔は常に思想戦で洗脳してくるとなる。
彼らは人々の思想をコントロールすることで、自分たちの目的を達成しようとするのです。

思想戦における防衛を考えるならば、情報を自ら取りに行く、情報を信用できる発信者から得る、疑問点を洗い出す、情報を多角的および客観的に分析する、別の情報と比較してみる、洞察力と直観力を総動員して判断する、判断できないものは鵜呑みにせず頭の片隅に入れて「寝かせる」、などによる知的思考回路をフル活動する必要があります。
ですが、それが面倒、またはそうした能力に難がある人たちは思想戦で負傷または戦死することになるのです(負傷、戦死という表現は比喩)。

《マインド・マネージメントは日常的に使用されている》

『プロパガンダの見抜き方』より引用

ところが、日本でも広告産業や政党はとっくにマインド・マネージメントの考え方を取り入れて広告・宣伝に日々励んでいる。その担い手の代表が広告代理店である。ところが、情報の受け手である大衆(消費者、有権者、納税者など)はその構造に無自覚だ。そこが危険なのだ。
~中略~
一種のメディア・リテラシーとして「カウンター・プロパガンダ・リテラシー」が必要不可欠だ。

〈日本の民衆はプロパガンダに無自覚!〉

カルト宗教や陰謀団による「洗脳」という大規模かつ悪質なプロパガンダまでいかなくても、私たちの日常には「プロパガンダ」が溢れている。このことに無自覚な人たちの存在が意味することとはなにか?
ずばり指摘すると、「選択の自由」を他者に依存している、または誘導されているということ。
要するに、自分で何かを決めているつもりで、実は知らず知らずのうちに「誘導」「ミスリード」されているかもしれないということ。
これの何が問題かと言うと、「自由」が奪われているということに尽きる。
これこそがやがて来る全体主義への道のりなのです。
ポイントは「知らず知らずのうちに誘導される」ということ。
考えているようで、実は考えているのではなく、考えているような気になっているだけ、ということ。

社会に氾濫する「宣伝」「広告」などは、ある種のプロパガンダを含んでいる。分かりやすいのが店頭販売やネット通販などの宣伝でしょう。商品を買ってもらう為にどうするのかと言えば、その商品の「メリット(特典)や利点(アドバンテージ)のみに絞って伝える」という宣伝をする。これは隠れた部分があり、利点やメリットの裏には欠点やデメリットが潜んでいる。たいていの場合、商品やサービスに関する欠点やデメリットはあえて伝えない。
(業種によっては伝えるケースもある)
「宣伝」とは、特定の何かを情報の受け手に認知させなおかつ受け入れてもらう為の技術であり、程度の違いさえあれどプロパガンダの要素は含まれている。

こうした日常の「宣伝」は、たいていの場合問題となることはないが、政治の場合はそうはいかない。建前上であっても日本国は民主主義制度となっている。民主主義とは国民一人ひとりが主権を持つものであり、多数決で権力の座を決める制度でもある。この民主主義制度の欠点は「多数の意見をコントロールしたものが権力を手に入れる」という構造が潜んでいること。

つまり、表向きは「国民のみなさまが主役です」と言いながら、知らず知らずのうちに「ミスリード」することによって本来の民主主義が歪められ、実質的に民主主義が機能していない状態とされる危険性があること。というよりもすでに危険性を警告する段階はとっくの昔に過ぎていて、間違いなく民主主義は特定の意図を持って誘導されている。
烏賀陽氏が指定しているように、「政党」はすでにマインド・マネージメントの手法を国民に向けて使用している
「マインド・マネージメント」と言えばきれいな言葉に聞こえるが、要は「マインド・コントロール」と言うべきだろう。

みなさんお気づきだろうか?
一度や二度くらいは、テレビCMで特定の病気(予防対策等)が流れていること目にしたことがあるだろう。なぜ、特定の病気または予防対策等だけのCMを流すのか? と考えたことがありますか?
そこには政府によるマインド・マネージメントが存在していると見るべきでしょう。
これの逆があります。
「特定の情報を発信しない」というものです。
これもステルス的な意味でのプロパガンダ要素を持つものです。
発信されない情報とは、人々の目に触れず、聞こえず、まるで存在しないような効果を生み出します。
情報が発信されなければ、人々は興味も関心も持つことが出来ず、判断材料を手に入れることができなくなります。

こうした手法は、戦争において常套手段として使われるものなのです。
検閲、言論統制、言論弾圧、などによって特定の情報だけが人々の目に触れることが許され、政府に反する言論や情報は排除または弾圧されていくのです。
この政治体制こそが全体主義なのです。
当然、そこには自由はありません。
全体主義とは、実は「自由を隠れ蓑にして台頭する」ものであって、「自由を偽善として(騙しの手法)使う」ことで人々をコントロールするものなのです。
「全体主義」は全体主義の姿を取って現れるのではなく、自由や民主主義の姿(仮面や隠れ蓑)を取って出現するものなのです。

日本の政治においても、政党は必ず「マインド・マネージメント」を行っていると思って、その政党が流す情報(特にキャッチコピーなど)を受け止めるべきなのです。
そのためには、烏賀陽氏が主張しているように「(カウンター)プロパガンダ・リテラシー」が必要なのです。
政党が発信する「キャッチコピー」または「キャッチフレーズ」にはプロパガンダが含まれていると考えるべきなのです。
その奥に単なる宣伝の意味しかないのか、隠れた誘導または洗脳が潜んでいるのかを見抜く思考を持つことが正しく民主主義が機能することを担保するのです。

具体的に言うならば、政府の「アドバイザー」をしている人、政府につながる組織体や人(御用学者、御用医師等)が流す情報または意見等には、プロパガンダの要素が含まれていると思って警戒するべきです。
同時に、テレビに出演している学者等の専門家たちの中には、プロパガンダの要素を含む情報発信をするものがいると思うべきです(すべてとは言わない)。
単純に言えば、政府の政策を肯定的するような情報発信する者、政府の政策等が正しいと立証するだけしかしない情報発信者の流す情報や見解は注意が必要だということ。
学者や科学者であっても、真実への探求心、ジャーナリズム精神は必要であり、本物のジャーナリズム精神は必ず“批判的思考”をともなうものなのです。

なお、プロパガンダの要素が含んだ情報には様々な形があります。
ニュース、文字情報(記事)、動画、マンガ(アニメ)、映画、ドラマなど。
その他にもプロパガンダとして使われるものがあることを烏賀陽氏が指摘している。
記念碑、記念館、銅像、公会堂、公園、門など。
つまり、建物や建造物もプロパガンダとして使われ、大規模なものとなると都市そのものにプロパガンダ的要素が入っているものもあるということ。

プロパガンダの定石

《プロパガンダの定石1》

プロパガンダの手法には「定石」と呼ばれるものがありますので、以下でそれを示します。
この「定石」を知ることが「プロパガンダ・リテラシー」の中核となります。
つまり、プロパガンダの定石を知ることは情報を判断する“物差し”を手に入れるということ。

『プロパガンダの見抜き方』より引用

プロパガンダを効果的にするには物語性を持たせよ。

〈物語の成立要件とは?〉

前出の内容とかぶるが論じる。
ある意味では、人間とは物語を語り、物語を求める生き物(存在)とも言える。
物語を持った情報はプロパガンダとして効果が高くなる。
烏賀陽氏は物語の成立要件を以下のように示している。

『プロパガンダの見抜き方』より引用

・複雑で曖昧な現実に説明をつける。
・その説明に多数が納得できる。
・そんな物語を持った情報はプロパガンダとして効果が高い。

ここで注意点がある。
「物語」を持った情報はプロパガンダとして効果が高いが、「物語」が横たわっているからと言って必ずしもプロパガンダとは言えない。プロパガンダは物語性を持つが、物語性があるからすべてがプロパガンダとは言えないということ。
物事を安易に考える人は、何らかの情報に「物語があるからプロパガンダだ」と決めつけてしまう危険性がある。
「物語がそこにある=プロパガンダ」は絶対的成立要件ではない。
この場合の意味は、物語が主ではなく、プロパガンダが主になるものこそが、「物語を含んだプロパガンダ」だということ。
なぜならば物語というものは、無数に転がっているからだ。事実、あなたの人生もあなただけの物語であり、人間の数だけ物語があると言うこともできる。

報道に関する情報(記事)では、6つの要素が必要とされる。
報道記事(情報)の6つの要素とは、「5W1H」。
①WHO=誰、②③WHAT=何を、④WHERE=どこで、⑤WHEN=いつ、⑥WHY=なぜ、⑦HOW=どのように。
(烏賀陽氏は②と③を一つとして数えて6つとしている)
一般的な言い方をすると、WHEN(いつ)、WHERE(どこで)、WHO(誰が)、WHAT(何を)、WHY(なぜ)、HOW(どのように)、となる。
この6つの要素が、「事実を伝える報道記事(情報)」には必ず含まれていなければならない。

物語性をもつものがプロパガンダとして有効であるということは、そこに登場人物が必要となる。別な言い方をすると「キャラクターを登場させることで物語ができあがる」ということ。

もうひとつ、烏賀陽氏がプロパガンダとしているのが「ゆるキャラ」。
ゆるキャラはあくまでも架空の存在であり、地方行政が“宣伝”のために作ったもの。その目的は、「ご当地」の広告宣伝を担うもの。
ゆるキャラの出現によって、無個性だった地方自治体を「他の地方自治体と区別できる」ようになり、当該地方自治体に興味関心を持たせて、認知させることができるようになった。
つまり、ゆるキャラはプロパガンダ・キャラクターとして大成功したということ。

烏賀陽氏はこう言っている。

『プロパガンダの見抜き方』より引用

「キャラクター」がプロパガンダを広まるうえで極めて有効なツールとして機能するという点である。

そのシンボル(=プロパガンダ・キャラクター)はいずれも「若い」「女性」である。
(この発言はグレタ氏、エマ・ゴンザレス、周庭氏などについて発言した際のもの)

ではなぜ「若い」「女性」なのかと言えば、権力者の大多数派が「成人男性」「年配者」だから。
女性は子どもという新しい世代を産む身体機能を持つがゆえに、「古い時代や古い価値観」を打ち破り、「新しい時代・新しい価値観」を創造するという精神的な象徴性があると烏賀陽氏は語っている。

話は反れるが、先の参議院選挙で参政党の「さや」と名乗る女性候補者(当選)が話題となったが、他の候補者が世間の目に触れることはほぼ無かったと思われる。ではなぜさや氏がそんなに注目されたのかと言えば、推測ではあるがこのキャラクターの役割を担ったと見ることが出来る。つまり、さや氏という女性候補者が参政党躍進のキャラクターとして意図的に登場させた可能性があると私は考えている。

このようにキャラクターにプラスするプロパガンダの武器がある。
それは「シンプルなメッセージ」
例えば、「日本人ファースト」。
これは参政党が先の参議院選挙で使ったメッセージですが、党首の神谷氏が「選挙用(選挙時だけ主張しているもの)」と言っているようなので、明らかにプロパガンダの意味を持ちます。

難しい事、深淵な論理を等々と説明されても人々は嫌気がさしてくるだけであって、少しもその主張が耳に残らないのです。しかし、言いたいことをギュッと凝縮してシンプルなメッセージにすることによって、聞く人々は各自で想像力を働かせて意味を補うものなのです。
シンプルなメッセージだから必ずプロパガンダとは言えませんが、プロパガンダの手法としてシンプルなメッセージの形式を取ることは覚えておくべきでしょう。

このように、人々が気づかないようにプロパガンダは“どこかに”潜んでいるものなのです。

《プロパガンダの定石2》

『プロパガンダの見抜き方』より引用

極限までシンプルにしたメッセージを反復せよ。

〈極限までシンプルにしたメッセージを反復する〉

「極限までシンプルにしたメッセージ」とは何か?
疑問には答えず、特定のメッセージを既知の事実であるかのように伝える。
理由や論理はすべて省いて初めから結論だけを提示する。
すると「極限までシンプルにしたメッセージ」が完成される。

長文、長い説明、難しい論理などは一般的には多くの人の心の中に入り込みません。
多くの人々の心の中に入り込みやすいものこそが実は「極限までシンプルにしたメッセージ」なのです。その受け取ったメッセージをきちんと自分の言葉で説明、解説してみろと言われれば、上手く話せないが、なんとなく理解したような錯覚を起こすものが「極限までシンプルにしたメッセージ」なのです。

烏賀陽氏はこう言っている。

『プロパガンダの見抜き方』より引用

情報の受け手が「何となく、そう思ってしまう」ことが重要なのだ。これも「極限までシンプル」なメッセージの効用として、プロパガンダの王道である。

またこうも言っている。

『プロパガンダの見抜き方』より引用

「論理的思考」を飛ばした「言葉の断片」を絶え間なく浴びせ続けられると、人間はその意味がわからないために、考えることをやめてしまうからだ。「なぜ、そうなるのか」「どうしてなのか」という発問をやめてしまう。

プロパガンダとは、明確な論理があるようで明確な論理がないものであり、客観的な論理があるように思わせる技術なのです。つまり「論理的思考を飛ばした言葉の断片」なのです。それを絶え間なく人々へ向けて浴びせ続けることでプロパガンダとしての役割を果たすものなのです。
この「極限までシンプルにしたメッセージ」を常に、大量に受け取っているとどうなるのかと言えば、人々が奥に隠れた本当の意味(意図、狙い)に気づかず、考えることを止めてしまう(=思考停止する)ことになるのです。
これが民主主義を利用しながら、全体主義へと向かうための手法なのです。

ただし、「極限までシンプルにしたメッセージ」だからすべてプロパガンダではなく、プロパガンダは「極限までシンプルにしたメッセージ」の形を取るということを理解してください。

プロパガンダとは、ある目的を実現するため、あるいは特定の意図を受け入れてもらうために「論理的思考を飛ばした“言葉の断片”を絶え間なく浴びせ続けるもの」なのです。

つまり、受け手を「思考停止状態」にすることで「特定のメッセージを脳裏に刻ませる」技術なのです。
この状態を別な表現で言うと、「何となく、そう思ってしまう」「明確な論理的理解をしていないにもかかわらず、受け入れてしまう」ことなのです。
そこに深い思考の働きがない状態なので、正確に意味を理解せずに、発信された情報(メッセージ)を“鵜呑み”にして、結果的に誘導されてしまうということなのです。

『プロパガンダの見抜き方』より引用

ヒトラーの著書『わが闘争』には、「民衆の大半は頭があまり良くないので、簡単に嚙み砕いて、簡単にしたメッセージを繰り返し何度も何度も流しなさい」とある。

もし、日本の政界にヒトラーの著書『わが闘争』を愛読書とするような人物、またはヒトラーの人心掌握術から学んだ人物がいたならば、この手法を必ず使うはずです。

『プロパガンダの見抜き方』より引用

「大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわり忘却力は大きい。この事実からすべて効果的な宣伝は、重点をうんと制限して、そしてこれをスローガンのように利用し、そのことばによって、目的としたものが最後の一人にまで思ううかべることができるように継続的に行わなければならない」

ここから導かれるのは、宣伝効果をもたらすものとは、「極力身近で簡単に理解できる言葉を選び、絶え間なく繰り返し発信すること」となる。
こうした手法を通常「プロパガンダ」という。
ただし、プロパガンダの手法はこれだけではない。

「受容能力は非常に限定され理解力は小さいが、忘却力は大きい」
これを悪用するとどうなるのか?
プロパガンダとしての「嘘」を流して、批判や非難が起きてもそれには答えず(スルーして)、ひたすらその話題が忘却されるのを待つ、となる。
この手法を常時使っている政党がある。
どこでしょうか?

《プロパガンダの定石3》

『プロパガンダの見抜き方』より引用

イエスかノーか二者択一を迫れ。

〈物事を単純化し、選択を迫れ!〉

ものごとを複雑化すると多くの人々は受け入れがたくなる。また受け入れられる人が限定され時間もかかる。だから「単純化」する必要がある。
ここでいう単純化とは、伝えたいメッセージ(プロパガンダ)の二者択一を提示すること。
二つに一つを選ぶならば、簡単な思考さえも必要なく、感情や勘の働きでも十分となる。
これとは逆に選択肢が複数あると人々は迷いの道に入り込んでしまう。また、答え(選択肢)さえも提示されないと真っ暗闇なトンネルの中にいるようで先が見えない。知力とは闇夜を照らす光となるからだ。だから多くの人々は単純な二者択一に安心感を持つ。しかも二つに一つだとしても、自らが「選らんだ(選択し、決定した)」という満足感(選択の自由の発揮)を得ることが出来る。

この手法は、「イエスかノーか」という単純化された二者択一の問いを投げかけ続け、自分に有利な方向へ多数の思考を誘導する手法です。
東大名誉教授の石田英敬氏はこの手法を「二進法アルゴリズム」と名付けている。

この手法は回答者が「自分で考えている(自分で選択している)」ように錯覚させる手法であり、現実には考えていない。もっと突っ込んだ言い方をすれば、考えているように見せけて知らず知らずのうちに思考の方向性を与えて発信者に有利なように誘導する手法
この手法の問題点は、「前提」にある。
「二者択一を提示する(迫る)」ということはある前提の上に立っている。その前提が何かといえば、他の要素を排除しているということ。これは思考の自由、発想の自由、選択の自由を奪っていることに“等しい”。

著者の烏賀陽氏は事例として小泉総理の「郵政民営化にイエスかノーか」=「改革にイエスかノーか」という具体例を示している。

思考や発想には、「イエスorノー」だけではなく知恵の発露である「第三の道」がある。二者択一を迫る情報発信とは、第三の道を塞ぐことによって、右か左かという限定的な思考決定を迫るものでしかない。
もちろん人生の中で二者択一を迫られることはあるが、政治や社会問題において二者択一しかないという状況は民主的でもなく、自由を尊重するものでもない。

この二者択一を迫る手法がプロパガンダの手法の一つであると知ったならば、マスメディアが流す情報に対して検証を加えることが部分的にできる。
マスメディアが流す政治のプロパガンダはこの手法を良く使う。
例えば選挙の際の「与党か、野党か」。第三の勢力あるいはまだ勢力とも呼べない勢力(新規勢力)を排除するという前提を作り上げて、国民をミスリードしている。

本来、報道とはすべからく「どんな事実を受け手に知らせたか」だけで判断されるものであり、その功績は「特定の事実が明るみに出たら困る」という事実(真相)を受け手に知らせることで成り立つ。
そもそもメディアが手にする国民からの信頼とは、「権力者側にとって痛撃となるような事実を取材で掘り起こしてくる」ことから得られるもの。
人々は、個人の努力では不可能な真実や真相を暴き出す情報を伝えるからこそメディアを信用する。だが、現実には完全に逆となっている(現場の記者等には報道の精神を持つ人もいる)。
「権力者側にとって痛撃となるような事実を取材で掘り起こしてくる」ということが本来のメディアの役割であり使命なのだ。つまり、権力者から一般人を守るという役割を担っているのが正しいジャーナリズム精神なのだ。
民主主義といっても国民には権力は“実質的に無い”に等しい。現実的には選挙で勝った政治家と官僚たちが実権を握っている。だからもし特定の情報を隠したり、特定の情報だけを発信したりすると国民の選択の自由(判断の自由)を奪うことになる。

結局、これは「知る権利」に関することなのです。国民を権力者から守るためにマスメディア(ジャーナリストなど)は国民の知る権利を守るべきであり、それが成り立ってこそ正当なる民主主義が成立する。もし国民の知る権利を守らずプロパガンダ(洗脳、情報操作)していれば、その社会体制は民主主義とは呼べない。
戦争時がそうであるようにそれは全体主義にほかならない。
お気づきかもしれないが、プロパガンダとは“民主主義の仮面を着けた全体主義”に他ならない

そもそも特定の問題に対して「二者択一」が正しい思考方法なのかということを国民は考えなければならない。
詐欺師がそうであるように、悪い奴は騙しの手口として「前提で騙す」。
前提で騙しが成り立つと、その後いくら嘘をついても人は騙され続けるからです。

『(3)~プロパガンダの定石Part2~』につづく

参考書籍(引用元)

書籍名:『プロパガンダの見抜き方』
著者:烏賀陽弘道 (うがやひろみち)
出版社:新潮新書 (新潮社)

最後までお読みいただき、ありがとうござりんした!


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