『実名、顔出しでイジメと闘う佐藤和威さんにエールを送る!【後編1】 ~裁判の限界と裁判官に潜む問題とは?~』

まずは『【前編】【中編】』をお読みください。

佐藤和威さんのメッセージ

《佐藤和威さんのメッセージ》

控訴審の判決後の記者会見で和威さんが以下の発言をしている。

「僕自身、間違ったことをまったく言っていないし、嘘をついているわけでもないので、事実を認めてもらい、少しずつですが、前に進めたらいいと思っています。今回このような判決になりましたが、これから『佐藤和威を取り戻す』ためにも、こういった被害を少しでも減らすことにつなげるためにも、機会があれば、自分なりに声をあげていきたい」

佐藤和威さんの妹のメッセージ

《和威さんの妹のメッセージ》

家族(妹)として、兄和威さんを近くで見続けてきた妹も意見を表明している。

「イジメの被害について、“私はこうして乗り越えた”という表現はおかしいと思っています。イジメ被害にあった本人が“乗り越えるべきもの”でも、“打ち勝つもの”でもないと、兄を見て思います。体に受けた暴力、暴行の傷は時間の経過とともに消え、和らいでいくと思われますが、体の表面に見える暴力の跡は見えない痛みとして、体の中に染み込んで歪み、沈んでいくのだと感じました。時間をかけて、ようやくカサブタになっても、些細なきかっけですぐに剥がれ、大量の出血と痛みをともない、体に受けた暴行の傷と、心の傷はいつまで残り続けます。兄が法廷に立てるのは“回復して立てるようになった”わけではなく、自分のためだけではなく、声をあげられなかった当時の自分と、同じような立場の人のためになれたらとの思いからです。裁判に臨んだのはイジメを認めてほしかったからです。兄が今、生きているからこそできることです」

裁判の限界と裁判官に潜む問題とは?

《裁判の限界とは?》

裁判とは、法律に基づいて物事の善悪を判断するものであり、裁判官という“生身の人間”が最終的に判断するものであることをまず理解するべきである。

何が言いたいのかと言うと、裁判は「法律」という“モノサシ”忠実に従うものであるが、そこには「法律以前の問題」「法律外の論理(倫理)」を含まないことが多いということ。
もう一つは、裁判官の法解釈によって裁判の結果(判決)に違いが出る、ということ。
結局、裁判とは「完全無欠の善悪の最終決着ではない」、ということです。
しかし、この世において、法治国家においては、結審した結果に対して国民は従わねばならないということであり、同時に裁判官にはそれだけの責任が問われる、ということです。

《保護者の責任について》

法律的な問題に触れる。
法的には、小学校までは責任能力がないとされるが、中学生となると独立した法的責任を負うことになる。
なので、違法行為について親に責任を負わせるためには子供がイジメをしないよう監督しなかったということを被害者側が立証しなければならない、とされている。

「加害生徒の保護者に違法行為の責任を負わせるためには、被害者側が監督不行き届きを立証しなければならない」

これは不可能でしょう。
誰が他人の家庭の内、他人の教育を知り得るでしょうか?
こうした法システムは意味をなしません。
いったい誰のための法でしょうか?

これはあるべき姿が逆です。
子のしたこと(未成年の場合)は、保護者に責任があるとすることが、正しい親子の関係(教育のあり方)であるはずです。
ですから、子のしたことには無条件で保護者に責任が発生するとしなければなりません。
そうであってこそ、親が子に対して本気で「善悪を教えよう」「正しい人間に育てよう」「他人を傷つけない人にしよう」と教育に当たると言えるのです。

もう一度言います。
「子供がイジメをしないよう監督しなかったということを被害者側が立証しなければならない」という論理は、加害者を弁護するための詭弁でしかなく、そこに被害者救済の観点は欠落しています。

結論として、子がイジメをして他人を傷つけたり金銭を奪ったりした場合、「知らなかった」という論理は通じないとしなければなりません。
なぜなら、その論理が通用するならば、「イジメが撲滅されることは無い」からです。

《“苦痛”と感じるのは本人のみ》

一審の判決で「一定の苦痛を受けることを承諾していた」=「違法と評価することはできない」というのは問題である。

なにが問題なのか?
裁判とは加害者でも被害者でもない第三者(裁判官)が行うもので客観的判断によってなされるものであることは当然の前提であるが、暴力の被害にあって、「それが苦痛かどうかを判断できるのは本人のみぞ知る世界」である。
本人が苦痛と訴えているのならば、第一に「苦痛」と受け取るべきであり、その上で客観的な判断を加えるべきである。

裁判の問題とは、「本人のみぞ知る(苦痛)」を他者である裁判官が感じられるかどうかという点にある。
法的な解釈の合理性のみを求めた場合、感情の生き物である人間という理解を吹き飛ばしてしまうことだ。

《教育のプロ(教育者)としての責任とは?》

「しかるべき対策を講じていたにも関わらず、暴行やイジメなどによる被害が発生してしまった場合に、責任は発生しない」

これも一審の判断。

学校側が講じていた対策とは?
謝罪文を書かせた、一時期部活参加停止処分とした、別室登校として特別指導をした、和威さんへの支援会議を複数回したなど。

しかし、これらはイジメ防止対策でしょうか?
アチキには「ただの軽い処分」にしか思えません。(支援会議は除く)
ただの処分(罰)とイジメ防止対策は“似て非なり”です。

ここに潜む問題とは、「責任とは結果に対して」であるという認識です。
対策を取ったから責任はないという法解釈なのだろうが、アチキが考える判断は違う。
対策を取ったから責任はないという問題は「どんな対策を取ったのか?」「その対策がイジメ防止にどれだけ役立ったのか?」という論理が明確でなければならない。
そして重要なことは、責任は結果に対してでなければならないということ。
この場合の責任とは法的処分とは必ずしも一致しない。
それは「教師としての責任」という意味だ。
要するに教師としての責任があってもそれが法的処分とならないとうのが裁判の問題である。
この2つを分けて考える必要がある。
しかし、論じたように学校内(教育下にある生徒間)においてイジメが行われたならば、それに対して教育者としての責任は発生する。

例えれば、社員が勝手に食品の製造作業中に異物混入をして購入者に何らかの支障をきたしたならば、社長はその責任を取り、謝罪や賠償責任を負う。
学校内の出来事もそうであるべきだ。
それがなされない学校とは、治外法権が一部認められている特殊な世界となっていると言わざるを得ない。

《イジメを教師に申告しない理由は?》

一審(地裁)の判決では、和威さんがイジメについて担任ら学校側に申告していないことを挙げている。

これは問題の核心がズレている。

イジメを申告しなかったから学校側(教師)に責任がないのならば、主体的な教育を放棄していると言わざるを得ない。
教育とは、教師側から発されて、その影響が子供の成長を促すものである。
ならば、教師側(学校側)がどんな行動(対処や言動)をしたのかが、第一に問われなければならない。
それを問題視しない裁判には限界があると言わざるを得ない。

社会から隔絶して生きる裁判官には「イジメ被害を教師に訴える子供の心境」が理解できないらしい。
和威さんが述べているように、以下の理由に確信が持てない場合、子供(生徒)は教師にイジメ被害を報告、相談しないものだ。

「教師(学校)を信頼できると思える」
「教師(学校)に相談することでイジメが解決されると確信を持てる」

この2つがなければ、イジメ被害にあっている生徒が教師(学校側)に相談するはずがない。
なぜならば、教師に相談(報告)したことが加害生徒に知られ、それによってイジメ被害が増大するからだ。
それをイジメ被害者はよく理解している。
しかし、他人事としか感じていない教師や裁判官はそこをまったく理解していない。

イジメ被害者が教師(学校側)に申告、相談しない原因は被害生徒にあるのではなく、教師(学校側)にあるという認識が正しい教育の姿勢であり、ことの是非の判断である!

《人間心理を理解しない裁判官》

以下は一審の判断。

和威さんをエアガンで脅して自宅から現金を持ってこさせたこと、現金を持ってこなかったことを理由に暴行を加えたことについて、不法行為として認めた
しかし、商業施設に遊びに行ったときに同級生(加害生徒)に現金を渡していたことに対しては、和威さんが「自発的に交付した」などと判断し、不法行為とは認めなかった

この2つは同質の犯罪である。

裁判官に訊ねるが、ヤクザに絡まれて「ちょっと金貸してくれね~か」と言われて、恐怖のあまりお金を出した場合、「お金を貸す意思があった」と判断するのか?
社会常識のある人間であれば、「危害をおそれて嫌だけど渡した」となるのではないか?
それを「自発的な交付の意思があった」と言えるのか?
なぜ、商業施設に行ったときは「自発的に交付した」となるのか、アチキはトンと理解できかねる。
そもそも「交付」とはなんだ?
和威さんはお役所じゃね~んだ。
収入を得ていない中学生が進んで他者にお金を渡す、という行為に疑問を持たないならば、法の番人の裁判官としてより、それ以前の人間として判断ができていない、と言わざるを得ない。

法律とは、結局、国民の生活や人生を守るために存在するのだが、法律の専門家の裁判官は法律をいじくりまわす仕事しかしないことがあまりにも多い。
法律以前の「人としての道」を学ぶ必要がある。

《暴行は程度の問題なのか?》

神社で行われていた「サバイバルゲーム」についても、和威さんに当ったのは数発程度で、「中学1年生男子の間の悪ふざけ、いたずら、遊びの類い」と判断し、不法行為として認めていない

この問題もまったく理解に苦しむ。

裁判官に尋ねる。
電車の中で2人の男が女性のお尻を触った。
ひとりは、かすかにそっとお尻を撫でただけ。
もう一人はがっつりとお尻を何度も触った。
この2人の内、痴漢とされるのはどっちだ?
アチキは意図的であるならば、両者とも痴漢と判断する。

ここに潜む問題とは、「暴行を程度問題」としていることだ。

エアガンで撃たれたのが数発程度なら「遊び」「悪ふざけ」で済むのならば、ペロッとお尻を触るのも「遊び」「悪ふざけ」で終ってしまってもいいとなる。
「遊び」「悪ふざけ」という解釈は、裁判官の中に「ことを大きくしたくない」「ことを大きくするべきだはない」という深層心理が働いている。
それはなぜかというと「子供だからしょうがないじゃないか」という心理だ。
それは結局、加害者側の責任を回避させる手伝いをしていることに繋がっていく。

司法資格を持っていようとも、感情を持ち、個性を持つ一人の人間であると言う事は裁判官にも当てはまってしまうのだ。

エアガンで1発撃つのは暴行とは呼ばないが、10発撃ったら暴行と呼ぶ、などと言う法律でもあるのか?
では、何発撃ったら暴行になるのか?
裁判官はその法的根拠と法解釈の説明をするべきだ。

《“プロレスごっこ”と称する暴行》

「プロレスごっこ」については、「男子中学生がプロレスごっこなどの名称で格闘技を真似るなどして身体的接触を伴う遊びをすることは珍しくない」「身体的な接触行為により一定の苦痛を受けることを承諾していたといえる」などと判断し、不法行為として認定しなかった

これも裁判官の資質を問わねばならない判断となる。
「仲のいい友人同士でのプロレスごっこ」と「信頼関係のない間柄でのプロレス技をかける行為」は“似て非なり”である。
要は、裁判官がこの2つの区別がつかない判断力しかないと言っているようなもの。
また、一般論を個別の事情に無理やり当てはめているだけ、となる。
こうした出来事は、一般的な解釈でしてはいけない、前後の出来事、当事者の人間関係を考慮しなければ「遊び」なのか「イジメ」なのか判断できない。
その出来事だけを切り取っての判断は間違いの元でしかない。

ここに潜む問題とは、裁判官はそうした狭い価値判断は得意ではあるが、総合的なマネジメント的発想が苦手な人たちである、ということ。

《PTSDの認定の違い》

控訴審判決では、一審で認められたPTSDの発症を否定している
控訴審判決は「イジメ被害に遭ったことのみで外傷的出来事の基準を満たすと判断することはできない」としている。

その理由は、医師の報告書の記載で「和威さんがどんなイジメ行為を受けた事実があることを前提として診断したのか明らかではない」ということ。
しかし、それでも「イジメによって精神的苦痛を受け、精神症状を発症して通院を余儀なくされた」とは認めている。

これはまともな判断とは言えない。
矛盾でしかない。

「イジメによって精神的苦痛を受け、精神症状を発症して通院を余儀なくされた」
「イジメ被害に遭ったことのみで外傷的出来事の基準を満たすと判断することはできない」
この2つは相容れない。

裁判官の頭の中を疑うしかない。

そもそも「イジメ被害以外の何らかの理由によってPTSDを発症した」と裁判官が主張するならば、その理由を裁判官が示す必要がある。
そうでなければ、裁判官の判断には根拠がない、となるからだ。
つまり、裁判官のこの基準は「想像」の域を出ていない判断でしかないということ。
これは法の番人のすることではない。

「イジメによって通院を余儀なくされたとは言えない」という判断があり、その上で「イジメ被害だけでPTSDを発症したとは考えにくい」とするならば理解できるが、上記の2つは完全に矛盾でしかない。
あり得ない判断だ!

《裁判官(裁判所)に潜む問題とは?》

さらに裁判となると別の問題が絡んでくる。
それは裁判所(裁判官)と社会との認識のギャップである。
被害者及び弁護団と裁判官の間には常に溝があると思った方がよい。

被害者は被害の真実を訴え、弁護団は真実を明らかにすることで加害者への糾弾を求める。
しかし、裁判官は別の方向への視点を持っている。
それは「裁判所組織内における意向」だ。
裁判官はその担当裁判において単独の権限により単独の判断をしているように見えて、実は裁判所組織の内部慣習や意向に目を向けている
よって、現代の精神医学やイジメ論としては、実際の社会の理論として「遅れた発想」「ズレた判断」となりがちである。

また、裁判官は法律を机上の空論として学び、法知識はあるが豊富な社会経験を持たない人がほとんどである。
それは「実社会の実状を肌で感じられない」という欠点として表れる。
裁判官の多くは自ら法律違反をしないために、実直な生活を送っている人が多く、裁判所と自宅の往復の人生を歩んでいる人が多い。
(もちろんニュースなどの世間情報は積極的得てはいる)
だが、実社会の様子を肌で感じていないということは、社会で起きるさまざまな事象における人間感情が渦巻く出来事に、真の善悪の区別をつけることには支障をもたらす場合が多い。

結局、法知識の解釈次第となってしまう。
そこには裁判官によって法の解釈が違うとい現象が現れてくることになる。
事実、一審と控訴審では判決の内容に違いがある。
その違いは法の違いではなく、裁判官の解釈の違いなのである。
よって、どのような裁判官が裁判を担当するかで結末(結審)にも影響する、というのが裁判システムの問題点であることは間違いない。
それは裁判が完全なる善悪を提示できるものではないということを示している。

重要なことは「真面目な人がバカを見る社会」「悪いことをした人が罰せられない社会」「落ち度のない被害者が救済されない社会」は人間不信と社会不信を生み出す、ということだ。

時として、裁判所(裁判官)がそれに加担していることを裁判に係わる人は知るべきである。

《正しい処分(判決)とは?》

弁護団は、「拷問・恐喝行為」と位置付けて裁判を起こした

正しい法解釈は弁護団の主張する「拷問・恐喝・暴行」である。

証拠があっても保護されない被害者とはなにか?
被害や後遺症などが明確であるにもかかわらず、それを保障されない裁判とはなにか?
裁判とはなんのためにあるのか?
裁判官とは誰のためにあるのか?
正義とはなにか?
人権とはなにか?
教育とはなにか?

そうしたことがこの裁判(イジメ事件)に含まれている。

『【後編2】イジメ撲滅を阻害する要因(大人たち)とは?』につづく。

最後までお読みいただき、ありがとうござりんした!


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