『政治家は上を向いて自分の言葉で語りなさい! ~政治の主役は政治家か?それとも官僚か?~』

官僚の用意した答弁書を読むだけの政治家は、もういらない!

《政治家が答弁する情けない姿にもの申す!》

最近の与党(自民党、公明党ともに)は、不祥事が相次ぎ窮地に陥っているように見える。
菅総理の国会等での様子を見ていると、非常に「嘆かわしい」と思わざるを得ない。

何が嘆かわしいのかというと、ご意見番が感じることが2つある。
(言いたいことは腐るほどあるけんど)
一つは、所属する自民党議員の不祥事や官僚(内閣広報官)の報道などを追求されたときに菅総理は、下を向き官僚が用意した答弁書をただ読んでいるだけという状況だ。
もう一つは、菅総理などの政治家たちが、「自分の言葉」で語らないこと。
この2つは、実は政治にとって非常に大きな意味を持つ
また、国民の生活や幸福とも大きくつながりがある。
それを、今回指摘する。

はっきり言おう!

「官僚の答弁書(回答書や資料)などを下を向いて読んでいるだけの政治家はいらない」
「他人の考えや判断を伝えるだけの政治家は必要ない」

ということだ。

政治家が下を向いて答弁書(資料など)を読んでいるだけの意味とは?

《「下を向いて」答弁書や資料を読む意味》

みなさんは“選挙で選ばれた政治家”とは政策や外交、統治に関してのエキスパートだと思っていますか?

否、否!

法律に詳しい政治家はいます。
交渉力のある政治家もいます。
ですが、それ以上に政治家が関心を持っていることは「選挙に勝つこと」です。
現代の政治家の最大関心事とは「選挙に勝つこと」以外にはありません

選挙のときに立候補した政治家予備軍の人たちは何をしますか?
街頭演説、駅前での辻説法などではないですか。
そのときに手元の原稿に目を落として有権者に語りかけている立候補者がいますか?(政見放送ではいる)
アチキはいまだにそんな立候補者を見たことはありんせん。

では、ここでみなさんに質問します。

選挙のときには下を向かずに上を向いて国民に語りかける政治家(立候補者)たちが、国会や予算委員会などで野党などから質問(糾弾)されると、とたんに官僚の用意した資料などを読み始めるのはどうしてでしょうか?

また、そこには何があるでしょうか?

「下を向いて」いるということの意味とは、ズバリいうと「国民に語りかけていない」ということです。
では、「下を向いて」話す政治家が考えていることは、「その追求を逃れること」だけです。

人間がコミュニケーションを取るときには「相手の目を見て話す」ことが基本です。
「下を向いて」質問に答える、「下を向いて」何かを伝える、ということは、相手を尊重した行為ではありません。
自己防衛の行為が強く表れた行動です。

もちろん、難しい案件であり、資料が必要なこともあるでしょう。
数字や複雑な事情などもあるでしょう。
それらを政治家がすべて記憶していないため、資料に目を通すということもあるでしょう。
ですが、ずっと下を向いて資料を読み上げるだけというのは、政治家としては問題です。
政治家がさまざまな出来事に対してその資料を自分で作成し、自ら判断することは現代社会では非常に難しいのが実状です。
実際は、官僚の支え、協力なくして政治家は仕事ができません。
また、関係内容を官僚に調べさせたりすることは政治家としての職務上の権限でもあります。

ですが、菅総理の国会の様子を見ていると、ずっと下を向いています。
あるいは下を向いている時間が圧倒的に長いです。

政治家は、何を発言するにしても、それは国民へのメッセージだと考えなければいけません

たとえ、野党の質問や糾弾に答える場合であっても、メディア側の取材の質問に対する答えであっても、その奥に国民が見ている、聞いていると思って、最終的には国民に答えているという意識を持たねばなりません。

つまり、「下を向いて資料などをただ読んで済ます」ということは、「国民を意識していない」「国民の気持ちを政治家が感じ取ろうとしていない」ということのあらわれなのです。

《他人の文書を伝えるだけの意味》

政治家の仕事には官僚の助けが必要だと言いましたが、では、政治家は官僚の用意した文章を、上を向いて読めばいいのか、というとそれでもいけません。

官僚だろうと誰だろうと、他人が用意した書類(答弁書、演説原稿など)をそっくりそのまま発言するだけでは、政治家に何の価値もそこに存在しない、政治家個人の考えや気持ちを込めていない、ということになります。

一番良い方法は、どうしても必要な資料等は手元においてもいいですが、原則、内容は事前に頭の中に入れておくことです。
要点を掴み、趣旨と論点を頭に入れた上で補助的な意味として資料に目を通すべきです。
(別の項で述べますが、官僚の文章は国民からすると複雑で意図が分かりにくいもの)
主要な論点を頭の中に入れておいて政治家個人の咀嚼(そしゃく)を加えて発酵(処理)させたうえで、自分の思想や判断として発言するべきです。
それがリーダーシップというものであり、政治家に必要な能力です。

自分の言葉で語れないということは、その案件に対して本当に理解していない、まったく趣旨をつかんでいない、発言者の気持ちが入っていない、ということであり、誤魔化しの仕事なのです。

政治家の人たちに強く言います!

「国民は、政治家が、自分の言葉で語る話を聞きたい」のです。
「政治家が、他人の言葉を腹話術のように復唱しているから、政治家の言葉が国民に伝わらない」のです。
「国民が求めているのは、政治家個人の信条や判断が加わった言葉」なのです。
下を向いて他人が書いた資料を読んでいるだけだから、政治不信が起きるのです。
そのことに当の政治家たちが気がつかないことが問題なのです。

《官僚が政治の主体なのか? 代議士が政治の主体なのか?》

政治家が国会での質問などで「答弁書や資料を読んでいるだけ」又は「答弁書や資料に頼り過ぎる」ということは、結局、政治の主体は選挙で選ばれた代議士(政治家)なのか? それとも有能な業務をこなす官僚なのか? という問題にぶち当たります。

アチキは官僚を否定しません。
歴史上、古今東西、官僚なくして国家の運営はできません。
また、政治家にとっても必要不可欠です。
ですが、歴史を見る限り、国家を腐敗させる一番大きな要因が官僚の存在であることも事実です。

有能であるはずの官僚の存在が、国民を幸福にするのではなく、国民を不幸にすることが往々にして起きています。
だからこそ、それをコントロールするのが民主主義社会においては選挙で選ばれた政治家なのです。
ですが、官僚に頼り過ぎると政治家不在の国家運営がなされてしまいます
本当に国を動かしているのは選挙で選ばれた代議士ではなくて、選挙で選ばれていない官僚となってしまうことになります。

官僚の用意した文章をずっと下を向いてそのまま読むだけの回答や対応をする政治家とは、結局、国民を無視し、政治不信を招き、無能さをただ示しているだけの“不必要な政治家”でしかないのです。

官僚の文章の特徴

《官僚の文章の特徴1「難解」》

官僚の書く文章の特徴は、「読んでもよくわからないことが多い」というものです。
(一般の人からすれば)

官僚は基本的に受験競争を勝ち抜いて来た秀才たちです。
過去の知識を記憶することに長けています。
彼らに共通して見られるのが「エリート意識」です。
「エリート意識」から導き出されるのは、「一般人とは違うのだぞ」という優越感です。
その優越感は言葉にあらわれます
それが「一般人がストレートにかわらない表現」として現れるのです。
つまり、難しい言い回しをすることで優越感に浸っているのです。

本来、賢いのならば「難しいことを優しく語れる」はずです。
「難しいことを難しい言葉で表現する」ということは、本当は賢くないのです。
そこにあるのは愛の欠落です。
要するに、「俺はこんなに難しいことを知っているんだぞ」「こんな難しい文章をかけるのだぞ」ということです。

難解な事案を優しい表現で伝えるには「相手に対する愛」が必要なのです。
ですが、官僚が発揮する愛とは「自己愛」なのです。
「自己を称賛する愛」であり、「自己を着飾る愛」なのです。
だから、官僚が書く文章は難しい表現なのです。

《官僚の文章の特徴2「反論されることを初めから想定している」》

官僚の書く文章の2つ目の特徴は、「反論を初めから想定して、その反論に対する回答も含ませながら諭を展開する」というものです。

ですから、話がややこしくなるのです。
難しく思えるのです。
迷路のように右に行ったかと思ったら左に行って、前に進んだと思ったら後ろに下がったりする。
だから、理解に苦しむことが多いのです。

官僚の官僚たるゆえんは、「失敗を恐れる性質」「追求されないための用意周到さ」です。
彼らはよく言えば「慎重」ですが、それは良い意味での慎重さではなく、自己を守るための慎重さなのです。
ミスをしないようにするという意味での慎重さなのです。
なぜなら、ミスをすると出世コースから外れるからです。
出世コースから外れるということは、人生をエリートとして過ごしてきた官僚にとっては耐えがたい出来事だからです。

要するに「チャレンジ精神にあふれた仕事」よりも「ミスをしないような仕事の仕方」をする、ということです。
それが文章にあらわれるのです。

《官僚の文章の特徴3「要点、主題が見えにくい」》

官僚の書く文章の3つ目の特徴は、「要点、主題が見えにくい」です。
要するに「何が言いたいのか?」と言いたくなるのです。

官僚の弁論は「難しいことを難しく表現する」「反論されることを織り交ぜて論を成り立てる」そして「責任を追求されないために諭の内容を玉虫色に染める」というものです。
つまり、「AでもあるしBでもある」と理解の仕方によっては別の意味に思えてしまうことが多いということです。

簡単に言うと「あいまい」ということです。
官僚の書く文章は「あいまいな内容にわざとしてある」のです。
はっきりとことの本質を一言で言わないのです。
グチグチと“論”をこねくり回すのです。
はっきりとした色付けをしないのです。
それはご意見番からすれば「逃げの論法」でしかありません。

《官僚の用意した文章をそのまま政治家が読むだけで終わると?》

こうした特徴を持つ官僚の文章をただ読み上げるだけだとどうなるか?

「何が言いたいのか?」
「結局、言い訳じゃね~のか」
「伝わんね~」
「国民の気持ち(感情)を無視している」

となるのです。

つまり、権力者の立場でものを考えるので、そこに国民の気持ちを汲むということが欠落するのです。

だから、国民は政治家の言葉を聞いて「すっきりしない」のです。
だから、国民は政治家の言葉を聞いて「納得しない」のです。
だから、国民は政治家の言葉を聞いて「その政治家のファンにならない」のです。
だから、国民は政治家の言葉を聞いて「熱狂しない」のです。

そこにあるものは、政治家がリーダーシップを取っている姿ではなく“官僚のクロコ”と化した“無能な人間”の姿でしかないのです。

だから、国民が政治に不信感を持つのです。
だから、国民の一部は選挙に行かないのです。

政治家及び政治家予備軍の人たちはそのことを真剣に考えなければならないのです。

政治家が政治家であるために!

《上を向いて語る》

「上を向いて語る」ということが意味することは、日常会話における相手の目を見て話しをする、ということです。
国会の答弁であっても、相手がいるわけですから、相手を見ないでずっと下を向いている、下を向いている時間が長い、ということは礼儀に反します。

「書類に目を通す時間がない」「難しい内容だから読み上げる必要がある」などと言い訳をしないでもらいたい。
それらの言い訳に対して政治家たちは「業務改善」「業務改革」してきたのでしょうか?

事前に資料に目を通し、要点をつかみ、頭の中に入れておく。
それくらいの能力がなくて、どうして国家の運営ができますか?
民間企業の立派な経営者は、常に損益計算書又は日々の経営に関する“数字”を頭に入れて経営にあたります。
また、重要な課題を把握しながら、常に考えています。
それが政治家にはできないのでしょうか?

政治家の発言は、「すべて国民に聞かれている」「すべて国民へ届けるものである」ということを忘れてはいけないのです。

国民に声や政治家としての判断を届けたいのならば、「上を向いて」話をしなさい!

《自分の言葉で語る》

他人が書いた文章を読み上げるだけならば、その政治家の存在意義はどこにあるのでしょうか?
もし、それでいいのならば、将来的にAI搭載のアンドロイドでもいいのではないでしょうか?

政治家には“高い見識”が求められます。
高い見識があるからこそ、難しい国政や国際問題に対処できるのです。
それを証明するものが、政治家が自分の言葉で語っているかどうか、です。

なぜなら、「自分の言葉で語る」ということは、その問題を正確に理解していることを意味し、また、その上で政治家個人の見解を加えた咀嚼をしていることだからです。
そうであってこそ国民から選ばれた政治家と言えるのです。
自分の言葉で語れるということは「その問題を自分の中で処理し切れている」ということだからです。
他人からの借り物だけで仕事をする政治家など権力におぼれた愚か者にしか過ぎません。

政治家に必須の条件とは?

《できる政治家の必須の条件とは?》

ご意見番が考える政治家に必須の条件を言います。

「大衆の気持ちを汲み取れる感性」
「立法できる法知識」
「人類普遍の叡智を学んでいる」
「優れた判断力と高い見識」
これらを備えていれば「自分の言葉」で語れるはずです。

逆に言うと、自分の言葉で語れないということは、政治家として国家を運営する力量が足りない、国民感情を理解していない、ということを証明しているのです。

《国民を幸福にする政治家を選ぶ基準とは?》

すでに散々語ってきたので、ここまでお読みの方はお気づきだと思います。

政治家を選ぶ基準の大事な一つが「自分の言葉で語れる」ということです。

そして、その内容が優れている、または共感できるものである、ということです。
そうした政治家を選ぶことが国民としての責任なのです。

政治の主役は政治家か?それとも官僚か?

この記事の結論です。
政治の主役は官僚をコントロールする政治家でしょうか?
それとも政治家を陰で操る官僚でしようか?

いずれも「NO!」です。

政治の主役は「国民」です。(民主主義国家において)

政治家は「国民の声を代弁して」「国民の立場に立って」政治を行う者であって、官僚は国民の声を背負っている政治家に協力してともに国民の幸福を実現する者であるべきなのです。
だから、政治の主役は「国民」なのです。
それを多くの国民が理解していないように見えます。

結局、政治の責任は、最終的に「その政治家たちを選んだ国民」に帰結します

ですから、国民は政治に対して責任の自覚を持たねばならないのです。
マスコミは、国民が政治に責任を持つ行動を制限したり、情報発信を規制したり、内容を捻じ曲げたりしてはいけないのです。

いまの自分の生活に不満があるならば、「声をあげる」べきです。
いまの社会を不服に思うなら「選挙に行く」べきです。
政治への無関心こそ、政治の“さらなる腐敗”を起こす遠因となるのです。

主権は国民にあり!
そして、主権があるとは責任があるということです。
そのことを日本の人たちはもっと自覚するべきです!

最後までお読みいただき、ありがとうござんした!


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