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『ネット上の誹謗中傷者が弁護士に相談&誹謗中傷に反撃する芸能人たち』

何が批判で、何が誹謗中傷なのか?
判断がつかずに悩んでいる人がいるようなので、今回はそうしたネット上に投稿する際の判断に悩んでいる人のために「ネット活動における指針」をお送りします。

「意見」と「悪口」の違いとは?

結論を先に述べます。

意見は「注意すること」「考えを述べること」であり、
悪口は「他人への攻撃」です。

意見は「個人的な感想」「個人的な考え」を示すものです。
個人的ですから、そこにあまり客観性のない場合が多いです。
個人の性格からくる好き嫌い、個人特有の人生観から来る考え、個人の感情に基づく気持ち、これらが「意見」の正体です。

あくまでも主観を主体とするものです。
ですからそこには良いものも悪いものもあります。
悪いものとは、間違った意見という意味です。
なかには的外れの意見があるということです。

個人的な好き嫌いからくる発言で相手への配慮がないものは意見ではなく「悪口」となります。
あくまでも個人の主観から出るものであり、そこに他者を傷つける意図はない、それが意見です。
「バカ」「くそ」「アホ」「のろま」「ブス」などはどう見ても悪口でしょう。
上記のように単語が発言の主役となるのが悪口です。
この場合の主役は当然悪役という意味です。

別の言い方をすると、ある程度建設的な意味を含んでいるのが「意見」であり、建設的な意味を含まないものが悪口です。

この「意見」は人間社会に絶対的に必要で、また人間社会の根本にかかわることなので、無くすことはできません。
無くす必要はありません。
個人的な感想、つまり「私はこう思う」ということは社会に許容されるべきです。
特に相手を馬騰するものでない個人的感想や意見は人間の芸術性や社会性、アイディアの源ですから、認められるべきです。
ネット上でも現実世界でも「意見」が言えない社会は、人権無視の社会です。

じゃあ、「消えろ」とか「ムカつく」とか個人の感想を言ってもいいのか?
となりますね?

それが「悪口」です。
感想であっても他人を傷つけるものは「悪口」です。
意見は大抵の場合、人を傷つけません。
(もちろん厳しい意見は対象者のプライドを傷つけることになるかもしれませんが、それが正論であればその人にとって役立つものとなります)

ですが、意見には基本的に悪意はないのです。
あくまでも個人の考えや心で思ったことを口にすることです。
あくまでも他人を傷つける感情を持っている発言ではないということです。

ですから、そこに「悪意」はないのです。
しかし、悪口は他人を傷つける行動です。
悪口は相手を傷つけようと発せられるものです。
意見には、そうした相手を傷つけようとする明確な動機はありません。
他人へ怒り、妬み、恨みなどの感情から相手を傷つけようとする意図が含まれているのが悪口です。

意見をすべて排除してしまうと新しいアイディアが生まれなくなります。
意見をネット上に限らず社会から排除してしまうと、社会は停滞、衰退していきます。
ですから意見は必要なものです。
ですが、悪口は悪意を持って他人を攻撃することなので罪になります。

仏教の戒律に「不悪口(ふあっく)」という戒めがあります。
これは文字通り悪口を言ってはいけない、ということです。
悪口を言ってはいけないというのは仏陀が示した人類の守るべき幸福の方法なのです。
なぜなら悪口を言われた人は傷つき嫌な思いをする。
同時に悪口を言った人の心も汚れて品性が落ちていくからです。

「意見」と「悪口」はまったく別ものです。

「批判」と「誹謗中傷」の違いとは?

結論を先に述べます。

批判は「叱ること」「教え導くこと」であり、
誹謗中傷は「憎悪をぶつけること」です。

一番難しくて世間の人が困惑しているのが「批判」のところでしょう。
それは実は批判にも「正しい批判」と「正しくない批判」があるからです。
世間で許されるのは正しい批判です。
正しい批判とは、ある事柄やある人がしたことに対して、その間違いを指摘して正しさを取り戻させることです。
ですから、それには純粋な理性と冴えた知性が必要となります。

正しくない批判とは、「批判という名を借りた悪口または誹謗中傷」です。
批判という仮面をかぶった他者への攻撃です。
それはなにが正しいのか分かっていないのに相手を批判することです。
あるいは正しさの基準そのものが間違っているのに他者を攻撃することです。
それは批判を装った間違ったものです。

正しい批判はあくまでもその発言や行動の過ちを指摘して正しい道へと誘うことです。
決して人格を攻撃するものではありません。
例えれば、親や教師が子どもを躾けることです。
「やっていいこと」と「やってはいけないこと」を明確にして成長を促すこと、それと同じなのが正しき批判です。

一方、誹謗中傷は発言する人に明確な強い悪意があります
明らかにはっきりとしたマイナス感情を持って発言しています。
そのマイナス感情とは「妬み」「恨み」「嫌悪(嫌いだ~という気持ち)」「怒り」などです。
そうした個人的なマイナス感情を言葉の暴力として吐き出しているのが誹謗中傷であり、そこには積極的に相手を傷つける意図、相手を貶める目的があります。

注意しなければならないのは怒りです。
怒りには「私憤」「公憤」があります。
個人的な嫌悪の感情からくる怒りは私憤であり、これが良くないものです。
ですが、社会正義を守るために公憤は必要不可欠なものです。
怒りに関してはこの二つを分けなければなりません。

具体的に言うと、木村花さんに対してぶつけた(罵倒した)怒りは私憤で悪いもの、木村花さんに誹謗中傷した人たちへ抗議の声を上げた人の怒りが公憤です。
(ただし、言葉の使い方と礼節は必要ですが)

具体的な言葉で言うと、「死ね」「消えろ」「出てくるな」「顔も見たくない」「辞めろ」などは批判ではなく誹謗中傷です。
人権侵害です。
これらは対面で言った場合、修羅場となる言葉ばかりです。
ですがネット上だと誰が発言しているか分からないからと思って言ってしまうのです。

批判は、「相手の発言や行動の修正を求めるもの」であり、
誹謗中傷は、「相手の人格や容姿を否定、または攻撃するもの」です。

批判は倫理性を持つ正しい方向を示すものであり、誹謗中傷は相手を傷つけることを目的とするものです。
正しき批判は善意から出るものであり、正義感から発生するものです。
ですが、誹謗中傷は言葉という刃物を使った犯罪です。
他者を善なる方向や正しき言動に導くことが批判であり、他者をイジメることで自分のマイナス感情を発散させるものが誹謗中傷です。

誹謗中傷した人の中にも「俺は(私は)正義感から発言したんだ」という方がいるでしょう。
それが正義かどうかは、受け止めた人がその発言を聞いて、あるいはその発言通りにして良くなったか、成長したかどうかを見れば分かります。
または、その発言を聞いて「ありがたい」「なるほど」と思ったのか「辛い」「悲しい」「苦しい」と精神的に傷ついたかを相手に聞けば分かります。
相手がその発言で成長しないなら正しい批判とは呼べません。
簡単に言うと、相手が傷つく発言は正義ではありません
正義のヒーローは弱いものイジメはしないからです。

誹謗中傷は、なんの生産性も持たないものです。
言われた側がなんの得にも教訓にもならないのが誹謗中傷です。

それと事実でない情報にもとづく発言は「正しい批判」とは呼べません。
つまり、事実にもとづかず嘘をついて相手を批判することは「正しい批判」ではなく「誹謗中傷」です。
嘘をつくことそのものが相手を騙す行為です。
嘘が入った時点で、すでに「正しさ」を失っています。

ですから、

嘘による発言は誹謗中傷となります。

また、悪意はなくても間違ったフェイク情報によって発言し、相手を傷つけた場合は誹謗中傷した、と見られてもしかたがありません。
事実にもとづく発言か、嘘をついているかは、重要な判断基準です。

悪質なのは批判を装った誹謗中傷です。
一見すると批判のようだが、実は個人的な感情にもとづき他者を貶めようとすること。
つまり、言葉の暴力です。
誹謗中傷をする人間を許してはいけません。
それは人の物を盗むことや誰かを怪我させることを許さないことと同じです。

「意見」と「批判」の違いとは?

意見と批判は違うのか?
これははっきりと分けることはとても難しいです。

なぜなら重なっている部分があるからです。

ですが、意見と批判を分ける考えはあります。
意見は主観を主体とするものだと述べましたが、ある考えが知性や理性をともなって客観的なものの見方となると、それが批判となります
つまり、原因と結果の連鎖を見抜き、なにが間違いでなにが正しいのか、ということが明確に現れてくるのが批判(正しき批判)です。

「意見は主観的であり、あまり明確な論理性を持たないが、批判は客観的知性が生み出す明確な論理を持っている」

ということです。

ですから、Twitterなどで意見なら多くの人が言うことができます。
ですが、Twitterなどで発言する人たちのなかには論文を書くことが出来ない人も多くいます。
なぜならそこに明確な論理が存在しないからです。

なにがどうして、どうなった、という原因と結果の連鎖を明確に見抜かないと長い文書を書いたり、講演をしたりすることは出来ないからです。
でも、一言なら誰でも発言できます。
それが「意見」と「批判」の違いです。

「悪口」と「誹謗中傷」の違いとは?

悪口と誹謗中傷の違いも、明確に分けることが困難です。
あえて分けるとするならば、

悪意(悪気)が薄いものが悪口であり、
悪意(悪気)の強いものが誹謗中傷と呼べるでしょう。

共通しているのは他者への悪意であり、他者を傷つけたり、他者から何かを奪おうとすることです。
悪意(悪気)の濃淡が悪口と誹謗中傷の違いです。

また、悪口は「つい言ってしまうもの」ですが、誹謗中傷は「積極的に言っているもの」です。
自分のマイナス感情をつい露呈してしまうのが悪口で、明らかに憎しみや恨み、怒りを相手にぶつけるのが誹謗中傷であるとも言えます。

個人の責任と全体主義について

いま騒がれているネット上での誹謗中傷などを見ていて思うことは、個人の責任と全体の責任を混同しているということです。

ネット上で誹謗中傷があるからネット上の発言を制限しようという動きがあります。
それは他人を傷つける誹謗中傷の発言をすることを抑止するためのものでなければいけません。
それが誹謗中傷をしていない人たちの自由な発言や楽しみを規制するものであってはいけません。

要するに、他人を傷つける誹謗中傷した人とネット全体を分けて考えることが必要だということです。

ネットだから誹謗中傷してもいいと考えて他人を傷つける人に対しては、その悪いことをしている人を個別に罰する、個別に対処すればいいのです。

例えば、誹謗中傷してきた人の個人情報を誹謗中傷された人だけに開示させるようにするとか、誹謗中傷した人にだけシステム的にペナルティを与えるとかです。
悪いことをしたことを個別に対応(処罰)すればいいだけのことです。

ネットを使って他人を誹謗中傷する人がいるからと言って、まったく関係のない多くの人の楽しみや自由を奪ってはいけないのです。
誹謗中傷など関係なく言論の範囲内で自由な発言をしている人まで規制、制限するようなことをすることはいけません。
一応言っておきます。

「言論の自由」の発生理由とは?

「言論の自由」の根本理由からすれば、日本社会において完全に守られているとは言えません。
それは日本社会が「言論の自由」の発生理由に無理解だからです。
「言論の自由」が発生した理由は、「信教の自由」から出たものだからです。
歴史的に「言論の自由」は「信仰告白の自由」から発生したものなのです。

つまり、「私はイエスキリストを信じています」「私はアラーの神を信じています」「私は仏教徒です」という信仰告白をしても、そのことで迫害にあったり、社会的に差別されたり、不利益な扱いをされない、ということから言論の自由が発生しているのです。
そうした不当な扱いをされずに信仰を主張できるために「言論の自由」は生まれたのです。

ですが、現代の日本社会において宗教はタブーとされ、信仰告白すること自体が難しくなっています。
これは厳密な意味で「言論の自由」は日本社会にて守られていないということです。
神を信じていると告白すると「あのひと大丈夫?」と見られたり、「そういうことは他人にいうものではない」と言われたりしてしまいます。
ですが、この信仰告白の自由を守るために言論の自由が発生してきた、というのが歴史的な事実なのです。

こうしたことを真に理解しなくては、日本社会において本当の意味での言論の自由が守られることはありません。

言論の自由の先には人間の幸福があるのです。
自由は、幸福を生み出すものです。

ですから、

他人を不幸にするものは言論の自由とは言いません
言論の自由とは、幸福を実現するためのものです。

もうひとつの言論に関する問題

どこかの週刊誌のように嘘をついたり、調べもしていない適当な作り話を面白おかしく書いて発信することが言論の自由ではないのです。なんでもかんでも好き勝手に発言することが言論の自由ではないのです。

NHKを除く民放のテレビ局も言論の自由を守っているとは言えません。
(NHKは別な問題がある)
報道姿勢に明らかな偏りがあり、編集によって放送局に都合のいいような番組作りを行っています。

テレビ局の一番の問題は「不幸」を商売のネタにしていることです。

また、誤まった情報にもとづき放送しても、簡単な謝罪しかしません。
(最近、「ひるおび」「バイキング」などで誤った情報が発信された)
芸能人が不祥事を起こせば、ハイエナが獲物に群がるようにしつこく質問攻めにするくせに、自分たちメディア側が情報操作しても間違った情報にもとづき放送しても、謝罪会見を開くことがないのはどうしてでしょうか?
謝罪さえしないことも多いのはなぜでしょうか?

本来、メディアの代表選手であるテレビ局や雑誌は言論の自由のお手本的存在でなければいけません。
そうでなければ多くの人に情報を与える、ということが世の中を濁すことになってしまいます。

個人のアカウントで他人を誹謗中傷する人も問題ですが、実はメディアの代表選手であるテレビと雑誌にも大きな問題が存在しているのです。

言論の自由と人権を同時に守るためには

身もふたもないことをいいます。
批判は止められないと思います。
批判は人間が住む世界からなくなりません
それはネット上だけではなく、人間が存在する限り必ず批判はでるものだからです。

ですが、誹謗中傷は犯罪行為です。
誹謗中傷は止めなければなりません。

〈人権と言論の自由を共存させるには〉

人間が幸福に生きる権利と言論の自由を同時に守るには、「悪口」と「誹謗中傷」を失くし、「正しい意見」「正当な批判」を許す必要があります。

「言論の自由」と「人間が幸福になるための人権」は深く結びついています。

ですから、なにが悪くて何が許されない発言なのか、という社会全体で知恵の共有が必要となります。

もし、批判というものを完全に悪として社会から排除してしまうと、それは言論の自由が失われた、ナチスか北朝鮮のような不自由で人権を踏みにじられた世界となってしまいます。

批判の声を抹殺することは、独裁社会への道のりでしかありません。
言論統制が全体主義、独裁国家の特徴です。

ネット上で他人を誹謗中傷する人を規制する法律をいくら作っても限界があります。
だからこそ、ネットを利用する善意ある人たちが声をあげて、他人を誹謗中傷する人たちと議論するべきなのです。
それこそ民主主義と呼べるものです。
それが言論の自由を維持しながら、多くの人の人権を守り、幸福な社会を作ることになるのです。

善意を広げるためにはネット上の批判を完全否定してはいけないのです。
批判の完全否定は善意ある発言をも消してしまうからです。

批判なくして社会は正せません。
社会を正すには批判(議論)が必要なのです。
批判とは問題提起であり、社会正義でもあるのです。

なんでもかんでも批判をすべて排除すると、「正しいことを正しい」と言えなくなるのです。
そして社会から正義が消えていきます。
それは結局、人権を守れないことに繋がるのです。

人権を守るために批判を失くす、という発想は全体主義発想です。
正しい批判と悪質な批判を見分ける知恵を持ち、社会が人としての倫理観と正義感を持ちながら批判を建設的な使い方とすることで社会は発展するのです。

ネット上から完全に批判を排除することは、例えて言えば、商売(ビジネス)における客のクレームを禁止することと同義です。
完全な商売やビジネスはありません。
どこかに客の不満、システムの不備、ニーズを満たしていない点などがあります。
そうしたことを客がクレームとして出すことで、商売する方は自身では気がつかなかった改善点、ビジネスのヒントを得ることが出来ます。
それとネット上の批判も同じです。

ネット(SNS)だけ特別な世界ではないのです。
どうも、ネットの世界は現実世界とは違うという間違った価値観で動いている人がいるようです。
そうした人が理由もなく他人を誹謗中傷するのです。

正しい批判は社会を改善させ、過てる人を反省させます
批判を十把ひとからげにしてはいけません。

正しい批判と悪意ある批判(誹謗中傷)を知恵によって見分けることが大切なのです。

〈根本的な解決策〉

誹謗中傷を失くす根本的解決策は、

「人の心に倫理観を持たせること」

です。

倫理観がない人が誹謗中傷するからです。
倫理観の教育をし、倫理観を社会に広げることで誹謗中傷は必ず減ってきます。
そのために必要なのが宗教観です。
あるいは哲学です。
人類の叡智です。
人としての良心です。
道徳レベルでは解決はできません。

しかし、古い宗教では現代のネット社会を正すことは難しい。
現代社会に提言できる宗教こそ、こうしたネット上の誹謗中傷の根源を正す力を持っています。

日本は戦後、宗教を排除してきました。
そのツケがいまネット上に表れているという一面があるのです。

ネット文化が増々成長する今こそ、人としての倫理観を強く求める必要があるのです。

お読みいただき、うれしうござんす!