『「あだ名」禁止の教育にもの申す! ~ニックネーム(愛称)による教育を推奨する提言!~【後編】』

まずは【前編】をお読みください。

【水戸英宏小学校・野淵光雄教頭に反論する】

水戸英宏小学校の野淵光雄教頭の語った言葉にご意見番が反論する。

《反論1》

「あだ名で呼び合うことによって差別化が生まれ、スクールカーストにつながってしまうイジメが発生しやすい状況を作ってしまう」

これは論理が逆転している。

あだ名で呼び合うから差別化が生まれるのではなく、本人が嫌がるあだ名をつける人間に差別意識や嫌悪感情があるから差別(イジメ)が生まれるのだ。

物事の考えが根本から間違っている。

さらに言うと平等意識は大事だが、なにを持って平等とするのか、という問題がある。
学習能力の違い、運動能力の違い、身体的特徴の違い、家庭環境の違い、性格の違いなど、人間には必ず違いがある。

スクールカーストがあるとするとその発生源は「成績の違い」「運動能力の違い」「家庭環境の違い」「容姿の違い」「性格の違い」からくるはず。
果たしてこうした「違い」を無くすことができるか?
不可能である。

その違いをなくすことが教育ではなく、違いを理解するように教えるのが教育ではないか?
違いを乗り越えて共に友情をはぐくむように指導するのが教師の役割であるはずだ。

スクールカーストがあだ名禁止で無くなるのならば、大人の世界ではとっくの昔に差別がなくなっている。
考え違いも甚だしい!

《反論2》

「さん付けで呼び合うと子ども同士の関係が対等になる」

「さん付け」で呼び合うのは、教師に言われたからであり、その真の意味を子どもたちは理解していない。
「さん付け」で呼び合うことで子ども同士が対等の関係になるというのは、子どもに本音と建前の2つの世界があることを知らせ、子どもたちを建前の世界に押し込むことになる。

教師は、子どもたちが教師のいないところでなんと呼び合っているのか知っているのか?
教師がいくら「あだ名禁止」と学校の規則で縛っても、放課後になれば子どもたちはあだ名で呼び合うものだ。
また、人の口に戸は立てられないものだ。
呆れてものが言えない!

《反論3》

「開校から大きなイジメが発生したことは1度もありません」

水戸英宏小学校の場合は、私立小学校という事情が影響していることは否めない。

だが、この論点の本質は別の所にある。

「教師(学校側)がイジメは発生していないと認識している」ことと、「実際に教師がいない場所でイジメが発生していない」ということは同義ではない。

イジメとは陰湿なものであり、本来、教師に知られないように行われるものである。
教師の前でするイジメなどあり得ないし、教師に知らせることもない。

問題は、教育者である教師(学校側)が、自分たちのいないところで「イジメが発生しているのではないか?」と思って教育に当たることである。
「イジメは報告されていない」「イジメは見つかっていない」という認識からは、陰湿なイジメを発見することはできない。
イジメは大人に隠れてするものであるという認識さえないのならば、教育者失格である!

【「あだ名禁止」の教育にもの申す!】

《呼ばれて嫌なあだ名とは?》

“呼ばれて嫌なあだ名”とは、結局、「固有名詞と化した悪口」である

つまり、呼ばれた人が嫌なあだ名とは、

他人を罵倒する意図を含むもの。
他人の価値を貶めようとするもの。
他人の身体的特徴をバカにするもの。
など、誹謗中傷の内容を含んだものだ。

要するに、「あだ名」が問題なのではなく、そうしたその人が呼ばれて欲しくないあだ名をつける人間(子ども)の心が問題なのだ。

《「あだ名」禁止教育は、教育として間違っている》

「あだ名」をつけることが「イジメにつながる」のではなく、「イジメようとする卑怯で意地悪な気持ちがあるから呼ばれて嫌なあだ名をつける」のである

問題の本質は、「相手が嫌がることをしない教育をすること」「人間の違いを理解させる教育をすること」のはず。

「あだ名」を禁止したからイジメがなくなった。
イジメを無くすために「あだ名」を禁止する。
というのは、教育の放棄であり、子ども同士の「自由な結びつき」と「表現の自由」の侵害である。

また、私立小学校という事情により、「受験重視教育体制」の弊害である。
受験は合格か不合格かの2つの選択肢しかない。
しかし、人間関係(子どもたちの)において2択ということはありえない。
人間関係は複雑である。
つまり、受験のようにはっきりとした結果を望むことは子どもどうしの関係にはできないのだ。
要するに、人間関係に「受験型発想」を持ち込んだのが「あだ名禁止」である。

「あだ名禁止」教育は、稀に見る悪質で低レベルの間違った教育である。

子ども同士の関係は、「ニックネーム」「呼び捨て」で呼んだり、呼ばれたりすることで親愛の情が深まったり、コミュニケーションが良好になることに繋がる。
良い意味を含んだあだ名、ユニークなあだ名は好意(友情)の証である。
(この場合のあだ名はニックネームという意味)
それは中川翔子さんの言うように「生涯の宝」となる。
子どもたちから大切なものを奪う所業である。

本名は大人(親)がつけたもので、子どもにとっては「公式の世界」であり、「大人の世界」なのだ。
子どもとは大人に秘密を持ちたがる存在で、「子どもの世界」を作り上げることに喜びを感じるものである。
よって悪意あるあだ名を排除するために良い意味を持つあだ名まで禁止することは、子どもの思い出をひとつ取り上げることに他ならない。

《「あだ名禁止」教育にもの申す!》

結論。

「あだ名=イジメ」ではない
「あだ名禁止=イジメ消滅」ではない。

イジメの根本は、人間の個性、環境や能力の違いからくるものである。
勉強が出来ない。
運動神経が鈍い。
太っている。
顔が変。
親(家庭)の経済的事情。
など、あげたらきりがない。

あだ名を禁止すればイジメ防止になるというものは幻想である。
イジメの本質と人間性の本性を見落とした教育の間違いである。
少し大げさにいえば、逃げの教育であり、教育の放棄である。

なぜなら、あだ名を禁止するというルールを作り監視することがイジメ防止となってしまっているからだ。
そうなるとイジメの本質である人間の心の奥底にある「憎悪」「嫉妬」「嫌悪」「差別的感情」に教師が目を向けなくなる。

イジメの根本は、子どもたちが持つ残忍性から発生する
その残忍性は人間としての未熟さからくる
その未熟さを育て指導するのが教師の役割だ

それを「あだ名を禁止」することで「イジメがなくなった」と認識するようならば、それは教育の放棄でしかない!

《あだ名禁止の教育をすると・・・》

全国教育問題協議会常任理事の山本豊氏が主張しているように、「○○さんと呼べばイジメがなくなる」というものではない。

山本豊氏が主張しているように、
「あだ名禁止」教育は、まったく馬鹿げていて、実効性がない。
学校の規則で「あだ名禁止」をしてみたところで、子どもたちは教師のいないところや教師の目を盗んであだ名をつけ呼び合う。
子どもの言語表現については、他者に危害を加えるものを除いては自由にするべきである。

あだ名を禁止することが教育だと考える発想に根本的な間違いがあるのだ。

「あだ名を禁止する教育」は、『面従腹背』、つまり『表は笑顔で接するが、腹の中は反抗する人間』、『本音と建て前を使い分ける人間』を育ててしまう。
なにより、“子どもらしさ”を失わせてしまう
大人の事情を子どもに押し付けるのは良くないことだ。

【あだ名に関する正しい教育とは?】

この記事で2つの小学校を紹介した。
また、全国教育問題協議会の見解も紹介した。
「あだ名禁止」の教育に関する答えは、ご意見番が答える前に出ている。

全国教育問題協議会常任理事の山本豊氏の見解とグリーン・ヒルズ小学校の田中節子副校長の言葉の中に正しい教育の姿がある。

さすがである!!
あっぱれ!!

すでに答えは出ているがあえてご意見番が少しだけ補足する。

《「あだ名」に関する正しい教育とは?》

グリーン・ヒルズ小学校で実践しているように、愛称(ニックネーム)を「みんなで呼ばれたい名前、呼びたい名前を相談」して決めることだ。

「あだ名」ではなく「愛称(ニックネーム)」という語彙を使用することだ。
つまり、呼ばれたい愛称をつけて呼び合うことで親近感や連帯感を生み出すことだ。

もし、嫌がるあだ名を勝手につけて呼んでいたら教師が「本当にいい呼び方だったのかしら?」と問いかけて子どもたちに考えさせることだ。

大人のルールを押し付けて終わるのではなく、“みんなで考える”ということが教育であり、そこに子どもたちが成長する機会が発生する。
人間はロボットではないのだ。

教育とは、建前の生き方を教えるものではなく、善と悪を区別する知恵を教え、人間の違いを乗り越えてコミュニケーションをとれるように指導することである。

ちなみに、アチキがもし、いま子どもだったとしたら、水戸英宏小学校とグリーン・ヒルズ小学校のどちらに通いたいかというと、当然、グリーン・ヒルズ小学校でありんす。
父兄として自分の子どもをどちらの小学校に通わせたいかというと、これまた当然のごとく、グリーン・ヒルズ小学校でありんす。

“あしからず”でござりんす!

最後までお読みいただき、ありがとうござりんした!


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