『男女差別について考える!【後編】 ~森氏の女性蔑視発言の裏にあるものとは?~』

まずは『男女差別について考える!【前編】』をお読みください。

歴史に見る男女の関係!

《タイタニック号の沈没に見る男女の差別》

映画「タイタニック」観ましたか?

1912年4月14日深夜(23時40分)、処女航海中の豪華客船タイタニック号は北大西洋上で氷山に接触し、翌日の未明(2時20分)にかけて沈没しました。
乗員乗客は2,224人。
犠牲者数(乗員乗客合わせて)は、1,513人。
となると、救出された数は、711人。

タイタニック号の沈没は当時海難事故の最大の死亡者を出す悲劇でした。
その悲劇の中で助かった人たちはどんな人たちだったか覚えていますか?

タイタニック号には救命ボートがありましたが、残念ながら乗員乗客のすべてを乗せるだけのボートの数がありませんでした。
そこで命の選別が行われました。

救命ボートに優先的に乗ることができたのは「女性と子ども」でした。
大人の男性の多くが救命ボートに乗ることができずに凍り付く海に飲み込まれて命を落としました。

タイタニック号の沈没は20世紀初頭ですが、この悲劇に対して「男女差別」を言いだす人がいますか?
明かに女性と男性では、男性が差別されていると言われても仕方がないことではないでしょうか?
しかし、この女性と子供を優先的に救命ボートに乗せる決断を下したのは男性の船長です。

何が言いたいのかというと、こうした悲劇のときに男性は女性を守ろうとするものだということです。
また、女性はそうした男性の紳士的な判断、武士道的な決断、騎士道的な勇断を受け入れてきた、というのが人類の歴史である、ということです。

もし、万が一、タイタニック号の沈没と同じ状況が現代に起こったら、多くの男性が同じ判断をするでしょう。
それは人類が培ってきた男女の不偏的な姿(叡智)だからです。

時代が違うという人がいるかもしれませんが、もし、女性は男性によって差別されてきた、とおっしゃるならば、タイタニック号で救命ボートに乗って助かった女性たちを男性差別したと非難してほしいものです。
男性は「男性差別」されたと非難しませんから。

《戦争(特攻隊)に見る男女の差別》

また、男女差別をもし本気で主張するならば、戦争の歴史についても正しい「差別評価」「平等な評価」をしなければならないはずです。

太平洋戦争において、終戦末期に日本は勝ち目のない特攻作戦を決行しました。
その作戦の是非はありますが、彼らは日本という国家を守るため、自分たちの愛する家族を守るため、命を掛けて特攻しました。
(特攻だけが命を落としたわけではありませんが)

森氏の発言を女性蔑視だとバッシングした人たちに質問します。
特攻隊のなかに女性がいましたか?
なぜ男性だけが命を捨てなければいけなかったのですか?

人類の過去の歴史を見る限り戦争で戦う兵士はほぼ男性です。
戦争による被害で死亡する犠牲者には女性も多くいますが、戦場で悲惨な死に方をするのはいつも男性だということです。

男性が戦争を起こしているから悪いんだ、という見解もあるでしょうが、それでも国家や民族の危機に命を掛けて戦うのは男性であったというのが歴史的事実である、ということです。
もし、何もかも男女平等にしなければいけないのならば、自衛隊の半分は女性でなければいけないのではないでしょうか?
男性だけが戦場に行かねばならないとしたら「男性差別」ではないでしょうか?

でも、男性はそういうことを言いません。
むしろ、誇りに思って戦場に行きます。
そこに男性という霊的生命の本質があるからです。

女性の中で自衛隊に志願する人がどれだけいるでしょうか?
女性の中で「男女平等だから、女性も戦場に行ってくれ」と言われて「はい、そうですか」と受け入れる人(女性)がどれだけいますか?
それとも男女平等の世の中を実現するために自衛隊の半分は女性とする法律でも作りますか?

要するに、歴史的に見る限り「いざという時に女性は男性に守られてきた」ということです。

ただし、女性は女性で家庭を守り、女性は女性で戦っていたということも事実でしょう。

こうした歴史的な男女の関係を忘れてはいけないのです。
それは人類の叡智でもあり、人類に男女の2つの性がある根本の理由と深くかかわっているからです。

人としての平等と性別による平等は別もの!

《男女の違いとは?》

男性と女性では肉体的な構造が明らかに違います。
出産は女性しかできず、男性は逆立ちしてもできません。
肉体的な力では、一般的に男性のほうが筋肉質であるため優れています。
ですが、優雅さや美的感覚などの感性は男性より女性の方が一般的に優れています。

人(人間)としては同じでも、性に違いがある以上、何から何まで平等に扱うことは逆に不公平となります

結局、性的な違い、肉体的な要因に関する違いについては平等とはならないのです。
だから、男女は肉体を起因としたものと精神的な違いがあると両者が認めあいながら調和して生きることが大切であると思うのです。

行き過ぎた男女平等思想は、そういった違いをほとんど無視して、何から何まで「平等」を求めます。
それは行き過ぎた権利の主張であり、間違った思想です。

《男女平等とは?》

男女平等の社会とはなんでしょうか?
そもそも男性と女性の違いを正しく認識しなくて男女平等はあり得ないと思います。

男女平等とは、「等しく人間として尊い存在」だという意味で平等であるべき。

男女平等とは、「違う性を持つ存在」としての前提を認めたうえでお互いに尊重するべき。

男女平等とは、「チャンスの平等」において等しくチャンスを与えられるべき。

男女平等とは、「人としての人権」を等しく有するという意味において平等であるべき。

男女平等とは、社会の出世や成功において性的な違いにて判断されることなく、その能力と実績にて評価されることにおいて平等であるべき。

一人の人間として権利を主張することと、性的要因や肉体の違いからくる区別を一緒に「平等」という思想で一括りにはできないのです。
男女差別に関することは、それが「人として」なのか? 「肉体的な要因(性別の違い) 」なのか? ということを個別に考えて判断しなければいけないのです。

男女には一部役割の違いがあるということを認めることは不平等ではなく、公平な考えなのです

いきすぎた男女平等(女性差別意識)には左翼思想が入りこんでいる!

《いきすぎた男女平等思想には左翼思想が入りこんでいる》

「男女平等」を主張する多くの女性たちの意見には正しく正当な考えが存在します。
しかし、同時に誤った価値観も含まれています。
正当なものと行き過ぎた思想が交じり合っています。

それは日本中に入りこんでいる思想です。
その思想は、戦後の日本に上陸し、広く深く浸透しています。
その思想は、いまではあたかも自然な発想であるかのように人々の心の中に存在しています。
その思想は「共産主義思想」、「社会主義思想」であり、「唯物思想」です。

私は共産主義者ではない、という方も多くいるでしょう。
ですが、知らず知らずに共産主義的な価値観の発想をしている方が多くいることも事実です。

共産主義の特徴は、「伝統の破壊」「人類の普遍的な習慣や慣習の破壊」「自由の破壊」、「唯物主義」「無神論」「暴力肯定」「嘘」「見せかけの理念」、「平等意識の強調」「洗脳」などです。

はっきりとした特徴を簡単にいうと、ものすごく平等意識が強く、唯物主観で物事を考える、ということです。

いきすぎた男女平等思想は、姿を変えた共産主義思想であり、姿を変えた唯物思想なのです。

《森氏の辞任を中国は即座に速報を出した》

森氏の女性蔑視発言をバッシングした女性たちに質問します。
森氏が辞任した直後に、中国が速報を出して報道したことをご存知ですか?

それは初めから中国共産党政府がこの問題を監視していた、ということです。

中国共産党政府のやり方は騒動のなかに紛れ込んで騒動が大きくなるように扇動する、正しい批判や非難のなかに左翼思想を混ぜ込んで自分たちの政敵を消していく、というものです。
1月6日の米議会襲撃事件がまさしくこの手口です。

今回の森氏の女性蔑視発言には政治的な力が働いていると見ることが正しい見解だと思われます。
それは、多くの女性たちが気づかずに利用されたという意味を多く含みます。
女性蔑視に抗議する人たちに紛れ込んだ左翼または中国共産党政府のスパイが必ず後ろにいます。
そうでなければ、森氏が辞任したことを他国である中国が速報を流すことなど考えづらいのです。

日本には中国共産党政府のスパイがすでに入りこんでいます。
また、中国共産党思想のシンパが多く存在します。
これを都市伝説だ、と一笑に伏している方が居ましたら「笑っている場合じゃないですよ!」と言っておきます。
中国は、日本の領土を買いあさっています。
つまり、日本国内に中国の領土と同じ意味を持つ土地が増え始めている、ということです。
これが意味することは軍事学的に見る限り「侵略」です。
孫子の兵法通りの戦略です。

知らず知らずのうちに、ヒタヒタと共産主義者たちは日本を支配するための布石を打っているのです。
戦争とは、実戦だけを言うのではありません。
スパイを送り込む、スパイが敵国内で画策する、内部分裂を起こさせる、組織の結束を破壊する、ということをまず始めに行い、敵国内が弱ってから軍事力で攻め込むのです。
それが“戦(いくさ)”というものです。

現代における戦争とは「思想の流布」から始まるのです。
敵国の「思想の破壊」から始めるのです。
それが現代の戦争の発端です。

日本人はいい加減に平和ボケから目覚めなければなりません。
世界の支配を目論む国家の根本思想と同じ思想を持つということは、その悪魔の国家の操り人形となることを意味しています。
森氏の女性蔑視発言の裏ではこうした「人権問題」を利用した、左翼思想の流布による日本国家の脆弱化をねらっているのです。
それに気がついた一部の少数の人たちの声を取り上げない主要マスコミの罪は大きい。

男女平等と「公平」の関係!

《男女差別問題は「平等」よりも「公平」という価値基準を採用するべき!》

肉体に違いがある以上、肉体的な要因に関することは平等にはできません。
無理です。
また、精神的な要因にも男女には違いがあります。
それを違いとして認めないならば、それは「不公平」です。

知識、仕事能力、発言力、発想力、行動力などにおいて男女は平等に評価されるべきです。
そこに「女性だから」という発想が入りこめば「不平等」であり、「差別」となります。

ですが、肉体的資質に違いがあり、精神的な資質に違った特色を持っていることを認めずに、男女をすべて平等にするというのは、行き過ぎた平等思想であり、それは全体主義の姿を変えた思想でしかありません。

違いを違いと認めないことは「不公平」なのです。

具体的に言うならば女性はコミュニケーション能力が高く、男性は無駄口を叩かない。
コミュニケーション能力が高いということは、男性から見れば無駄口を叩いているとも思えるのです。
逆に、いつも黙っている男性に対してもっとコミュニケーションが取れないのか、と思う女性も多いはずです。
それは男女の違いからくる自然な思考です。

それにいちいち目くじら立てることは行き過ぎた考えであると思います。
男女には違いがあり、その違いをお互いに認めあいながら協調することが人として大切だと思います。
もちろん、本当の女性蔑視発言は許されるべきではありません。

森氏の女性蔑視発言をバッシングした人に質問したい。
あなたは男性蔑視の発言を人生で一度もしたことがないのでしょうか?
また、男性蔑視の考えを人生で一度も思ったことがないのでしょうか?

男女差別を強く主張する思想は、最終的に神の意志を否定することにつながる!

《仏教に見る男女(出家者)の戒律の数》

仏教では出家者に対して戒律が与えられます。
男性の出家者(比丘)は、250の戒律(比丘の二百五十戒)を守ることが定められています。
女性の出家者(比丘尼)には、348の戒律(比丘尼の三百四十八戒)を守ることが定められています。

人類史上最高の悟りを得たと言われている釈尊は、弟子の出家者に対して男性と女性とで戒律の数で違う指導を行っています。
男性よりも女性のほうに戒律が多いのです。
これって、男女差別ですか?

男女差別を訴える人に質問します。
男女平等を訴える人は、この釈尊の処遇をどう思いますか?
男女不平等だと主張して、仏教の教えを否定しますか?
それとも古い時代の人だから、男尊女卑なんだ、と言いますか?

釈尊は、20世紀までの時点で、人類最高の悟りを開いた人ですよ。
その釈尊が男女で戒律の数を差別(区別)しているのには絶対に意味があってのこと、必要があってのことのはずです。
仏教において男女の出家者において、戒律の数が違うということは、釈尊が男女の違いを認識していた、ということです。

何度も言いますが、違いを違いとして認めることは「公平」なことです。

《世界中の神話の主宰神は、ほぼ男性》

結局、「男女差別の問題」「男女平等の問題」を奥深く見て行くと、神の存在までたどり着くのです。

神の存在を否定する人もいるでしょう。
特に左翼思想の方はそうでしょう。
しかし、歴史上、宗教が地上から消えたことはなく、さまざまな宗教が存在していたことは事実であり、現代においても世界中で神を信じない人間のほうが少数である、という事実があります。
(日本に住んでいると感じないでしょうが)

アチキは、決して女性よりも男性の方が優れていると主張しているのではありません。
ただ、男女の違い、男女差別の問題の根本の根本を見て行くと最後に行きつくのが結局「神の存在」なのです。

世界中にある神話や宗教の主宰神は男性的姿を現している、ということが地球上の価値観なのです。
イエスが信じた神は「天なる父(男性)」、仏教の開祖釈尊は男性、北欧神話の主宰神はオーディン(男性)、ギリシャ神話の主宰神はゼウス(男性)、エジプトは多神教ですが中心的な神であるオシリスとアモン・ラーは共に男性、インドの3柱神はシヴァ・クラリオ・ヴィシュヌも男性神、朝鮮半島の「檀君」と世界中で神存在の中心または主宰神は男性的姿を取っているのです。
世界の中心の神が男性的姿で現れるということには意味があるはずだ、ということです。
ですが、世界中で多くの女神が存在しているのもまた事実です。

これは男性という存在の性質や特徴、女性という存在の性質と特徴を考えるうえで欠かすことのできないものだと考えます。
人類に男女の違いがあるということは、「神が男女に違った役割と性質を与えた」ということです。
ですから、その男女の性質や役割の違いを一緒にしてしまうことは神への反逆とも言えるのです。

そんな発想は現代的ではない、という方もいるでしょうが、そうした方はまず神の存在を完全否定する論証を示してからにしてください。
歴史上、人類が神を信じてきたことは事実であり、神の臨在を証明する間接的な証拠は数知れず存在しているからです。
もし、神が存在していないとするならば、人間が勝手に作り出した虚妄ならば、歴史上の人類はみな狂人だったということになってしまいます。

いま、キリスト教徒、イスラム教徒、仏教徒などの信仰を持つ人たちに対して「神などいない」と本気で言える人がどれだけいますか?
逆に「あなたこそ狂人だ」と言われかねません。

結局、何もかも男女平等でなければ納得いかない方、男女差別を強く言い過ぎる方のいきつく先は「神の否定」なのです。

しかし、日本人の方は思い出してください。
世界中で一国だけ、女性の神が主宰神の国家が存在しています。
それが日本です。

日本の主宰神は「天照大神」、そう女性なのです。
ですから、日本の女性はそのことを誇りに思うべきです。
女性の神が国家の主宰神となっているのは日本だけです。

男女はお互いの違いを認め合い調和し合いながら、切磋琢磨するべき存在であると思います。

違いを違いと認めないのは「不公平」なのです。

【最後に】

アチキは、もっと女性が社会で活躍することを望んでいます。
無能な男性は社会の害でしかありません。
男性が有能な女性に対して嫉妬して、その活躍を邪魔することがあってはなりません。
ですが、それは「女性なら無条件で」というのとは違います。

女性であろうが男性であろうが、才能と実力(能力)がある人が、男女という性別で差別されることなく、活躍できる社会が正常な社会であると信じるのです。

人間としては等しく尊くとも、性別の違いがある以上、違い(差別的処遇)はあって当然であると言えるのです。
その性別による要因の違いを認めないのは「不公平」です。

女性蔑視発言が世間でバッシングされるならば、男性蔑視発言も同じように注目され、バッシングされなければ不公平です!

結局、男女差別(男女平等)を強く主張する人たちの考えは、男性が男性であることの意味と女性が女性であることの意味を否定する思想であり、それは神が男性と女性の2つの性を創造したということを否定することでもあり、最終的には神への反抗となるのです。

ご意見番は、実力ある女性、能力ある女性が「平等」に扱われるのではなく、「公平」に認められる社会を応援します。

差別は女性の側にも男性の側にもあります。
男女という性別ではなく、その人の能力や実力、才能によって認められる社会が健全な社会であると思っています。

人間として等しく尊くとも、“なぜ男女の違い(区別)がある”のかという根本命題を無視した男女平等の議論は不毛です!

最後までお読みいただき、ありがとうござりんした!


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