勇者の中の勇者とは?
《勇者の定義》
「勇者の中の勇者」を語る上で大前提となるのが「勇者が前提条件」であることは異論がないと思います。
ですから、話(論理)の大前提が勇者という題材であることをお断りしておきます。
剛毅な人、勇猛果敢な人はたくさんいるし、乱世や動乱の時代にはキラ星のごとく現れますが、その勇者の中の勇者とは、どんな人なのか、どんな特徴があるのか、ということを、なぜか語ってみたくなったので、今回お送りします。
「勇者」を定義すると、
「勇気がある人」(広辞苑)
「困難な状況にも恐れることなく挑む人」
「度胸のある人」
「正義のために闘う人」
「不可能なことにチャレンジする人」
「苦難困難にも挫けない人」
などと言えるでしょう。
「勇者」を、一言で表現すると「勇敢な人」と言えるでしょう。
でも、アチキが語りたいのは「勇者の中の勇者」なので、「勇者」であることを前提として、その中でさらに優れた勇者を選びだすことを語ってみたいと思います。
《勇者の中の勇者の特徴》
勇者の中の勇者とは、どんな人なのか?
「勇者」と「勇者の中の勇者」は違うのか、ということを語ってみます。
勇者というと、サムライ、乱世の英雄、軍人、または冒険の主人公や悪と戦う正義のヒーローを思い浮かべる方が多いでしょうが、そうした動乱や戦争などで活躍するだけが勇者ではないと思います。
勇者は、乱世や動乱の時代にはキラ星として脚光を浴びますが、平和な時代や現代の日常生活の中にも存在していると思っています。
では、「勇者の中の勇者」とは、どんな人を指すのか?
〈退却が出来る勇者〉
前に進む度胸があっても、退却する度胸がない者は、勇者の中の勇者ではありません。
勇敢なことと、頑ななことは同じではありません。
乱世には勇敢な武将などが活躍しますが、前に進む勇気はあっても退却することができない武将がいます。
それは勇敢に思えますが、違います。
前に進む勇気よりも、後ろに下がるときの勇気の方が難しく強さが必要だからです。
ですから、前進するときには勇ましく見えていた人が、逆境に見舞われると退却することができずに自滅または破滅することがあります。
なぜ、後ろに下がれないかというと、「負け」を認めるのが「怖い」からです。
自分のプライドが傷つくことを恐れているからです。
後ろに下がることは、自分が負けたことを認めることになると思ってしまうからです。
つまり、そこに「恐れ」があるのです。
前に進む勇気を発揮できても、後ろに下がる勇気を発揮できない者がいるのです。
真の勇者(勇者の中の勇者)は、前に進むときも後ろに下がるときも勇ましさを失いません。
これは、恐れて逃げる(退却する)ということと一見同じに見えますが、その人の内面ではまったく逆なのだということです。
積極的な目的のための退却と単なる逃げるための退却では“似て非なるもの”なのです。
積極的な退却が出来ない人の理由は、そこに信念(信条)がないからです。
信念がある人は、固い意志を持って未来の勝利や成功のために退却することができるのです。
信念のために自分の小さなプライドにこだわらないからです。
ですが、自分のプライドを守ろうとすると、そこに「恐れ」が発生するのです。
恐れて逃げるのではなく、正しい状況判断によって、あるいは信念に従って後ろにさがるのと、単に恐怖して後退するのとは、見た目は同じでも本質は真逆なのです。
これを見分けることは非常に困難ですが、明らかに違うのです。
有名な具体例をあげると、中国の漢帝国を築いた功労者の一人に韓信という武将がいました。
韓信は体格に恵まれていましたが、若いときに町のチンピラに絡まれて「俺の股をくぐれ」と、いちゃもんを付けられました。
中国において股をくぐるということは、完全敗北を認める屈辱的な扱いを意味します。
このときの韓信の行動が「韓信の股くぐり」という諺となっています。
韓信は、漢王朝を開いた劉邦に見出されて大将軍として大活躍し、項羽を追い詰め、漢に大勝利をもたらしました。
そんな戦上手の韓信ですから、勇敢さ、勇猛さなどがその性格になかったとは考えられません。
ですが、韓信は将来のために、つまらないいざこざを起こさない選択をした、ということです。
つまり、韓信がこのときとった作戦は「人間関係における撤退戦」ということです。
ときには無用の闘いを避けるためにあえてプライドを捨てられるということは、“弱さ”ではなく“強さ”なのです。
ですから、真の勇者は前に進むときにも、退却(撤退)するときも弱気ではなく、度胸をもって後ろに下がるのです。
こうしたことを現代的に言うならば、勇敢だと思われている人たちの中で、「耳に痛い他人の讒言(ざんげん)を聞き入れられる人」「自分の過ちを認めることができる人」「自分の罪を反省して、自己変革をすることができる人」となります。
要するに、自分が何らかの間違いをしたときに、「素直に過ちを認められるか」「正直に自らの弱さ、未熟さに向き合えるか」そして、「それを受け止めて反省し、自分の向上のきっかけとすることができるか」、ということです。
どんなに勇敢でも、度胸があっても、強気な性格をしていても、「他人の讒言に聞く耳を持たない」「自分の過ちを認めない」「自分の弱みに目を背ける」という人は、結局、そうしたことを「恐れている」ので、真の勇者ではありません。
真の勇者は、自らの過ちを認め、反省し、脱皮し続けることができます。
つまり、進化しつづけることができるということです。
しかし、自らの過ちを認めない頑固な人は進化することが止まってしまい、生来持っている勇敢さ、強気な性格のみで生きているのです。
それは勇者の中の勇者ではないということです。
〈他者のために潔さを発揮する者〉
勇ましい人はチャレンジする人であり、行動力があるので権力を掴むことも多いです。
ですが、たとえ成功したとしても、富者となっても、それが自分の懐を肥やすためだけであったならば、どんなに勇敢な行動、積極的な行為であっても勇者の中の勇者とは呼べません。
なぜなら、自分・ジブン・じぶん・・・と、いつも自分のことばかり考える人は、勇ましいように見えて、実は自分を守ることに汲々とするからです。
つまり、攻めの人生がいつの間にか守りの人生となってしまうのです。
ですが、他者や他の存在のために闘う人、行動する人は、自分を捨てる「潔さ」があります。
自ら得たものに執着しない勇敢さがあるのです。
勇者はこの世で成功することも、出世することもありますが、勇者の中の勇者は、必ず己に対する執着を断ち、潔い生き方をしています。
その潔さとは「他者のために生きる」という生き方です。
己の利益を増やすことばかり考える者、己の名誉ばかり守る者、己の欲ばかりに目がいくものは、どんなに勇敢に見えても、どんなに成功しても、勇者ではあっても勇者の中の勇者ではありません。
〈善と悪を明確に見極める者〉
勇者が勇者であるためには、善と悪を見分ける判断力を持っていなければなりません。
どんなに行動力があっても、どんなに積極的な活動をしようとも、どんなに強い人間に見えたとしても、どんなに権力があっても、善と悪がひっくり返ってしまっていては、真の勇者ではありません。
勇者の中には、猪武者と呼ばれるような猪突猛進のタイプが多くいますが、そうしたタイプは善悪を見分ける力が弱いという特徴を持っています。
勇者が勇者であるためには、「正義の側」に立っていなければなりません。
勇者の中の勇者であるためには、「善と悪が混沌としている状況に対して善悪の判定」ができなければなりません。
それであってこそ正義を守れるからです。
結局、勇者の中の勇者となると、「智者としての側面を持ってくる」ということなのです。
勇者であり智者となってくるのです。
智者としての顔を持ってこそ、勇者の中の勇者となるのです。
《勇者ではあるが「勇者の中の勇者」とは呼べない者とは?》
世の中には、「勇ましい人」「勇敢な人」「強気な人」「チャレンジし続けて諦めない人」「度胸のある人」などがたくさん存在しています。
ですが、以下に述べる人は、ご意見番の「勇者の中の勇者」の定義から外れます。
〈蛮勇の徒〉
勇敢さがある、剛毅な性格と見える人の中には勇者と呼べない人たちが存在しています。
その筆頭は、「野蛮な人」です。
「野蛮さ」と「勇敢さ」は“似て非なり”です。
まったく性質が別のものです。
蛮勇のことを昔の中国では「匹夫の勇」と呼び、忌み嫌いました。
つまり、ただ暴力的なだけ、ただ強引なだけ、ただ強気なだけ、ただ頑固なだけ、そうした人が発揮するものは勇敢といいよりも野蛮な気質ということです。
野蛮であるということは「品性がない」「思いやりがない」「優しさに欠ける」「残忍」「自己中心」ということです。
つまり、愛の欠落が野蛮さを生むのです。
愛の無い者は一見勇敢に見えても、それは「野蛮」なのです。
〈見せかけの勇者〉
また、一見勇敢な人だなと思われている人の中には、「見せかけの勇者」が存在します。
それを見破ることは簡単です。
見せかけの勇者の発言にはどこかに必ず「矛盾」があります。
また、「卑怯な行動」や「嘘」があります。
具体例をあげると、「ケンカ売ってんのか、いつでもケンカ買ってやる」と言いつつも、他者の意見(批判)を受け入れないようにシャットアウトして、国外に行ってしまうことは「矛盾」であり、卑怯なことです。
(誰のことだかわかりますか?)
こうした人をご意見番は、「見せかけの勇者」と呼びます。
威勢のいいようなセリフを吐きながら、実は背中を見せる者は、「見せかけの勇者」なのです。
〈自分のために闘う者〉
勇者とは別な言い方をすると、「正義のヒーロー」ですから、己の利益のために闘う者、己のプライドを守るために発言する者などは、いくら剛毅な性格をしていても、その闘いが己の利益やプライドを守るためのものであれば「勇者の中の勇者」の定義から外れます。
サムライは、主君の理想実現のために闘います。
サムライは、民の幸福を守るために闘います。
正義のヒーローは、弱者を悪者から守るために闘います。
正義のヒーローは、他人を救うために闘います。
つまり、己のためではなく、他者のために闘っている、ということです。
よって、己の利益や権力、名誉のみを守るために闘う者は、真の勇者(勇者の中の勇者)ではありません。
『勇者の中の勇者と智者の中の智者とは?【後編】 ~真の智者と偽物の智者を見分ける指針~』に続く。
最後までお読みいただき、ありがとうござりんした。