『三浦春馬さんの自殺報道はガイドライン違反! ~違反だらけのテレビ報道にもの申す!~』

まず、三浦春馬さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

三浦春馬さん“死去”のテレビ報道に大きな問題あり!

7月18日(土)午後、日本中に悲しいニュースが流れた。
俳優の三浦春馬さんが30歳の若さで亡くなった。

この悲しいニュースに、大きな疑問を投げかけた人物がいた。
上智大学教授の水島宏明氏だ。
水島氏は元日本テレビのディレクターをしていたことのある人物であり、テレビ業界に関わってきたテレビ業界の“通”の人物でもある。

アチキは、水島氏の記事を読んで、深く共感し、彼の主張がまったく的を射ていたので、彼の主張を支持するとともに、アチキ独自の見解を交えながら、テレビ報道の姿勢にもの申すことにした。

どうぞ、最後まで読んでおくんなんし!

《水島氏の主張》

水島氏は三浦春馬さんの自殺報道においてNHKと民放各社において極めて悪質な報道姿勢があると指摘した。

以下引用

「通常はテレビ報道に限らず、新聞でもテレビでも報道の取材現場は、『できるだけ詳しく伝える』ことで競合他社としのぎを削っている。たとえ小さな情報でも、他の社にはないディテールを自社のニュースに入れることができるかどうかで勝負している。ところが『自殺報道』に関してだけは、これをやってはいけないのだ」

要するに、水島氏の主張は、「自殺」に関しては、通常の報道の扱いとは違って、特別な配慮が必要であり、ガイドラインに沿って報道することが正しい報道機関の在り方だと言っているのだ。

報道機関として、なにが良くて何が悪いかを見ていこう。

なぜ“自殺”を詳しく報道してはいけないのか?

WHO(世界保健機構)が自殺報道についてメディアのガイドラインを作って、自殺報道に対する要請をしている。

ポイントは「自殺」の内容(情報)を詳しく伝えすぎると、「自殺を模倣する人が増えてしまうこと」ということに注意が必要なことだ。

そのガイドラインのひとつに、WHOの『メディア関係者に向けた自殺対策推進のための手引き』がある。
この手引きでは、メディア関係者が自殺関連報道をする際に「やるべきこと」と「やってはいけないこと」がまとめられています。

《自殺報道でやるべきこと》

「どこに支援を求めるかについて正しい情報を提供すること」

「自殺と自殺対策についての正しい情報を、自殺についての迷信を拡散しないようにしながら、人々への啓発を行うこと」

「日常生活のストレス要因または自殺念慮への対処法や支援を受ける方法について報道すること」

「有名人の自殺を報道する際には、特に注意すること」

「自殺により残された家族や友人にインタビューをする時は、慎重を期すること」

「メディア関係者自身が、自殺による影響を受ける可能性があることを認識すること」

《自殺報道でやってはいけないこと》

「自殺の報道記事を目立つように配置しないこと。また報道を過度に繰り返さないこと」

「自殺をセンセーショナルに表現する言葉、よくある普通のこととみなす言葉を使わないこと、自殺を前向きな問題解決策の一つであるかのように紹介しないこと」

「自殺に用いた手段について明確に表現しないこと」

「自殺が発生した現場や場所の詳細を伝えないこと」

「センセーショナルな見出しを使わないこと」

「写真、ビデオ映像、デジタルメディアへのリンクなどは用いないこと」

以上。

水島氏の主張では、TBSのニュース報道において、以下の2つの「やってはいけないこと」に抵触していると指摘している。

「自殺に用いた手段について明確に表現しないこと」
「自殺が発生した現場や場所の詳細を伝えないこと」

水島氏は、自殺報道ガイドラインに照らして「アウト」であり、ルール違反であると指摘している。

だが、アチキからすればこれ以外にも問題があると思っている。
ここで別の自殺報道について見てみよう。

藤圭子さんの自殺報道では・・・

2013年に歌手の藤圭子さんが自殺で亡くなった。
藤圭子さんの死は、自宅マンションからの飛び降り自殺だったが、このとき民放テレビ局のニュース番組では、どのようにしてマンションから飛び降りたのかをCG映像を使って再現しているものがあった。

テレビ各局は、このガイドラインの存在を当然知っている。
これは藤圭子さんへの侮辱であり、遺族に対して「報道という名を借りた精神的暴行」である。

自殺防止活動団体からの要請に対するテレビ局の対応は?

自殺防止活動を行なっている「いのち支える自殺対策推進センター(JSCP)」は、報道各社と全国のキー局の各情報番組、ソーシャルメディア各社に対して、WHOの『自殺報道ガイドライン』を踏まえた報道をするようにと書面で要請した。

水島氏によると、こうした自殺防止活動の団体から要請が行われているにも関わらず、要請に耳を傾けて報道姿勢を「改善」させたように見えるテレビ局や番組がある一方で、必ずしも耳を貸そうとしない番組もあると指摘している。

以上、水島氏の主張を見てきました。

ここからは、アチキの独自見解となります!

三浦春馬さん自殺報道の問題点とは?

〈三浦春馬さん自殺報道の問題点1〉

『自殺報道ガイドライン』「自殺に用いた手段について明確に表現しないこと」に明確に違反している。(水島氏の主張と同じ)

報道では、見出しで「首つり」を強調したり、ニュース原稿で「首をつって」と、どちらかの方法において「首つり自殺」を伝えている。

つまり、三浦春馬さんの自殺そのものを伝えるにあたって、「どういう方法で死亡したのか」が示されているのだ。

たしかに、人間の心理は「隠されたものを知りたがる」「知ってはいけないと言われれば知りたがる」というものがある。
そういう人間のマイナスの心理があることは間違いないだろう。
また、三浦春馬さんのファンや好意的に思っていた人などが、「どうして?」「なにがあったのか?」と疑問に思うのも人間として自然なことだろう。

だが、それに応えてはいけないのだ。

では、WHOがガイドラインでなぜ「自殺した方法(手段)を明確に伝えない」と定めているのか?
それは「自殺の模倣」「後追い自殺」への影響を極力無くすためである。
「自殺」ということ自体でショッキングなのだ。
そこへ自殺の手段が明確となると、「あ~そうやれば死ねるんだ」と手段を明確に描くことになる。
合わせて「有名人の自殺を報道する際には、特に注意すること」とある。
つまり、有名人であれば、自殺報道の影響が大きいということだ。
「死にたい」と考えているひとが、報道により自殺した人の自殺手段を知ることで、その方法を真似てしまう深層心理が働いてしまう。

要するに、「自殺の連鎖」を防ぐことが自殺報道の責任なのだ。

そして、アチキは思う。
自殺した人の名誉を守ることも大切なのだと。

「自殺した方法を明確に報道する」ということは、苦悩して死を選択してしまった人への冒瀆であり、侮辱でしかない。
それとも生きている人には人権はあるが、死んだら人権はないというのか?

弔いの気持ちがあれば、「自殺した手段を報道する」ということはないはずだ。
テレビ局には、死者への弔いの気持ちさえないのだ。

テレビ局にあるのは、ただショッキングなニュースを伝えることで、視聴者の関心を集めることなのだ。

〈三浦春馬さん自殺報道の問題点2〉

もう一つは、ガイドラインの「自殺が発生した現場や場所の詳細を伝えないこと」に明確に違反していることだ。

三浦春馬さんの自殺に関する報道では、自宅マンション内の部屋のどの場所で、どういう姿で発見されたのかを「字幕」「原稿」で伝えている。
それは自殺の方法や姿が目に浮かぶくらい詳細に伝えている。

これも、死者への冒瀆、侮辱である。
それと三浦春馬さんの家族の心を深く傷つける報道という名の暴力である。
さらに三浦春馬さんのファンの心をも傷つけることである。

〈三浦春馬さん自殺報道の問題点3〉

ここからは水島氏が指摘(強調)していないところでありんす。

「自殺の報道記事を目立つように配置しないこと。また報道を過度に繰り返さないこと」

「センセーショナルな見出しを使わないこと」

どうみてもテレビ局の三浦春馬さんの自殺報道は、センセーショナルに扱っている
そもそも芸能人とはいえ、一個人の自殺を「速報」として扱うこと自体がセンセーショナルに扱うことになる。
また、朝のワイドショー、昼のワイドショー、夕方のワイドショー、夜のニュース番組と一日中違う番組で自殺を伝えることは「報道を過度に繰り返す」ことになると、アチキは思う。

故人の名誉はどこにいった、そう言いたい。

テレビ局は視聴者が関心をもつことならば、それが悲劇だろうが、人の死だろうが、関係ないといわんばかりに扱って視聴率を上げようとする。
そこに「人の命の尊厳を守る」という発想がないのだ。

〈三浦春馬さん自殺報道の問題点4〉

「どこに支援を求めるかについて正しい情報を提供すること」

これは18日の当日はほとんど見られなかった。
2日目以降は、ガイドラインを気にしたのか、「自殺支援」について、付け足しのように報道していた。

これもアチキが見ていた限り、WHOの真意をしっかり認識しているということではなく、単にガイドラインを守らなければならないという杓子定規的な解釈で“ただやっている”だけにしか見えなかった。

テレビ局には大きく欠けているものがあるのだ。

〈三浦春馬さん自殺報道の問題点5〉

ここが一番重要なポイントだとご意見番は思うでありんす。

「自殺と自殺対策についての正しい情報を、自殺についての迷信を拡散しないようにしながら、人々への啓発を行うこと」

テレビ局が自殺防止の啓発をしていることを観たことがありますか?
あるのはワイドショーなどで自殺した人を「お悔やみ申し上げます」というくらいだろう。

「人々が自殺しないように啓発する」、これがまったくないのがテレビ局の自殺報道なのだ。

なぜか?
テレビ局というのは、組織体(法人)としての深層心理がある。
それは「悲劇を好む」という傾向だ。

事件、事故、災害、不倫、不祥事などは視聴者の関心を強く引き付ける要因となる。
だから、テレビ局はそうした不幸を取り扱うことで視聴者を引き付けようとする。
もっと言えば、人の不幸を商売のネタ(材料)としているのだ。
その証拠が啓発等をしていないことだ。

テレビ局に質問する。
不可能なことだが、もし、この世から不幸な出来事がなくなったら、テレビ局はなにを報道する?
どんな話題、どんなニュースを視聴者に伝えるのか?

この質問に答えられるか?

現実には地上世界から不幸を無くすことは不可能だが、可能、不可能という議論ではなく、「なにを伝えるべきか」「なにを報道の材料とするべきなのか」という議論をアチキは持ち出しているのだ。

テレビ局のネタのほとんどが人の不幸であることを反省し改める必要があると言っておく。
たとえ、事件、事故、不祥事を報道するとしても、それらを「無くすための姿勢と努力」「世の中から不幸を無くす啓発活動」を合わせて行う必要があるのだ。
テレビ局は、そうしたことを一切しない無責任な姿勢を貫いているということがアチキからすれば大問題だと言っておく。

【自殺報道でなにが一番大切なのか?】

ここではガイドラインにないことを含めてご意見番が見解を述べます。

自殺報道で一番大切なことはなにか?

「自殺すると人間はその後どうなるのか?」という人間の「生命」と「死」に関する真実を伝える義務が報道機関にある。

ということと、

「自殺しないような啓発活動を報道機関が進んで行い、またそうした活動を支援、紹介するべき」

ということが、自殺報道において最も大切であると、ご意見番は強く思う。

逆に「自殺報道」で絶対にやってはいけないのが、「自殺を肯定すること」と同時に「自殺した人への侮辱的扱い」である。

この二つはセットである。

「自殺した人への侮辱的扱い」とは、自殺した内容を詳しく伝えてしまうことであり、繰り返しニュースとして扱うことである。
自殺した人の死を悼む心、弔う心があってこその報道である。

アチキから言わせれば、ガイドラインなどなくても「人としての心」さえあれば、WHOのガイドラインを越えることはない。
人の死に対する正しい認識と倫理さえあれば、WHOから言われなくても済むはずだ。
だが、現実はWHOのガイドラインさえ守らずショッキングな出来事をセンセーショナルに報道している。

テレビ局は、「視聴率最優先」という名の「利益最優先主義」の商売をしているにしか過ぎないのだ。
しかも、それが政治家の首を斬ったり、選挙において多大な影響を駆使することができる権力を同時に持っているという厄介な存在なのだ。

ネット広告の普及で、テレビ局は広告収入が減っている。
そこへもってきて新型コロナウイルスの発生で、さらに広告収入が激減している。
噂ではフジテレビの経営は、すでに青色吐息だという。
広告収入を稼ぐために、あの手この手で必死になっていると思われる。

アチキはなにもテレビ局を潰そうとしているのではない。
正しい報道機関として、視聴者の幸福と平和な日常を生み出す存在としてあって欲しいと願っているのだ。

アチキは幼少期、家庭環境に恵まれず、独りぼっちでテレビばかり見て育った人間だ。
だから、テレビは大好きだ。
だからこそ、テレビ局が人の道を外していることに我慢がならないのだ。

話をもとに戻すと、自殺報道において大切なことは、

「自殺した手段、場所などを詳細に伝えない」
「過度な報道をしない」
「センセーショナルに扱わない」
「亡くなった人の名誉を守る」
「遺族の気持ちを傷つけない(配慮する)」
「自殺をこの世から減らすことに協力する(啓蒙活動)」
そのための「視聴者を不幸な気持ちから救う番組作り」

である。

報道機関として絶対的に必要なことが、「人としての倫理(良心)」である。
さらに「正義の心」も必要であると付け加えておく。

悲しみなどの不幸にスポットライトを当てるのではなく、喜びや善き出来事にスポットライトを当てることこそ、報道機関としての使命であると、アチキは固く信じている。

【テレビ局という報道機関のあるべき姿とは?】

《現状のテレビ報道》

現状のテレビ報道は、次から次に起こる不幸な出来事を“ただ伝えるだけ”である。
ある不幸な出来事が起きてそれを取り上げても、次に新しい悲劇が起きればそちらを報道する。
その繰り返しがテレビ報道の現状である。
不幸のダダ流しがテレビ報道の実態である。

《テレビ報道のあるべき姿》

テレビ局にないものは、責任である。

世の中に起きている不幸な出来事に対して、それを解決しようとか、なんとかして改善しようとか、そういった努力などない。
報道した不幸な出来事が、「その後どうなったのか?」という取材や報道についても無責任。
次から次へと不幸な出来事を繰り返し報道して「はい、終わり」というのがテレビ局の姿である。

もっと、社会の出来事に対して責任を持て!
報道した案件については、責任をもってその後どうなったのか、追跡取材追跡報道をせよ。
時間が足りないというならば、コメンテーターなど出演させないで彼らの発言の時間を報道の時間にあてよ!
コメンテーターの発言など、ネットが主流の時代には必要ない。
視聴者と番組が直接つながるほうがいい。

そして大切なことは、「公平」「公正」「平等」でなければならいはずのテレビ局が間違いや不祥事を起こしたら、それを率先して取り上げて視聴者への「謝罪」と「禊」をすることだ。
自分たちの姿勢の誤りや不祥事を知らんぷりしたり、隠蔽するようでは、人の命の問題を報道する資格はないといっておく。

最後までお読みいただき、ありがとうござりんした!


最新情報をチェックしよう!