『勇者の中の勇者と智者の中の智者とは?【前編】 ~真の勇者と偽物の勇者を見分ける指針~』はこちら。
智者の中の智者とは?
《智者の定義》
智者とは?
「事理をわきまえた人」(広辞苑)
「道理をわきまえている人」
「頭の良い人」
「多くの知識を記憶している人」
「判断力に優れている人」
「分析力に優れている人」
「学問を修めている人」
など。
「智者」を、一言で表現すると「賢い人」と言えるでしょう。
智者の中の智者を語る上でも、「賢い人」であることが前提です。
その中でさらに優れた智者を選びだすことを今回は語ってみたいと思います。
《智者の中の智者の特徴》
智者の中の智者とは、どんな人なのか?
単なる「智者」と「智者の中の智者」は違うのか、ということを語ってみます。
〈世間一般的な智者とは?〉
世間で認められている智者とは、学者、言論人、評論家、作家、アナリスト、高級官僚、医者、科学者、研究者などでしょう。
何らかの資格を持っていたり、何らかの専門知識を持っていたり、過去の学歴が高かった人のことを一般的には「頭の良い人」と呼ぶでしょう。
ですが、厳密に言うと「頭の良い人」と「賢い人」とは、まったく同じではありません。
学歴が高くても賢くない人はいるし、高度な知識を持っていても専門バカになって常識のない人もいます。
逆に、学歴がなくても社会経験や独自の学習から高度な判断力を身につけている賢い人もいます。
つまり、単なる「頭の良さ」と「賢さ」とは、少し違いがある、ということです。
それでも一般的には上記のような人たちを「智者」と呼びます。
では、「智者の中の智者」とはどんな特徴を持った人なのでしょうか?
〈摩訶不思議なことを探求することができる人〉
まず、智者の中の智者を語る上で欠かすことができない論点が、世の中にある摩訶不思議なことを探求する「探究心」を持っているということです。
これは哲学的思考、宗教的な悟りを求める心境と言ってもいいでしょう。
科学は未知なるものを探求し、解明された結果にしか過ぎず、現代科学は地球上の謎、摩訶不思議な現象、あの世、宇宙の謎などをいまだに解明していないのです。
大宇宙の中の一つの銀河系の中のあるひとつの太陽系の中の地球という惑星に住む地球の人類にとっては、未知なるもので溢れているのです。
それを科学は万能だというのであれば、科学で証明されていないものは存在しない、というならば、あまりにも傲慢な発想であり、それは「探求心の死」を意味します。
「現代科学で解明できないことはない」「現代科学で証明できないことは存在しない」などという主張は、科学的探究、真理への探究を放棄したものでしかありません。
科学的探究心、悟りへの探究心、哲学的探究心を失ったならば、智者の中の智者にはなり得ません。
なぜなら、その智者が持っている知識、学問は過去のものでしかないからです。
それ以上の進歩はないからです。
つまり、「智者」が持っている知識や知恵は過去に根ざしているだけのもので、「智者の中の智者」が持っている知識や知恵は過去の知識に根ざしつつも、未知なる領域の知識を集め、新たなる学問を開くのです。
「智者」の知恵は過去のもので、「智者の中の智者」は過去と未来の両方を含んでいるということです。
(あくまでも比重がそうであるという意味)
要するに、智者の中で未知なるものを探求しつづけ、摩訶不思議なものを否定せずに解明しようとする者が智者の中の智者と呼ばれるということです。
〈赤裸々に真実を追求することができる人〉
「智者の中の智者」の別名は「真実の追求者」です。
智者が智者と呼ばれる理由は、「真実を提示」するからです。
嘘と真実を見分ける力を持っているからです。
ですから、虚言を吐く者、誤魔化しの学問をする者は、智者の中の智者とは呼べません。
要するに、いま自分が修めている学問に都合の悪い情報や見解が出て来たときにそれを追求することなく、頭から否定する者は智者の中の智者ではない、ということです。
ときに真実を発見する、真実を見つめる、ということは痛みを伴うことがあります。
ときには、目を背けたくなるようなこともあります。
信じたくないと思うこともあります。
しかし、それに赤裸々に向き合うことができてはじめて智者の中の智者となるのです。
あくなき真実への追求心こそ、智者の中の智者の条件といえます。
〈善の実現と悪の衰退に熱意を燃やす人〉
智者の智者たるゆえんは、善と悪を峻別する力を持っている、という点にあるでしょう。
ですから、賢くなればなるほど、善と悪を明確に峻別し、善を選び取ることが智者の中の智者の条件となります。
ですが、頭が良いことを利用して、自らの利益を増やすことに熱心になる、あるいは自らの権力の維持に汲々とする、ということが見られます。
これらは智者のレールから外れた者の姿です。
智者の中の智者であるならば、善と悪を峻別する力に磨きがかかり、それはまさに名刀を所持しているかのような力を持つことになります。
刀が意味しているものは、知力です。
つまり、智者の中の智者と呼べる者は、善悪の概念が強くなるので、悪を無くし、善を実現する心境が高まるのです。
「義を見てせざるは勇無きなり」という諺のとおりに、ときに立ち上がって真実を明らかにし、善の実現のために悪と戦うようになるのです。
ですが、通常の智者である者は勇気がないことが多いのです。
学問をすると勇気がなくなる、行動力がなくなる、という現象が起きてきます。
なぜなら、世間のことをいろいろ知っているので、妥協することを覚えたり、慎重な行動を取るようになるからです。
通常であれば、人は知れば知るほど臆病になるのです。
しかし、智者の中の智者は、悪に対して果敢に立ち上がって対決します。
智者の中の智者は、隠された真実を暴きます。
要するに、智者の中の智者は「勇敢さ」を身にまとうようになるのです。
智者の中の智者となると、勇者の気質を備えてくるのです。
つまり、「勇敢さ」を身にまとった智者が「智者の中の智者」なのです。
《智者ではあるが「智者の中の智者」とは呼べない者とは?》
〈世界のすべてを現代の科学だけで説明しようとする者〉
前項で述べましたが、現代科学で証明できないことを否定する、という姿勢は科学者の姿勢でも、哲学者の姿勢でもありません。
探求心を失ったらそれはただの過去の知識を持つ人でしかありません。
なぜなら科学とは、未知なる事象への冒険でもあるからです。
結局、真実を赤裸々に追求しない人、摩訶不思議な現象を現代科学という限られた物差しでしか測れない人は思考停止状態にあるということです。
思考停止状態とは、科学的探究、真実の追求をストップしていることです。
もうこれでいいと学問的探究を諦めた瞬間に智者の中の智者に到る道は閉ざされるのです。
〈己の利益のための知識の収集、己の出世のための学問を修めている者〉
知識はなんのためにあるのか、知恵が存在する意義はどこにあるのか、ということを考えていくと、智者たる者があらわれてその恩恵を他者に与えることに意味があるのです。
ですから、他者に役立つ、他者のため、という観点が欠落し、ただ自慢するため、ただ己を着飾るため、ただ己を偉く見せるためであれば、それがどんなに優れた知識や学問であっても、智者の中の智者とは呼べないのです。
智者の中の智者とは、自分以外の人たちに恩恵を与えるものだからです。
〈神やあの世を否定する者〉
この世に生きる智者が最終の目的地とするもので、最大の課題が「神の存在」であり、「あの世の存在」です。
この領域の探求と興味を失った智者は、たんなるこの世的に賢い人という枠から一歩もでることはない者です。
ニュートンやアインシュタインには信仰心があり、彼らは神を信じていました。
エジソンは本気で「霊界通信機」を発明しようとしました。
このあまりにも膨大な世界、あまりにも広大な世界、あまりにも遠い世界、あまりにも証明が難しい世界への探求を放棄する者は智者の中の智者ではありません。
なぜならそこに知的冒険心を失っているからです。
智者の中の智者は、勇者としての資質をもって未知なる世界を明らかにするからです。
「神の存在」「あの世の存在」という領域こそ、智者が探求、解明する使命を帯びているものだからです。
それに挑戦する果敢さを発揮する者こそ「智者の中の智者」なのです。
【最後に】
ご意見番が勝手に、偉そうに語りやがってと思う方もいるでしょうが、ここに書かれていることは、ご意見番の信念であり、信条です。
他の意見や考えもあると思います。
なのでここに書かれたものが完全無欠だとは言えません。
さらにアチキは自分のことを少しも偉いなんて思ったことはありんせん。
事実、なんの権力もありんせん。
アチキに唯一あるものは、「ただただ真実を追求したい」「ただただ混沌とした世の中に正義を実現したい」という思いだけです。
最後までお読みいただき、ありがとうござりんした。