『テレビの裏側と腐敗を生む構造!(前編) 【シリーズ・テレビ局の腐敗を糾弾する2】』

今回は、水島宏明氏の著書『内側から見たテレビ』と中川勇樹氏の著書『テレビ局の裏側』を主な材料として、ご意見番の見解を交えながら、テレビ局の裏側と構造、ヤラセや捏造が発生する原因を追求していきます。
水島宏明氏と中川勇樹氏に敬意を表しつつ記事を書き進めていきます。

【テレビ局とはなんなのか?】

近年のテレビ番組は、面白映像に飛びつき、そのニュースが本来持つ意味や重要性を認識していない傾向がある。
「本当に大事なニュース」がテレビでは報じられない傾向が広がっている。

これは、本来テレビ報道は、われわれの“知る権利”に応えるジャーナリズムの一翼としての機能が衰えていることを意味する。
それはなぜか?
このままでいいのか?

テレビ局の元ディレクターであった水島宏明氏は、こう指摘している。

「不祥事の背景には、テレビ局で働く人間の劣化が存在する」と。

《遺体搬送の映像の前で『祝杯』》

水島宏明氏の著書『内側から見たテレビ』には、こんな驚く内容があった。

北海道で断崖を掘り抜いた国道トンネルが崩落して、トンネル内を走っていた路線バスや乗用車などの車両が乗客ごと押しつぶされる事故が起きた。
断崖がさらに崩れる危険もあり、救出作業は難航する。
上部の巨大岩盤を爆破してから警察や消防が救助に入った。
全国ネットの特番が組まれ生放送される。
テレビ局では、記者もアナウンサーもスタッフも現地やスタジオから不眠不休で事故の様子を伝え続けた。
事故の最後は、20人全員が遺体で見つかったという情報だった。

このときテレビ局内で何か起きていたのか?
報道担当の上役が大量の缶ビールを抱えて現れ、フロアにいる全員に配った。
そしてこう言った。

「よくやった。おかげで視聴率は圧勝だ。おめでとう!乾杯だ!」

このときテレビモニターには、まだ犠牲者の遺体搬送の映像が続々と流れていた。

このとき水島氏は、命をうしなった人たちが多数存在する大事故に、なぜ「おめでとう」なのか、なぜ「乾杯」なのかと、大きな違和感と罪悪感を持ったと告白している。

トンネル事故によって突然命を奪われた人の悲しみと苦しみ、大切な遺族との明日があると信じていた家族(遺族)の悲しみや嘆きなど、所詮赤の他人のことだと言わんばかりに祝杯をあげる。
見ず知らずの他人の命さえ視聴率を取ることに利用する。

視聴率さえ取れれば、赤の他人の命など痛くも痒くもない

その姿は、ジャーナリズム失格であり、人間失格である。

このとき水島氏はこう思ったという。

「私たちの取材を受けた犠牲者の遺族らがこの場面を見たら、とても許さなかったろう。放送では相手に寄り添うふりをしつつ、本音の部分では内向きの論理で動く。そんな二面性を心に刻んだ」

これがテレビ局の裏側なのです。
そして、テレビ局の正体なのです。

《不幸を伝えることのジャーナリズム》

新しい切り口でないとニュースで取り上げにくい傾向がテレビ局にはある。
それはテレビ局の勝手な言い分であり、ご都合主義である。
真実を報道するジャーナリズムに反するものである。
テレビ局が「共感します」「寄り添います」と口にしながら、用事がすんだらそのことには見向きもしない。
そんな残酷な一面を持ち合わせている。

そもそも報道の仕事はテレビに限らず、他人の「不幸」の現場を撮影し、話を聞き、伝えることが多いもの。
だからこそ、その都度その都度相手とどう向き合うかが問われる。
大切なことは、その不幸な出来事を他人事とせず、わがこととして受け止め取材し、同じ人間として、苦しみや悲しみの底にある人たちの思いを共有すること。
人を不幸にした事件や出来事が世間から忘れられないように報道を続ける責任を自覚することである。

マスメディアの仕事に限らず、どんな職業でも、相手の立場にたって物事を考え、共感し寄り添う心は必要だ。

法律よりも、視聴率よりも、「人として大切なこと」がまず先になければいけない。
視聴率を最優先する思考は、「人としての心」をどこかに置き忘れたものでしかない。

【テレビ報道は本当に大切なことを伝えない】

《テレビは情報操作が当たり前》

新聞の一面トップのニュースは、世の中で起きている事象の「一番重要」と思われることから順番に並べるのが報道のセオリーである。
それはテレビにおいても同様である。

それによって忙しい視聴者(購読者)は、番組の冒頭だけを見て、その日に世の中で起きている重要な出来事をチェックすることができる。
ところが、そうしたセオリーをテレビ局は守らなくなった。
その理由は、視聴率を取るためである。
視聴率の数字が会社の収益に関わってくるからである。

日々流されているニュースは見ている私たち自身が読み取る能力を持っていないと、間違った方向に情報操作されてしまう。
情報操作というと、悪い奴と思うだろうが、そうした意図をはっきりと持ってしていなくとも情報操作される方向にテレビ報道が流されているのも事実である。
情報操作してやろうとはっきりとした意識がなくとも情報操作しているケースがあるということだ。

要するに、「インパクトあるものを放送しようとして演出を考えてニュース項目を取捨選択しているうちに、意識せずに結果として情報操作になっている」ことがあるのだ。

《間違った共感》

殺人事件など凶悪な事件が起きるたびに、容疑者の家族への悪意あるバッシングが強まる傾向がある。
殺人容疑者の肉親だという理由だけで「鬼親」などとネット上で誹謗中傷され、プライバシーを侵害され、職場を追われ、学校を追われ、地域を追われる人が出てくる。
東名高速あおり運転でもそうだったが、加害者の家族を探しだし、嫌がらせやプライバシーの暴露、脅迫などが行われる。
被害者に同情し寄り添う感情が行き過ぎてしまい、関係ない家族に怒りの矛先を向ける現象が起きてしまう。
そうした現象は実はネット上の一般人だけではなく、テレビ局自体がそうした体質を持っているのだ。

2008年6月に起きた秋葉原無差別殺傷事件では、加藤被告の実の弟が2014年になって自ら命を断っている。

こうした事件を報道する側は、容疑者の家族に関しては、その身元が特定されないように最大限の配慮をして取材、報道することが求められる。

2012年に千葉県浦安市のマンションで仙台市の看護師の女性が刺殺体で発見された事件が報道された。
このときに容疑者の実家の映像が放送されてしまった。
この報道の間違いは、「実家は殺害現場ではない」こと、「実家は、容疑者が潜伏し逮捕された現場でもない」ことだ。
なのに、「容疑者の実家」というだけで、報道されてしまった。
地元の人であれば、その家がどこの誰の家なのか分かってしまうような報道をしていた。

これは明らかにプライバシー侵害であり、第二の被害者を出すことに繋がってしまう恐れがある。
報道機関としては、「やってはいけないこと」なのだ。
しかし、殺人をした犯人を許せないという被害者サイドに立った間違った大義を抱き、報道機関としてのルールを破ってしまった。
被害者に寄り添うとは、そういうことではないはずだ。

そして、なにより加害者とその家族は別な人生を持つ別な存在として認識して報道する必要がある。
行き過ぎた「報道の自由」の行使がそこにある。
それは他人の幸福権を踏みにじる行為でしかない。

報道機関であるテレビ局が制裁を加えるようなことをしてはいけないのだ。
報復期間であるテレビ局は、裁判官とは違う。

記者やアナウンサーがすることは「断罪する」ことではなく、「事実を究明する」ことである。

もし、どうしても犯人を許せないなら、アチキのように個人のブログやSNSで個人の責任で発信するべきだ。

報道機関である記者やアナウンサーは、事実を究明した上で、同じような事件が再び起きないような手がかりはないか、社会に向かって提示していくことである。
テレビ局の人間が感情的になって、個人の感情をもとにして取材、放送、発言することは間違った共感なのだ。

《効率至上主義と成果主義》

報道機関として大切なことは、事件や事故、災害、社会問題などが起きている現場に足を運び、渦中の人間と向き合って、痛みを共感することだ。
だが、記者(テレビ)やディレクターが「足で取材する」という機会が少なくなっている。
系列の社員に委託する、または他の報道機関の伝聞情報に頼るなどの傾向が強くなっている。

その背景にあるものを水島氏が指摘している。

「その日のうちに放送するニュースにならない場合は、大事だと思うような出来事であってもわざわざ取材には赴かないという、効率至上主義と成果主義の職場環境と、正社員と非正規職員との格差もある」

プロセスよりも結果ばかりを重視する取材の現場、番組制作の問題が不祥事の背景にあるということだ。

【テレビ制作に潜む裏事情】

《不況により低予算が求められた結果》

経済の不況、ネット広告への広告収入の流出、などで民法テレビ局の番組制作費の原資は減少傾向にある。
番組制作の原資である企業の広告費が減ることによって番組制作の費用が減れば、下請けの制作会社や孫請けの制作会社は低予算でなおかつ視聴率を取れる番組作りが求められる。
当然予算を使わない番組企画となるが、それだけではや番組自体が視聴者の指示を得られる番組にならないことがある。

すると、制作会社はどうするか?
あと使える手は?
そう、演出という名のグレーゾーンに突入し、やがて「やらせ」「捏造」へと手を染めていく。
低予算でなおかつ視聴率を取れる番組を制作しないと、次に仕事をもらえないからだ。
こうしたことも「やらせ」「捏造」の背景となっている。

《テレビ番組の責任者は誰か?》

テレビ番組を制作する上でどの番組にも最低1人はいるのが「局P」と呼ばれるテレビ局の社員プロデューサーである。
局Pは番組制作の総責任者である。
制作会社を統括して番組のクオリティーのチェックを行う。
この局Pに最も求められる能力が危機管理能力だ。
内容に間違いはないか、人権への配慮などの取材編集が正当か、意見に偏りがないか、そしてスポンサーに配慮がなされているか、などを確認作業の責任を負う。

テレビ番組制作に携わるスタッフのうち、テレビ局の社員は10%に満たないと言われている。
この構造からすると、番組の制作が下請けの制作会社が行っていようとも、局Pに最終的に責任がある。

《テレビ業界の原則》

テレビ局に存在する複数のネタがあるときには「面白いものから先」という原則がある。
これを突き詰めていくと報道機関としての使命を放棄することになる。

ある程度の面白さを持つ番組作りは視聴者の娯楽として必要であるが、ニュースを扱う番組、ドキュメンタリー番組やリアリティー番組では「面白いものを最優先する」という思考があってはならない。

【民法放送とは?】

民法放送局は、株式会社という営利を求める組織であることは間違いないが、同時に報道機関としての機能も併せ持っている。
単純に視聴率最優先であってはならないのだ。
民法放送局には、営利団体以前に社会的責任と道義的責任があるのだ。

《テレビ局を動かす唯一の指標とは》

テレビ局において行動原理、理念の代わりを果たす唯一の指標がある。
それが「視聴率」なのだ。

ご意見番がテレビ局で働くすべての人間に問う!

「なんのための視聴者なのか?」
「誰のための視聴者なのか?」

そして伝える!

「視聴率の前に、人道上の倫理を大切にする必要がある」
「マスメディアとしての機能の前に、人間として大切なことを守る必要がある」

テレビ報道は、「公平」「公正」で、「中立」の立場を維持して、視聴者にとって必要であるかないかの観点から取材と放送をするべきである。
また、それを受け入れ指示することが視聴者の責任でもある。

テレビ局の役割りは、「嘘と捏造」がない番組、観てためになる情報番組、ストレス発散の面白さを持つ番組を制作することにある。
嘘や捏造は犯罪行為であることを、テレビ局と制作に関わる人たちは心得るべきである!

テレビ局にアチキが言いたいことは「少数」を黙殺しないで、少数の声や実情をもっと伝えるべきであるということだ。
それが報道機関としての使命である。

小さな声を伝えること、多様さを取材すること、それこそテレビ局が取り戻さねばならないことなのだ。

(後編)に続く。

最後までお読みくださり、ありがとうござりんす。


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