- 1 イジメ認識の難しさ
- 2 イジメの考察
- 2.1 《イジメは犯罪》
- 2.2 《イジメを拒否できない心理とは?》
- 2.3 《変転する鳥栖市の主張》
- 2.4 《イジメの問題は結果責任とするべき》
- 2.5 《イジメの現場にいなければ責任がない?》
- 2.6 《苦痛を受けることを喜んで承諾する人間はいない》
- 2.7 《責任を回避する傾向性が教育者たちにある現実》
- 2.8 《裁判の結果は社会に大きく影響する》
- 2.9 《学校とは生徒に善悪を教える責任があることを肝に銘じよ》
- 2.10 《イジメ以外にPTSDを発症する理由はなにか?》
- 2.11 《子供の成長の責任は第一に親にあり》
- 2.12 《イジメをする人間に共通する要素とは?》
- 2.13 《イジメの定義では?》
- 2.14 《何のために顔出し、実名で裁判をしているのか?》
- 3 イジメ撲滅のために必要なこととは?
- 4 関連記事リンク先
イジメ認識の難しさ
《イジメ認定の難しさ》
イジメ認定の難しさは確かにある。
イジメは目撃者のいないところで行われる卑怯な行為だからだ。
仮に目撃者がいたとしても、その集団内の人間関係を知らなければ、イジメなのか遊びなのかを判断することは容易ではない。
そうした意味で、行為を分断して見てしまうことはイジメ認定の誤らせる危険がある。
裁判では、被害生徒が「仲良しグループ」の一人の場合、集団的、継続的なイジメなどを受けているのか、認知が難しいと主張した。
しかし、それを見分ける手立てはある。
被害者に聞くのが一番良いが、和威さんのケースのように教師に不信感を持つ生徒は本当のことを言わない。
もちろん加害者側に聞いてみても「嘘」しか言わない。
よくても自己弁護しか言わない。
よって、被害者でもなく加害者でもないと思われるクラスメイトや同級生などに聞き取り調査をすればたいていの場合判明する。
よくアンケート調査が行われるが、イジメが発生したと疑われた時点ではアンケート調査では不十分であり、聞き取り調査(内密の)が必要となる。
問題は、そうしたイジメの疑いがあるときに積極的な行動を教師がしないことにある。
イジメ問題の最深部とは、「イジメ問題に深く関わろうとしない教師」の問題である。
イジメの考察
和威さんへのイジメを考察していく。
《イジメは犯罪》
後ろからエアガンで撃つ。
「プロレスごっこ」と称して暴力を振るう。
これは「暴行罪」。
様ざまな屁理屈をつけて金銭を要求する。
これは「恐喝罪」。
要するに「イジメ」という言葉を使ってはいけないのだ。
未成年だから「イジメ」と呼ぶことによって、犯罪行為がなにか軽いイタズラ程度に引き下げられてしまうのだ。
鳥栖市側が当初、認めていたように和威さんのケースは「犯罪行為」でしかない。
であるから、この出来事を「遊び」とか「イタズラ」などという概念を持ちだすべきではなく、きちんと犯罪行為として法律に照らし、同時に人間としてのあり方として判断するべきである。
《イジメを拒否できない心理とは?》
なぜ、和威さんはイジメ(暴力や金銭の要求)を拒否出来なかったのか?
と大人は思うかもしれない。
しかし、経済的に独立し、社会経験もある年齢では分からない感覚がこの年代には確かに存在する。
中学生の年代の生徒にとっては学校の人間関係が巨大な網のようにその人を包んで離さない。
逃れられない世界と映っている。
その感覚なしには、イジメの本質に迫ることはできない。
大人の世界で説明すれば、「洗脳」ということに非常に近い。
中国のように独裁主義国家において、共産党政府への批判は身の危険を示す。
そうした環境において自分の身を守るためには「中国共産党政府」に恭順の意を示すことで身の安泰を図る。
人間には自己防衛の本能があるからだ。
イジメの被害者と加害者の間にもそうした人間心理が働いている。
イジメ加害者は「恐怖」によって被害者を支配する構図がある。
この構図を前提にしないイジメ論争は無用のものでしかない。
イジメ被害者が単独の力で抜け出すのは至難の業でしかないのだ。
第三者の力が必要なのだ。
なぜならば、ほとんどのイジメの構図が加害者側=大人数であり、被害者側=1人というケースがほとんどだからだ。
子供どうしの人間関係が強く大きく影響する年代に、同じ学校などに通う大人数からイジメを受けた場合、自力で解決することは不可能に近いということを大人たちは知るべきである。
《変転する鳥栖市の主張》
鳥栖市は、それまで和威さんへの加害行為(イジメ行為)があったこと自体は認めている。
2013年3月に当時の教育長は記者会見で以下の発言をしている。
「本件はイジメではなく、犯罪である」
ここに行政の悪質性が見て取れる。
イジメを撲滅する妨げとなっているのが、実はこうした行政の姿勢であり、それを容認してしまう裁判所や教育関係者たちである。
「本件はイジメではなく、犯罪である」と言ったのは、ことの重大さに気がついたからだろうが、次第に役人特有の責任を取らない体質が責任逃れの方向に走らせたのだ。
公の場において「本件はイジメではなく、犯罪である」と発言しておいて、その責任を取らないように根回しをするならば、それに対する説明を同じく公の場においてするべきである。
行政側の無責任が結局はイジメ加害者を庇い、イジメ事件を援護射撃していることに行政に携わる人間は知るべきである。
あなたがたはイジメを減らしたいのか、それともイジメを増長させたいのか?
行政側の態度がイジメに大きく影響することを知るべきである。
《イジメの問題は結果責任とするべき》
「しかるべき対策を講じていたにも関わらず、暴行やイジメなどによる被害が発生してしまった場合に、責任は発生しない」
これは【後編1】ですでに論じているが、再度論じる。
多くの学校では、「放課後にゲームセンターに入ってはいけない」などの学校外及び学業時間外の行動に対して校則で生徒を縛る。
その一方で、夏休みや校外で起きたイジメには責任がないと主張する。
ならば、校門を一歩出た生徒への校則などすべて廃止するべきだろう。
教師は都合の良いように生徒を監視するが、そのもう一方で責任を取ろうとしない。
「しかるべき対策を講じていたにも関わらず」というならば、その対策にどれだけの効果があったのか証明するべきである。
実際は、結果をみれば明らかであろう。
イジメを最終的に防止できなかった対策などイジメ被害者からすれば、「何の意味もない」となる。
イジメの問題は教師の立場を守るという発想をどれだけ捨てられるかどうかの問題である。
イジメ被害者の立場にいかに近くなるか、と言う問題である。
その観点からすれば保護者から大切な家族(子供)を預かっている学校(教師)には、イジメから守るという結果責任が発生する。
プロセスも大切だが、イジメの問題は「結果責任」である。
それが教育のプロとしての職業の人間のあるべき姿である。
《イジメの現場にいなければ責任がない?》
加害生徒の一人がカッターナイフを持ちだした行為について、市側は担任がいない場面であったとして責任を認めていない。
企業経営について「会社のポストが赤いのも社長の責任」と豪語したのは数千社の企業経営者を指導した昭和の名コンサルタント一倉定氏(いちくらさだむ)であるが、学校内において発生したいかなる出来事もすべて校長(学校)の責任である、と認識することが学校経営の肝である。
それに連帯責任を持つ者が個々の教師たちである。
民間企業においても部下が勝手にやったミスは上司の監督不行き届きとして責任を追求される。
同じ論理がなぜ学校には存在しないのか、理解に苦しむ。
《苦痛を受けることを喜んで承諾する人間はいない》
「一定の苦痛を受けることを承諾していた」などとして「違法と評価することはできない」と結論づけた。
この問題も【後編1】で論じているが、再度論じる。
すでに論じた論点なので多くは語らないが、誰が好き好んで「苦痛を受けることを承諾」するのだろうか?
こんな簡単な論理が裁判官や教師には分からないのだろうか?
もはや世も末である。
再度言う。
「苦痛と感じるかどうかの最重要判断は本人にある」ということだ。
それを第三者の判断が優先されるならば、そこに人権は存在しない。
裁判官がそれを理解していないことが、イジメの増長につながっていることを知るべきである。
仮にも法の番人であれば、行われた暴行(プロレス技)がどの程度の傷みを生み出すのか判断できるようでなくては、裁判官として役に立たない。
《責任を回避する傾向性が教育者たちにある現実》
「胸ぐらをつかまれて壁に押し付けられていたのを担任は目撃している」にも関わらず、担任は「喧嘩両成敗」としてお互い謝罪させた。
この件については後日「このようなこと(喧嘩両成敗)をして申し訳ない」と謝罪している。
(家庭訪問時に)
この教師は「喧嘩」と「イジメ」の区別がつかない判断力しか持っていないようだ。
また、後日謝罪をしているのだから、それはイジメを止められなかった、逆にイジメを増長させた責任があるということになる。
こうした責任を取らない学校側と鳥栖市こそがイジメ増長の「ワル」と言うしかない。
イジメ防止対策を講じていた、というのならば、加害者とどんなやり取りをしたのか、加害者にどんな指示(教育)をしたのか、それを明らかにしなければなりません。
ただの処分(罰)とイジメ防止対策は“似て非なり”です。
「しかるべき対策を講じていた」と言えるならば、加害者側へイジメを止めるように説得、教育、指導したという内容を示さなければなりません。
さんざんイジメを止めるように警告した、指導したにもかかわらず、加害生徒がイジメを継続していたときにはじめて「しかるべき対策を講じていたので責任はない」となるのです。
示されている情報からは、アチキには、教師たちが本気でイジメを防止しようとしていたとは思えません。
《裁判の結果は社会に大きく影響する》
「安全配慮義務を怠ったと認められることにはならず、本件で認められる事実を考慮し、本件の全証拠を検討しても、市教育委員会が義務に違反したと認めることは出来ない」
こうした判断を裁判官が下して(裁判にて認められて)しまうから、社会からイジメが無くならないのだと、裁判官たちは知るべきである。
裁判とは、その事件を単に裁くのみならず、その後の社会への影響を作り出すものであることを強く意識する必要がある。
《学校とは生徒に善悪を教える責任があることを肝に銘じよ》
学校側の論理はこうだ。
プロレス技をかけられていることを目撃したが、それは苦痛を感じる程度ではなかった。
給食中に注意したではないか。
つまり、担任が和威さんが苦痛を感じるような行為を見ている状況を現認していない、だからイジメそのものを認識していないので、防止義務が無く責任も負わない。
なぜ、本人に「苦痛か?」と尋ねてから判断しないのか?
なぜ、当人ではない第三者(教師)が「苦痛ではない」と判断できるのか?
その根本が欠落していることは、教師が「面倒なことは避けたい」「これ以上仕事を増やしたくない」「イジメと認めるとやっかいだ」という心理が働いていることは間違いない。
《イジメ以外にPTSDを発症する理由はなにか?》
「イジメ被害に遭ったことのみで外傷的出来事の基準を満たすと判断することはできない」
まず、和威さんがPTSDを発症し、日常生活に支障をきたしていることは事実である。
しかも、和威さんは重度の解離症状。
いまだにフラッシュバックが起き、それを回避するために自分が自分でなくなっていく。
その間の記憶も飛んでしまう。
和威さんの場合、トラウマに関する権威ある医師2人に診断してもらい、国際的に認められた検査をして、間違いなく重度のPTSDであると意見書をもらっている。
カッターナイフの刃を出したまま振り下ろし、腕にあたる直前で止める。
和威さんに向けてノコギリを振り回す(授業中)。
和威さんの手の指を手首につくくらい曲げる。
三角定規で和威さんの首と背中の間を擦る。
顔面に殺虫剤をかける。
歩いている和威さんに自転車をぶつける。
この年代においてPTSDを発症する理由として、イジメの事実があったならば、それがPTSDの理由であり、たとえ他の要因があったとしてもイジメがPTSDの最大の理由と考える事が正しい判断である。
《子供の成長の責任は第一に親にあり》
一審でも控訴審でも保護者の責任は認められなかった。
その理由が、
「加害生徒が家庭内で暴力的な態度を見せることはなかった」
「素行に問題があると認識することができたとは言えない」
「中学校から両親に対して注意や連絡があったとは認められない」
つまり、「加害生徒の問題行動を認識することが不可能だった」、よって「監督義務を怠ったと認めることが出来ない」ということ。
しかし、子の成長に責任を負わない親の存在とはいったい何か?
親は24時間子供を監視しているわけではない。
物理的に不可能だ。
ならば、未成年の子供のしたことに親に責任がないというのか?
結局、「子の成長の最終責任は親にあり」である。
親は未熟な子供にものごとの善悪を教える責任がある。
自由という名の放置主義、個性を重んじるという名の無秩序教育が善悪を判断できない人間を作り出してく。
善悪の区別がつかない子供を育てた責任は親にあり!
《イジメをする人間に共通する要素とは?》
イジメと一口に言っても様々なケースがある。
一口にイジメで片付けられるものではない。
物事は因果関係があるので、何事も「出来事の始まり」を見ることが重要となる。
それが第一原因であり、第一から第二、第三の問題が発生することが多いからだ。
時にはイジメ被害にあった側にも落ち度がある場合も稀にはある。
しかし、ほとんどのケースではイジメは加害者側の不当な理由によってなされる。
和威さんのケースでみると、イジメが発生した出来事が重要なカギを握る。
「中学校入学前のある日、和威さんは加害者Aが3~4歳の女児にエアガンを向けて撃っていたことを見つけて注意した。このとき加害者Aは『いい格好しやがって』と和威さんに言った」
ここに和威さんのイジメ問題の答えがある。
正義感の強い和威さんの姿とそれと対比する「弱いものを痛めつける加害者Aの姿」および「悪いことを指摘されても反省することも止めることもしない悪質性」である。
このイジメのきっかけの法則が、この一連の出来事を象徴し、貫いている。
イジメをする人間に共通する要素がある。
それは「悪いことをしても悪いとは思わない」ということと「悪いことを指摘されても反省しない」ということ。
反省して改めるのではなく、「自己弁護」「自己防衛」に励む傾向がある。
しかも「詭弁を弄して」であるから、たちが悪い。
そのような人間には断固処罰あるのみである!
《イジメの定義では?》
2012年当時の文部科学省が調査で用いていた「イジメ」の定義によっている。
「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない」
文部科学省の「イジメ」の定義によれば「起こった場所は学校の内外を問わない」のだから、夏休みだろうと教師の意ない場所であろうと、教育者に何らかの責任が発生するとみるべきである。
公務員は公務員を庇う。
官僚は官僚を庇う。
などの法則が裁判官と行政側の関係においてなされているというのが本当のことだと思っている。
《何のために顔出し、実名で裁判をしているのか?》
「この裁判を通じて、イジメで苦しむ子が少しでも減るような世の中になることを心から願っています」
和威さんのこの主張はイジメを受けている子どもたち、過去にイジメ受けて苦しんだ人たちへ勇気を与えるものである。
結局、イジメを他人事と受け取る大人たちの意識がイジメ撲滅を阻害していることを気づくべきである。
イジメ撲滅のために必要なこととは?
「一審と同じように、“こういう被害行為にあった子どもは、死んだほうがいい”と言われているようなもの。このような判決だと、当時の自分を含め、同じような被害にあっている子というのは救われることはない」
イジメを撲滅するためにどうしても必要な要素がここにある。
この和威さんの言葉を大人たちがどれだけ真剣に、自分のことのように、受け止められるかにかかっている。
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