『「母親がいないと不幸」論争にもの申す! ~母親の愛とは?子どもの幸不幸とは?~【後編】』

まずは【前編】をご覧ください。

【「母親がいないと不幸」論争にご意見番がもの申す!】

《二人の論争をご意見番が勝手に判定する》

〈論争の最大の焦点〉

立川志らく氏と小林麻耶さんの論争の最大の論点は、

「母親がいないのは不幸」
という発言。

だが、立川志らく氏の発言を正確に把握しよう。

志らく氏は「不幸なこと」と言っているのだ。
「不幸」とは言っていないのだ。

これは大きすぎる違いである。
「不幸なこと」と「不幸」では意味が違う。

「母親がいないのは不幸」と言ってしまったら、母親がいない子どもの人生が不幸だという意味になる。
だが、「母親がいないのは不幸なこと」という表現であれば、母親がいない子どもが不幸な環境にあるという意味になる。
「不幸な環境=不幸」ではないのだ。

つまり、志らく氏は「母親がいないのは子どもにとっては、不幸な家庭環境」だと言ったのだ。
それを麻耶さんは屈解したのだ
この違いを小林麻耶さんは理解していないのだ。
それがこの論争に火をつけた原因となった。

問題は志らく氏の発言ではなく、小林麻耶さんの受け止め方、理解の仕方にあるのだ。

要するに、この論争の根本は、「麻耶さんの言語理解能力に起因している」ということ。

志らく氏はこう発言すれば良かったのだ。

「母親がいないのは不幸な家庭環境」

「不幸な家庭環境に生れても、立派に生きている人はたくさんいる。母親からの愛情がなくても父親などから愛情をそそがれて幸せに生きることは出来る。だからだいたひかるさんのお子さんも、もし、そうなったら幸せになって欲しい」

と。

志らく氏は、麻耶さんに反論されてこう追加のコメントをきちんと述べている。

母親がいない子がすべて不幸だという意味ではありません

それに対して麻耶さんは自身の「私はそういう考えは嫌いです」といった発言を訂正も謝罪もしていない。
なぜ麻耶さんはこの志らく氏の発言を受け止めない?

他人(志らく氏)を「嫌い(考えが)」と公共の電波で言っておきながら、訂正や反省もしないのは人としての過ちである!

〈ズレている2つの論点〉

論点のズレ1

「この話題は乳がん治療を中断し、不妊治療を再開するだいたひかるさんの問題」を扱ったもの。

志らく氏の発言は、だいたひかるさんの問題を真剣に考えたもの。
だが、麻耶さんの発言は、個人的な事情(体験)から発せられたもの。
あるいは、志らく氏の発言の一部だけを取り出して反論したもの。

その証拠が麻耶さん自身の言葉のなかにある。

「母親がいない人が不幸っていう言い方は、私は、私はですよ、個人的には嫌いです」

「私は、私はですよ」「個人的には」と繰り返し述べている。
つまり、麻耶さんの発言は、個人的事情に基づいているということ。
論点が明らかにズレているのだ。

だが、ご意見番は麻耶さんの考え方自体が間違っているとは思わない。
それでもだいたひかるさんの問題を話し合っている場では、そうしたことは間違いとなる。
話題はあくまでも「だいたひかるさんのこと」なのだ。

論点のズレ2

子供が生まれた後に亡くなられたのと、亡くなるのを覚悟でがん治療を中断して子供を産むのとでは、全然状況が違う」

志らく氏の発言は、亡くなるのを覚悟で出産し、その後子どもが母親のいない人生をあゆむことに対して発言している。
だが、それは麻央さんのように出産後に母親がいなくなった子供の事情とは似て非なりである。
似ているからといって同じように考えてしまうところに間違いがある。

両者の違いで一番大きなものは、「子どもがどう思うか」である。

二つの違いでは子どもに与える影響が違ってくる。
前者であれば、母親の愛情や思い出を胸に抱きながら、その後の人生を歩むことができる。
だが、後者であると、ほとんど母親のぬくもりや思い出も記憶になく、逆に自分のために母親が命を落としたと考えて自責の念をもって生きる可能性がある。
まったく事情が違うのだ。

〈論争は視点の違いからくるもの〉

今回の論争においては、『誰の視点で考えるのか』ということが非常に重要である。
こうした問題は結局「誰の視点」「誰の立場」で考えるのか、ということが非常に大切である。

「母親がいない子どもは不幸」なのか?という論争ならば、「子どもの気持ち」で考えなければならないはず。

志らく氏の発言は、子どもの気持ちを察していると感じる。
だが、麻耶さんの発言には「子どもの気持ち」が含まれていない。
あくまでも「大人の目線」なのだ。

その証拠も麻耶さんの発言のなかにある。

「母親がいなくても不幸だと思って欲しくないし、その分、周りの人が愛情を注げば良いと思うし、母親だけの愛情じゃない」

という発言だ。

この発言は「母親を亡くした子どもの周辺の大人の立場」に立つものである。
「不幸だと思って欲しくない」という気持ちは、子どもではなく母親のいない子どもを支える大人の気持ちである。

だが、周りの大人たちがいくら愛情を注いでも、その子がどう考えるかは本人しだいである。その観点が麻耶さんには欠落している。

この問題は、「誰の視点で」「誰の幸福」を考えるのか、ということが非常に大切なのだ。

一般的には、子どもにとって「母親」とは、世界中探してもたった一人しかいない存在なのだ。
その母親の身代わりになれる人はなかなかいないのが本当のことではないか?

〈麻耶さんのコメンテーターとしての資質に問題あり?〉

麻耶さんはギャラをもらって出演している」

これは世間の人たちが寄せたコメントで多くの指摘がある。
これは別のところで述べたからさらりと述べるが、麻耶さんは仕事としてコメンテーターの席に座っているのであるから、客観的な発言が求められている。
もちろん個人的な体験を話すことは“有り”である。

麻耶さんの「母親がいなくても子どもは周りの人たちから愛情を受けて幸せに生きられる」という主張はご意見番も世間の人たちも理解と納得をしている。

だが、だいたひかるさんの問題を扱う番組で、ギャラをもらうコメンテーターとしてその場にいるのならば、涙目になるほど感情的になるのは視聴者に嫌な感情を起こさせる。

もちろんそれに共感する人もいるだろう。
だが、その共感は麻耶さん個人の体験に共感するものであって、だいたひかるさんの問題に共感しているものではない。

結局、ご意見番も世間の人たちと同じ意見だ。
麻耶さんはコメンテーターには向いていない。
そのような仕事は請け負わないほうがいい。

〈小林麻耶さんの反応には女性特有の資質が関係している〉

女性の方には大変失礼になるかもしれませんが、あえて言わせてもらうと、小林麻耶さんの反応には女性特有の資質が関係している。

それは『女性は他の女性のことを言っているのに自分のことに置き換えて捉えてしまう傾向が強い』ということです。

だいたひかるさんの問題を扱っているのに、麻耶さんは自身の体験に置き換えて受け止めてしまっている。
その証拠が麻耶さんの涙目である。
麻耶さんはもっと客観的な考えを身につける必要があると感じる。

〈小林麻耶さんには固定観念(決めつけ)がある〉

麻耶さんには固定観念(決めつけ)がある

それは、「母親がいなくても周りの大人が愛情を注げば子どもは幸せになる」というものだ。

コメントで紹介したが、それでも「やっぱり母親がいて欲しかった」と思う子どもは多いものなのだ。

子どもによっては、周りの大人たちがいくら愛情を注いでも、母親を恋しがる気持ちを埋めることができないことがある。
麻耶さんの発言にはそうしたことを初めから排除する“決めつけ”があるのだ。
それは麻耶さんの「そうあって欲しい」という内心の願いからくるものであろうが、それはだいたひかるさんの問題とは分けて論じる必要がある。

要するに、麻耶さんの発言は、母親がいなくて辛い思いをしている子どもの気持ちを配慮していない。

人間とは摩訶不思議なものです。
結局、その子どもに聞かなくては答えがでないのです。
だったら、議論する意味はないじゃないか?

だからこそ、客観的に物事を考えて、「誰の立場」「誰の幸福」なのかをきちんと把握して議論する必要があるのです。

〈志らく氏の言葉を受け止めない小林麻耶さん〉

「純粋に今、子どもいたときは母親がいなくなったらどうするんだろうという気持ちで出た言葉で、母親がいない子がすべて不幸だという意味ではありません

麻耶さんは志らく氏が上記の発言をした後も、志らく氏の発言を受け止めた発言をしていない。

ここまで志らく氏が言ったのなら、本来は、麻耶さんが謝罪するべきものであるとご意見番は思う。

偏見と頑固は真実を曇らせる!

〈「不妊治療をしなさい」と責めないでください!〉

小林麻耶さんは、「『だいたさんは、不妊治療を命をかけてしたからあなたも不妊治療しなさい。だいたさんは命をかけてるのよ』という責め方をしないで欲しいなというのは、心から思います」と発言した。

誰もそんな意味のことは言っていないのではないか?
これは被害妄想というものでしかない。

〈論争の重要論点は?〉

この論争の重要論点は、何度も他のところででているが、この話題は「だいたひかるさんの問題を扱ったもの」ということだ。
そこから逸脱した論争こそ凶器となることを指摘しておく。

〈ご意見番による論争の判定〉

立川志らく氏が言った「母親がいないのは不幸なこと」というのは、だいたひかるさんのケースで言ったこと。
だが、小林麻耶さんは、妹さんと姪甥のことに当てはめて捉えている。
一般論として言っているだけであって全ての母のいない子へのメッセージではない。
生れた後に母親から受けられるであろう愛情を受けられないことは、かわいそうだなという意味での発言である。

立川志らく氏の発言はなにも間違っていない。
むしろ、出産だけして「後は幸せな人生歩んでねっ」では母親として無責任と言われてもしかたがない。

子育ては「産むこと」よりも「育てること」のほうがよほど苦労するし、重要なことでもある。
子どもの気持ちを考えれば「母さん、生きてください!」となるのだ。

もう一度言う。

立川志らく氏の発言は間違っていない。
麻耶さんの発言の内容も間違っていない。

だが、麻耶さんの発言はその場では相応しくない発言であることも間違いない。
その場、その話題に相応しくない発言をした、という意味で麻耶さんに過ちがある

《立川志らく氏へのメッセージ》

立川志らく氏は落語家でしょう?
落語家というものは「言葉」を商売の道具として仕事をしている人ですね。
であれば、どんな語彙を使うか、どんな表現をするか、どのように人に伝えるか、ということに普通の人以上に敏感でなければならない職業の人です。
世間の人たちが言っているように「言葉足りず」「表現不足」が今回の騒動の要因となっている。

ただ、まぁ~災難と言えば災難かな、と思うでありんす。
彼の主張は決して間違っていないからです。
落語家として今後「言葉の精進」を期待するでありんす!

《小林麻耶さんへのメッセージ(苦言)》

小林麻耶さんはフリーのアナウンサーということなのでそれを前提にご意見番が誠に勝手ながらアドバイスをするでござりんす。

フリーであろうと、局アナであろうと、アナウンサーなど公共の電波で放送されるテレビ出演をするならば、職業人として必要なことがあります。
それは「プロ意識」です。

「グッとラック!」出演は、アナウンサーとしてではなく、コメンテーターとしての出演だと思いますが、フリーアナウンサーという立場で仕事をもらうなら、個人的な体験に基づく感情的な発言はプロの仕事ではありません。

小林麻耶さんの出来事をニュースとして扱ったものに対して個人的な感情をぶつけるなら分かりますが、他人(だいだひかるさんのニュース)の話題であるならば、客観的な視点でものを言うことがプロの仕事です。

個人的な感情をグッと抑えて、話題の本質を見抜き、自分の考えを出来るだけ客観的な立場から発言することです。
それがテレビ出演におけるプロの仕事です。

なお、ご意見番は小林麻耶さんの個人的な悲しい出来事を否定するものではありません。

ただ、「すぐ感情的になって泣きますよね」「麻耶さんはいつも言葉じりをとらえて話す」などと視聴者に指摘されるようではコメンテーターには不向きです。

《だいたひかるさんへのメッセージ》

産むことだけが目的でしょうか?

母親になるということは、出産後、20年以上に渡っての子育てが待っています。
自分をこの世に誕生させるために母親が命を落としたという悲しみを与えることが母親の愛情なのでしょうか?(もしもの場合です)

誰のための出産ですか?
夫?
自分のため?

大好きな夫の子を残したいという気持ちを誰も否定できませんが、それは妻として女性としての思いです。
母としての思いではないのでは?
(子どもを持つ母親の方には、分かってもらえると思います)
それもありですが、それだけでいいのでしょうか?

アチキには妻としての愛、女性としての愛を欲しているとしか思えません。
子どもをまだ出産していなければ、本当の母の気持ちが理解できないのも無理はないですが、母親の愛とは「子どもの為なら辛いことでも耐え、生きて育てる」ではないでしょうか?

誰の幸せのためですか?
深く考えて欲しいものです。

【論争より怖い発言】

番組内での志らく氏と麻耶さんの論争後に、もっと怖いものを知りました。
それはこの件に関して麻耶さんが後日発言していることです。

「どうしても言わなくてはならないことだった」と志らく氏の発言に反論したことを正当化していることです。

以下引用

「番組での発言へのご感想ありがとうございます。どうしても言わなくてはならないことだったので勇気を持ち、覚悟を決めて言いました。コメントを頂き、同じ想いの方に伝わったこと、心から嬉しく思います」

「あの場で黙っていたり、そんなつもりで言ってるわけではないですよねと、何も言わない選択するのは、いとも簡単なことです。しかし、人生において、どうしても声を上げて言わなければならない時があります。私にはそれが昨日の放送でした」

「そんなつもりでなくても傷つく人はいる。嫌な気持ちになる人もいる。ですから、伝わる人に伝わったこと、同じ想いを持った方の代弁が出来たこと、本当に良かったです」

アチキはこの麻耶さんの発言を聞いて怖くなりました。
麻耶さんの発言の内容自体はアチキも理解しますが、何度も言っているように志らく氏の発言は間違っていません。
むしろ「あの場で」の発言では麻耶さんの方に過ちがあります。

麻耶さんに伝えますよ、よく聞いてくださいね。

《ご意見番からのメッセージ》

「麻耶さんがそんなつもりでなくても傷ついた人はいる。嫌な気持ちになった人がいる」

「麻耶さんの発言によって、母親がいなくて苦しんでいる人の存在が否定された」

つまり、志らく氏と視聴者が麻耶さんの感情的な発言によって嫌な思いをし、母親がいなくて悲しみ苦しんでいる子どもたちが自分たちの存在を否定されて心を痛めた。

そのことを知って、理解するべきです。

アチキもどうしても言わなくてはいけないから言っています。
あしからず!

【情報操作するマスコミにもの申す!】

今回の論争ニュースでご意見番が世間の人たちが誰もコメントしていないことをここに取り上げる。
それは・・・?

マスコミが発するニュース情報では、「立川志らく氏を悪者扱いする言葉で表現されている」ということだ。

逆に、小林麻耶さんを悲劇のヒロインのように擁護するような記事となっているものがほとんどである。
(ご意見番はこの騒動の記事をほとんど読んだ)

だが、このニュースに寄せられた世間の人たちのコメントなどを見る限り、小林麻耶さんへの批判的な意見の方が圧倒的に多い

同時にアチキの見解も志らく氏の発言は間違っていないと判定した。
なのに、なぜニュースとしては立川志らく氏を悪者として扱っているのか?

主要なニュースサイトのタイトルを見ていこう。

『ウーマンエキサイト』
母親がいない子どもは不幸?立川志らくの発言が物議「最低だわ」

『YAHOO!ニュース』
麻耶 志らくの「母親がいないのは不幸」発言に涙で反論「私はそうは思わない」

『東京中日スポーツ』
「小林麻耶“母親がいないと不幸”発言に涙目で反論『個人的に嫌いです…母親だけの愛だけじゃない』志らく自戒」

など。

これは、明らかにマスコミによる情報操作である。
印象操作である!

マスコミの手法は、「片方を悪者にし、もう片方に一方的をえこひいきして扱う」である。

被害者と思われる人に落ち度があっても、それはスルーして、加害者として扱われている人の罪の糾弾だけを大げさに扱う。
それがマスコミ(特にテレビ)の手法である。

ネット全盛時代にいつまでそんな手法をやっているのか。
いい加減にそうした旧時代の手法で世間の注目を集めようとすることは止めなさい。
マスコミの責任は「公平」「平等」な扱いをすることである。

世間のみなさん、決してマスゴミに踊らされないようにご注意ください!

【母の愛とは?子供の気持ちとは?】

《母の愛とは?》

「母の愛は海よりも深し」という言葉があります。

母親の愛情は十月十日自らの体内で子どもをはぐくみ、苦痛の末に世に出す。
成人するまで「人としての道を教え」「愛情をもって育てる」。
その両方が母としての役割であり、責任であると思います。

もちろん、不慮の事故、病気などで子育てができなくなることは人類共通の出来事としてあります。
その場合は、麻耶さんが言っているように周りの大人たちが愛情を与えてその子が不幸に思わないように育てることです。

ですが、初めから命を落とすリスクを承知で出産することは、誰のためでしょうか?
私には心底子どもの幸福を願ってとは思えません。

結局、だいたひかるさんの愛は夫への愛であり、子を持ちたいという女性としての愛であるのです。
まだ子どもを持っていないから親の愛が分からないのもしかたがありませんが、「この子のためなら死ねない」と思うのが母親の愛ではないでしょうか?
きっと、実際に子育てをしている人、子育てをした人には理解してもらえる気持ちだと信じています。

だいたひかるさんの話題は、「子どもへの愛」で考えるべきです。

「全世界の人を敵に回してでも我が子を守る」
「子どものためならドブ掃除をしてでも生きていく」
それが多くの人類に共通する母親の気持ちではないでしょうか。

《子どもの気持ちとは?》

子どもの気持ちを考えると、明らかに母親がいてくれた方がいいに決まっています。
なぜなら、たとえ母親の代わりに愛情をそそいでくれる人がいたとしても、実母は世界中をさがしてもたった一人しかいないからです。
子どもの気持ちは実母をいつまでもどこまでも慕うものです。

それをだいたひかるさんと麻耶さんはどう受け止めているのでしょうか?
事故や病気で母親が亡くなったのと、自分を産むために治療を止めて命を失ったのでは、子どもの気持ちがまるで違います。
そうした議論がなかったことが非常に残念です。

【なぜご意見番がこの論争にこだわるのか?】

今回の記事は自分でもやけに力が入っているな~と思うでありんす。
なぜ?

それはアチキが母子家庭で育った子どもだからです。
母親はいましたが、商売をしていて毎日忙しく働いていたので母親のぬくもりをほとんど感じたことがないからです。

子ども心に、子どものために一生懸命に働いていることは理解していました。
ですが、いま思い出してみても、母親とのスキンシップや思い出がほとんどありません。

そして大好きだった父親にあえない寂しさを抱えて育ちました。
父親がいなくて不幸とは思ったことはありませんが、やはり両親そろった家庭の子が羨ましく思えました。
父親に逢いたいという気持ちを我慢しながら生き、父親との思い出を作ることができなかったことは非常に残念に思っています。
父親と母親の違いはありますが、片親のいない子どもの気持ちはよく理解しているつもりです。

やっぱり子どもにとっては両親そろっているほうが幸せです。
バカな親でも、ろくでもない親でも、それでも子どもは親へ愛情を持つものです。

最後に、アチキのように片親家庭で育った子、または両親から愛情をそそがれずに施設などで育った人に伝えたい。

「人は悲しみを味わうことで優しくなれます。あなたが悲しんだ分だけあなたは人の傷みがわかります。だからあなたが誰かに愛を与えてください。そのときあなたは幸せな気持ちに包まれるでしょう」

最後までお読みくださり、ありがとうござりんした。


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