『差別について考える! ~いま日本にとって一番危険な差別とは~』

【差別はなくなるのか?】

世の中には、差別がはびこっています。
差別に苦しむ人もいれば、他人を差別することで自分たちの優位性を誇る人もいます。
実に悲しいことでありんす。

「人種差別」「民族差別」「地域差別」「男女差別」、そして最近発生したのが「コロナ差別」
さまざまな差別が世界には溢れています。

一般的に「差別」は良くないことと思われています。
今回は、ご意見番が考える「差別」についてお伝えします。

【コロナ差別について考える】

新型コロナウイルスに感染した人を差別する「コロナ差別」
これは差別というよりも、「嫌悪」「イジメ」「村八分」と言ったほうが良いのではないかと思います。

新型コロナウイルスに感染した人で自ら望んで感染した人はいません。
不注意な人はいます。
石田純一氏などがそうでしょう。

新型コロナウイルスは、いつ、だれが感染するのか、わからない感染症です。
誰も新型コロナウイルスに感染したくて感染したわけではないのです。
なのに、いかにもバイ菌扱いされ、心無い言葉をかけられたり、無視されたりする。
傷つきます。

これはエイズ患者への偏見に似ています。
新型コロナウイルスに感染した人が近くにいるだけで感染するわけではないのに、その人をバイキンウイルスのように扱うことは、いかに自己防衛といえども、その言動が人の心を傷つけていることを知るべきです。

医療従事者をコロナ差別する人は、自分が病気になったときに医者や看護師たちのお世話になれるのでしょうか?
医療従事者をコロナ扱いして、治療して欲しいと言えるのでしょうか?

また、多くの人の生活を支える物流を担うドライバーに対して、コロナ差別している人は、どうどうと買い物に行けるのでしょうか?
物流を担う人、スーパーなどで働く人がいてこそ買い物ができるのです。

医療従事者や物流を担う人たちを、「コロナ差別」することは、自分の生活を否定することになることにどうして気がつかないのでしょうか?

そこにあるのは「異常な自己防衛」であり、「傲慢さ」です。

医療従事者や物流の仕事をする人たちをコロナ差別する人は、病気になっても病院に行かず、自給自足の生活をしてほしいものです。

だったら、アチキもコロナ差別する人たちに文句は言いません。
好きにしてください!

ですが、気がついて欲しいです。
人の世とは、お互いが支え合って成り立っていることを。
コロナ差別とは、差別というよりは、嫌悪の感情からくる「イジメ」です。

【人種差別について考える】

この問題を一つの記事の一つの項目で語り尽くすことは不可能です。
人種差別は、差別の代表選手であり、地球規模の問題であり、長い歴史を持つ差別だからです。

アメリカ・ミネソタ州ミネアポリスで悲劇は起きました。
白人の警察官が、武器を持たない黒人男性(ジョージ・フロイドさん)を取り押さえて地面にうつぶせにさせ、膝で首を押さえつけ死亡させました。
その動画は全世界に公開され、ジョージさんが「息ができない」と必死に叫ぶ痛々しい姿が国境を越えて衝撃を与えました。

その警官は、翌日逮捕・起訴され、第3級殺人罪とされました。
ですが、第3級殺人罪には多くの人たちは納得しないでしょう。
なぜなら、第3級殺人罪とは、「殺害の意図がないまま、不道徳な考えから人命を無視し、著しく危険な行為で他人を死亡させた」場合に適用される罪状なのです。(ミネソタ州法)

膝で動脈が通っている首を押させつける行為に「殺害の意図がない」と言えるでしょうか?
ジョージさんは「息ができない」と叫んでいたのです。
悪意があるとしか言いようがありません。

そこには、白人警官による、黒人への「偏見」「見下しの心」「侮辱」「嫌悪」「憎悪」といった感情があるようにしか見えません。
つまり、白人による黒人への差別の意識があったとみていいでしょう。

この黒人差別は、アメリカ合衆国をはじめとする白人国家のダークな部分なのです。

アメリカ合衆国という国家は白人(主にイギリスからの移民)が移住して立てた国家です。
そこへ労働力としてアフリカから黒人を強制的に連れてきたのが、アメリカの人種差別の始まりです。
リンカーン大統領の時代に、南北戦争が起きたのもこの黒人問題が原因です。
黒人差別の問題は、偉大な大統領であるリンカーンでも、キング牧師でも完全に解決できない深くて大きな問題なのです。

アチキは、黒人の人でも仲良くなれます。
黒人の人に偏見はありんせん。
というか、肌の色の違いで、人間を判断しません。
アチキの判断の基準は、その人の思考であり、その人の心にあります。

白人による黒人と黄色人種に対する人種差別的な考えこそが前世紀に起きた植民地支配の根源なのです。
ナチスによるユダヤ人迫害や白人国家によるアフリカやアジアの国々への植民地支配の根底には、白人優位主義があるのです。
つまり、白人は黒人や黄色人種よりも優れているという差別思想です。

白人優位の差別思想は太平洋戦争でも悲劇を生みました。
イエローモンキーは白人に比べて劣った人種だから、原爆を落としてもいいだろう、という思考が白人指導者たちの根底にあったのです。
だから、同じ白人国家のドイツには原爆を使用せず、黄色人種である日本には原爆を使ったのです。

アチキは、はっきり言います。
「白人優位主義は間違いである」と。

白人国家に広がるキリスト教の開祖イエスキリストは、白人ではありません。
どちらかというと肌の黒い人種(ユダヤ人)です。
仏教の開祖釈尊はインド人で、肌の色は褐色と言われています。
もう一つの世界宗教のイスラム教を開いたマホメットも、白人ではありません。
世界の3大宗教の開祖が白人ではない事実を、白人優位思想を持つ人は、いったいどう思っているのでしょうか?

現代の科学で言われている人類発祥の地とされているのは、アフリカです。
だとするならば、黒人は人類の先祖的人種に当たるのではないでしょうか?

産業革命以来白人国家が繁栄を見せたという理由で、白人が他の人種よりも優れた人種であるというならば、近視眼的な思考(思想)でしかないと考えます。
黒人や黄色人種などに比べて白人が人種的に優れているなどと、何を以って主張しているのか理解できません。

経済を主導しているから?
強大な軍事力を持っているから?
多くの哲学者や思想家、文学者を輩出したから?
科学技術が進んでいるから?
それが人種的に優位である証拠でしょうか?

それは人間の外側を見ただけで、人間の中身を見ていないものだと思うのです。
人間にもし優劣があるとするならば、科学技術でも軍事力でも、ましてや経済力でもなく、イエスキリストや釈尊のように「愛」や「慈悲」をどれだけ備えているか、ということが基準であるべきです。

人間にとって一番大切な基準は「愛の心」「慈悲の心境」だと、アチキは思うのです。

助けを求めるジョージさんの悲痛な叫び声を無視し、命を奪う白人警官のどこに「愛」や「慈悲」があるのでしょうか?

【いま一番危険な差別思想とは?】

日本のみなさんにいま一番考えてもらいたい差別思想があります。

日本という国家、日本人にとって脅威となる差別思想が隣国に存在します
それは「中華思想」です

中華思想には、「大中華思想」と「小中華思想」があります。
「大中華思想」とは、中国を世界の中心とする思想で、「小中華思想」とは中国を宗主国とする朝鮮半島の国家が持つ思想です。
朝鮮半島の歴史は中国文化への憧れと追従の歴史でもあるのです。

「中華思想」とは、漢民族(主に)が支配する中国の中心地(中原)を世界の中心とし、周辺の国家、民族は中華帝国より劣るとする思想です。
つまり、世界の中心である高い文化を持つ中華以外の地域は野蛮な人たちが住むという思想です。

それを現わす言葉が「四夷(しい)」です。
四夷とは、「北テキ、東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、南蛮」です。
(「テキ」が変換できませんでした)

これは中華の四方に居住し、中華王朝に帰順しない周辺民族を蔑んで使われた言葉です。
四夷という言葉は皆、文明を持たない劣った人たち(民族)であり、野蛮な国家であるという意味を持っています。
ちなみに日本は東夷に当たります。

中国の長い歴史の中で中華思想が失われたことはないのです。
この中華思想にある中華以外の民族は劣った民族、国家だから支配してもいい、というのが現在の中国という国家にも脈々と受け継がれています。

現在の中国の正式名称は、「中華人民共和国」です。
ちゃんと「中華」という言葉が入っているのです。

世界の中心が中国で、中国人が世界で一番優れた人種だと信じているから、平気でチベットやウイグルを侵略し、武力で支配できるのです。

つまり、中華思想とは、武力による他国侵略の裏付けを与える思想なのです。

中国を支配している現政治家たちは、中華思想を教えてやった日本など中国の下僕としか思っていないのです。
(中国の問題でも、為政者と市民とは分けて考える必要がある)

中華思想は危険です。
中華思想という民族差別思想こそ、周辺諸国への侵略の思想的根源なのです。

【差別のない世界は実現するか?】

《差別はなぜ起きるのか?》

差別は人類の歴史とともにあり、現代もあり、未来にもあると思われます。

差別がなぜ起きるかと言えば、そこに個性(違い)があるからです。
そして“個性こそ自由の発露”なのです。
人間には自由が与えられています。
自由の発露こそ個性なのです。

すこし難しい言い方になってしまいましたが、簡単な話にすると、科学技術の違い、国家体制の違い、言語の違い、習慣の違いなどは民族としての個性です。
さらに一個人として、顔の違い、家庭環境の違い、学力の違い、身体能力の違い、など才能や容姿などに個性があります。
個性の違いが「差別」を生むことに繋がります

ですが、個人の違い、国家の違いを完全になくすことはできません。
つまり、差別を無くすには、全人類が「同じ顔」「同じ容姿」「同じ家庭環境」「同じ頭脳」「同じ身体能力」を持つ、コピー人間のような集団になる必要があります。
それが果たして幸福でしょうか?
他人と違うということが個性であり、自由となり、それが幸福を生み出します。

ですが、反面他人との比較において劣等感、またはその逆の優越感を発生させ、悩みや傲慢さを生み出します。

神は世界を創造したときに、色とりどりの花が個性豊かに咲き乱れる世界を願ったと思われます。
金太郎飴のようにすべて同じではなく、「違い」を生み出したと思われます。

人と違う個性であることは時に悩みや争いの種にもなりますが、それが幸福の源泉でもあるのです。
当然ながら、地域の差によって習慣や生活スタイル、文化に違いが起きて、それが国家の違いとして現れても、それを良しとするべきだと思うのです。
その違いを「良し」とするか、それともそこに優劣をつけようとするかが問題なのです。

《差別と平等を考える》

仏教の開祖釈尊は、「差別即平等」「平等即差別」と説きました。
この言葉を現代的に表現すると、

「差別するということはすなわち等しく扱うこと」
「人を等しく扱うことが差別になる」

ということです。

人間という存在としては、みな等しく尊い存在
差別とは、その個性の違い、能力の違い、努力の違いを認めること

同じ命でありながら、その人の持っている個性や努力、成したことに対しては公平に評価する。
それが差別であり、平等でもある、ということです。

これは「チャンスの平等」と「結果の不平等」とも言うことが出来ます。
チャンスは等しく与えられるが、努力の結果に対しては公平に扱う、ということです。

100m競争で足の速い子も遅い子もみな等しく1等賞とするのが、平等ではないということです。
1等を取った人の努力と能力はきちんと認めならが、だからといってそれがすべての優劣の基準ではないということです。

肌の色が白くても黒であっても、等しく人としての心を持ち、離れた地域に住んでいても、人としての共通の人間心理を持っている。
それが、平等です。
個性の違いを違いと認め、努力の結果を公平に区別する、それが差別です。

差別とは、本来人間存在に対する絶対的な平等の上に成り立つものなのです。

「人として同じ価値を持つ」という思想があってこそ違いに対する差別が許されるのです。
差別とはあくまでも幸福への道のりとして許されるものであり、それを迫害や憎悪の材料とするものではないのです。

ですから、肌の色の違い、地域の違いなどで優劣をはかり、それによって支配や迫害をすることは間違いなのです。

違いを理解し、共に手を携えて生きることこそ差別即平等なのです。

結局、人種差別などの差別は、自己中心的な間違った自己愛なのです。
人種問題においては、自民族への愛が行き過ぎた間違った姿として現れると民族差別となるのです。
自分の国や自分の民族を愛することは良いことですが、だからといって自分たちの民族(国家)が他の民族(国家)よりも優れていると己惚れると、そこに間違った差別が生まれるのです。

違いを理解し尊重してこそ、等しく人類として仲良く共に歩むことが出来るのです。
そこに「同じ人間として等しい命を持つ」という価値観(思想)があるべきなのです。

【個性の尊重と慈悲の思想が間違った差別をなくす】

想像してみてください。
もし、この世界に花という植物が1種類しかなかったらと。
チューリップならチューリップばかり、バラならバラしかない世界は、美しいでしょうか?

それよりも、四季折々の花が咲き、色取りとりどりの花が咲き乱れるほうが幸福感が増すのではないでしょうか?

そのためには個性の違いを認めながら、等しく尊い命を持つ存在としてお互いに尊重することが必要です。
違いを認め、平和な世界を築くためには「個性の尊重」「違いへの理解」そして「慈悲の心」が大切だと思います。
違うことを排斥するのではなく、理解する方向に行くべきなのです。

最後に付け加えるとするなら、間違った差別には「正義」という考えで戦う必要があるということです。

最後までお読みいただき、ありがとうござりんした!


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