『プロボクシング界のタトゥー(入れ墨)是非論争にもの申す!【後編】 ~入れ墨の歴史とタトゥーの論争の結論!~』
『やんちゃ』者でもチャンピオンになれるのがボクシングの魅力だ。チャンピオンが『やんちゃ』になるのは筋が違う。 井岡選手が本当にタトゥーを入れたいならば、道は2つしかないはず。
『やんちゃ』者でもチャンピオンになれるのがボクシングの魅力だ。チャンピオンが『やんちゃ』になるのは筋が違う。 井岡選手が本当にタトゥーを入れたいならば、道は2つしかないはず。
井上尚弥は、「ルールがある以上守らなければならない」と反論した。 ルールがあってルールを守るのはスポーツマンシップであって、プロ選手ならば当然のことだ。 あえて言えば、ルールを知っていてルールを破ることは人間性が欠如していると言われても仕方がないことだ。 ましてやチャンピオンがやってはいけないことだ。
しかし、現代社会にも民衆が革命を起こす武器は存在している。 それは「言論」である。 よって、言論弾圧は全体主義者、独裁主義者が真っ先に行う手段なのだ。 民主主義とは民衆の声、つまり言論によって成立するからだ。 民主主義の死が意味するものは、共産主義化であり、独裁主義化である。 共産主義化と独裁主義化が導くものは、「言論弾圧」であり、「権力者による監視社会」であり、「強制的統治」である。
「ある出来事」や「特定の情報」などを、ずっと継続して見て行くと、なぜか見えてくるものがある。 それは「傾向性」であったり、「特徴」であったりする。 「点」では見えてこないものが「線」そして、「面」となると浮き彫りになるものがある。 今回の『2020年下半期版』に公表されている警察官による事件、不祥事を見ていくとあることに気がつく。 それは・・・?
学校側が校則を定める場合は、その学校の生徒会の賛成を得なければならない。 生徒会は、学校側が定めようとする校則について、生徒会メンバーにて投票を行い、校則の可否を問う。 また、生徒会の投票にて、学校側が定めようとする校則が可決されたとしても、その結果に対して在校生徒は異議申し立てをすることができる。
生徒の「服装」「髪型などに関すること」「下着に関すること」などは教師がとやかくいうべきことではありません。 ましてや校外に関する校則など基本的に存在することが許されないものです。 教師の言うことを聞かせるために家畜のように強制している不合理な校則は排除するべきです。 髪型や持ち物、下着などは生徒の自由であり、生徒の個性を尊重するべきです。
個人の自由であるゲーム時間を県(行政)が決める憲法上の規定は存在しません。 話し合いをさせるのなら、目安も上限も各家庭に任せるべきです。 制限数値を守らせたいなら、「目安」「努力目標」とするべきではありません。 この条例は、「罰則を作らなかった」のではなくて、「罰則を作れない」のです。
憲法の趣旨に反する内容の法律や条例は、「存在することができない」あるいは「許されない」というのが憲法と法律(条例を含む)の関係である。 憲法の趣旨に反する法律や条例の立法は憲法違反となる。 原告の渉さんの主張は、「憲法を守れ!」です。 (ただし、香川県側は「憲法違反ではない」と主張しています。) ですが、個人の生活に踏み込んでいること、選択権を制限していることは明らかに自由の侵害です。
いま、起きていることは「陰謀論」ではありません。 明確な悪意を持つ「陰謀」なのです。 古谷氏の記事(発言)は、「論評」ではなく、「批判」でもない。 ただの「フェイク」であり、「悪意ある扇動」なのだ。
正しい手続きや方法によって出た選挙結果と、選挙違反して出た選挙結果を一緒にしてはいけない。 正しい手続きや方法によって出た選挙結果は受け入れなければならないが、選挙違反して出た選挙結果は覆さなければならない。 しかし、古谷氏は選挙犯罪に関する情報に一切触れていない。 それがこの記事の最大の論点である。 古谷氏の記事は、フェイクニュースのお手本である!!