『プロボクシング界のタトゥー(入れ墨)是非論争にもの申す!【後編】 ~入れ墨の歴史とタトゥーの論争の結論!~』

まずは前編をお読みください。

刺青を消したボクサーたち!

《君島圭介氏の意見》

秀逸だったのは君島氏の『井岡一翔がタトゥーを入れるべきではなかった理由がある』という記事である。(君島圭介のスポーツと人間)

君島氏は、記事の中で元暴力団等の人がボクシングに目覚めたことで、入れ墨を消してでも世界チャンピオンを目指した話をしている。
中量級で日本ランキング1位に昇り詰めた大嶋宏成というボクサーには入れ墨の除去手術痕があったという。
大嶋ボクサーがボクシングの世界に足を踏み入れるときにまずしたことは、入れ墨を消す皮膚を移植する手術だったという。
尻と太ももの皮膚を移植する壮絶な手術だったという。

また、少年院に入った経験薬物中毒を乗り越えてボクシングの門を叩いた川崎タツキというボクサーも入れ墨を消した。
なぜか?
それが日本のルールだったからだ。
なぜルールを守るのか?
日本でチャンピンになりたかったからだ。

君島氏はこう語っている。

「井岡一翔にはその芸術的な肉体を墨で汚して欲しくなかった。『やんちゃ』者でもチャンピオンになれるのがボクシングの魅力だ。チャンピオンが『やんちゃ』になるのは筋が違う。井岡というボクサーは、精度の高い技術を身につけた歴史に残る真のチャンピオンだからこそ、タトゥーは入れるべきではなかった」

秀逸な意見である!
お見事!

(情報は、スポニチより)

日本ボクシング界が「入れ墨禁止ルール」を作った理由

《入れ墨禁止のルールができたワケは?》

日本ボクシング界の「入れ墨禁止ルール」を作ったのには、それなりの理由がある。

〈理由1〉

かつてのボクシング界では興行と暴力団が密接な関係があった。
そのことに対する世間からの批判が沸き起こり、JBC側として対応することが求められたから。

〈理由2〉

ボクシングの世界戦ともなると、テレビ局がゴールデンタイムに生中継で放送することが多かった。
以前はリングサイドに暴力団組員が普通に座っていることも珍しくなかった。
そこでテレビ局は視聴者からのクレームを恐れてJBC側に“注文”を入れた。

変わりつつある入れ墨文化

世間の人たちの認識は「入れ墨=暴力団(かたぎじゃない人)」、または「入れ墨=罪人をイメージさせる」という考えが主流であると思われる。
だが、社会は変化した。
暴力団排除が進み、本物の反社会的勢力にはならないチョイ悪気取りの若者たちがファッションとして入れ墨を入れるように変化している。
また、入れ墨を入れる側であるタトゥースタジオで働く人たちも様相も変化している。

格闘技イベントRIZINや格闘王誕生ONEなどでは主に外国人選手の多くで入れ墨をした選手がリングにあがっている。
こうした社会変化も井岡に影響を与えていることは間違いないだろう。

日本の入れ墨文化と歴史を学ぶ!

日本の入れ墨文化と歴史に詳しい都留文科大学教授の山本芳美氏の論文が秀逸なので、ここに一部を紹介する。

《日本の入れ墨、その歴史。山本芳美教授》

以下引用

皮膚に傷をつけて色素を入れ、文様や図、記号、線などを残すイレズミは、人類の最も古い身体加工法の一つで、世界中で行われてきた。

日本では、出土する土偶や埴輪(はにわ)の線刻から、古代よりイレズミの習慣が存在したと推定される。
日本の創生神話を描いた『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)にも、辺境の民の習慣や刑罰としてイレズミが言及されている。

建築や祭りの準備などの仕事に従事し、町内の警護役や消防も担った鳶(とび)や、飛脚などにもイレズミは好まれた。
地肌をさらすことは恥ずかしいとも考えたため、イレズミを身にまとったのだ。
やがて社会では「鳶にイレズミはつきもの」とのイメージが強まり、イレズミが入っていない若い鳶には、町内の旦那衆が金を出し合って彫らせることもあった。
火事場で火消しとして戦う鳶は、江戸の「粋」の象徴であり、鳶のイレズミは彼らが住む町内の誇り、「華」でもあったからだ。

大衆文化の世界では、イレズミを入れた侠客が「弱きを助け、強きを挫く」理想像として浮世絵に描かれるようになった。やがて、それは憧れの対象となり、19世紀前半には、浮世絵師の歌川国芳が中国の小説『水滸伝』の主人公たちの全身にイレズミを描き、大評判となる。
さらに、歌川国貞などが、今度は歌舞伎役者にイレズミを描きこんだ浮世絵を発表して人気を博した。

武士階級には、身体を傷つけることを厭う儒教思想が浸透したため、イレズミは広がらなかった。また、1720年から、刑罰の付加刑として額や腕などにイレズミを入れる「鯨刑(げいけい)」も導入されたため、庶民の間にはイレズミを嫌う人もいた。
江戸幕府はイレズミに対して何度も規制を加えたが、あまり効果はなく、19世紀後半には流行が最高潮に達した。

政権を握った明治政府は、鎖国を解き、欧米並みの文明国家を目指した。
明治政府は、欧米から見た日本の未開部分として問題視し、明治5年(1872)、彫り師と客になることの双方を法的に規制した。

女性たちのイレズミが習慣としてあった沖縄やアイヌでも深刻な影響を受けた。
イレズミを隠れて行う人もいたが、警察に逮捕され、野蛮で遅れたものとして手術や塩酸などで除去された。今では、これらの地域の先祖伝来であったイレズミの習慣は、完全に途絶えてしまっている。

第二次世界大戦で敗戦した日本は、1948年(昭和23)にイレズミを取り締まりの対象から完全に外した。

80年代には、米国などのロックバンドがタトゥーを入れていたことから、これに興味を持った日本の若者が増加。
日本でもイレズミがファッションレベルで定着を始めたと言えよう。

《ご意見番の補足説明》

入れ墨には大きな2つの流れがある。

一つは、世界中のあらゆる地域にあるように、「罪人または奴婢に対して墨を入れる制度」があったこと。

もう一つは、民族的伝統の中で生まれた「伝達」「表現」としての「入れ墨文化」が存在していたこと。

そして近年では、2つの考えが主流である。

一つは、「入れ墨=罪人をイメージする」または「入れ墨=暴力団(かたぎのひとではない)」という考え。

もう一つは、「ファッションとしてのタトゥー」「自己表現としてのタトゥー」である。

さらに、入れ墨に対する2つの立場の違いがある。(日本において)

第二次世界大戦以前の日本では、庶民には入れ墨を受け入れる、もっと言うと入れ墨に対して憧れる風習があった。
だが、統治者は入れ墨を規制していた。

第二次世界大戦以後の日本では、暴力団が任侠の憧れとして入れ墨を入れることが常識となったため、庶民間では「入れ墨=暴力団」のイメージが定着する。
また、統治者(法律)側では、法律によって禁止されることがなくなった。
(米国による統治の影響)

このように入れ墨の文化・風習と歴史は一言では語れない複雑な背景と歴史を持っている。

では、井岡のタトゥー問題をどう考える?
問題とするべきは、タトゥーということの意味と現代社会の価値観である。

ご意見番がタトゥー論争にもの申す

《人は見た目で判断するしかないもの》

京口紘人選手は「外見見た目だけでは本質はわからない」と言ったが、その通りだと思う。だが、人間は見た目で最終的にその人の人間性を判断できないことは事実だが、深く知らない他人を判断するには外見や言動から判断するしかないのも事実である。

他人の心は見ることも知ることもできない。
だからこそ、外見に現れるその人の心を見るしかないのだ。

《タトゥー論争の答えは井上尚弥選手の言葉にある》

結局、タトゥー論争の答えは、井上尚弥選手の言葉にある。

「ルールがある以上守らなければならない」

これがスポーツマンの不偏的な精神である。

どこかの国の政治家やDSたちは、憲法や法律を破ってでも選挙に勝利したが、もし、スポーツにおいてルールを無視することがまかり通れば、スポーツ自体が成り立たなくなる。
それはただのインチキでしかない。
インチキには誰も興味を持たなくなる。

ネットに寄せられたコメントでアチキが秀逸だと思ったコメントをもう一度紹介する。

井上尚弥の言ったことが全てなんだよな。井岡はタトゥーを認めてもらいたいのであれば、ルールを守った上で改正を訴えていくべきだった

プロのボクシング選挙ならば、ファンや観客を楽しませる意識が必要だ。
それがあってこそ“プロ”である。
もし、多くの観客が不快な思いをするならばやめるべきだ。

井岡選手が本当にタトゥーを入れたいならば、道は2つしかないはず。
一つは、JBCのルールを改革する努力をして、その後に自らタトゥーを入れる。
もう一つは、タトゥーを入れて試合ができる外国で試合をすること。

ルールを知っていてルールを破る事、ルールを変革する努力もしないで、文句ばかり垂れているのはただの「おこちゃま」ですよ!
プロボクサー、チャンピオンならば正々堂々とルールを守って戦いなさい!

最後までお読みいただき、ありがとうござりんした!


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