これまでの記事
【日本国憲法の源泉編①】~マッカーサー草案へのプレリュード(前奏曲)~
【日本国憲法の源泉編②】~マッカーサーの日本改造プログラムとは?(2)~
【日本国憲法の源泉編③】~日本国憲法の「原液」とは?~
【日本国憲法の源泉編④】~マッカーサー・ノートについて~
【日本国憲法の源泉編⑤】~密室の9日間(2月4日)~
【日本国憲法の源泉編⑥】~密室の9日間(2月5日・6日)~
【日本国憲法の源泉編⑦】~密室の9日間(2月7日~9日)~
密室の9日間(2月10日~12日)
《2月10日(7日目)》
〈日本政界を揺るがした公職追放該当者の発表〉
2月10日は、日本の政界が大揺れに揺れた。
前月の1月4日にマッカーサー元帥から指令を受けた日本政府が、この日閣議決定し、公職追放該当者の範囲を発表した。
対象範囲は、満州事変以降の日本を動かした人たちだった。
C項(極端なる国家主義団体、協力主義的団体、秘密愛国団体の有力分子)、D項(大政翼賛会、翼賛政治会、大日本政治界などの有力分子)が含まれていた。
この公職追放は、民政局の本来の任務だ。
2月4日から始まった憲法草案作成作業は、それ以外の作業を中止してのことだった。
〈明治の国家体制とは?〉
地方行政小委員会の第一稿は、運営委員会の物言いによって全面的に書き直しすることになった。
書籍『日本国憲法を生んだ密室の九日間』より引用
ティルトン少佐は、前にも述べたように、1945年10月に民政局にきてすぐ、地方行政について東京帝国大学の田中二郎教授をGHQに招いて熱心に学んでいる。
ティルトン少佐が学んだ東京帝国大学の田中二郎教授は極東の経済・行政の研究家で、日本の地方自治にある程度通じていた人物。
新たに憲法の草案を作るなら、直前の(改正前の)憲法を調べるはず。だが、明治憲法は、地方行政にはまったく触れられておらず、実務は内務官僚による中央集権体制によって行われた。
明治の世とは、欧米列強による植民地支配の毒牙から自国を守るために近代国家創りを急ぐ時代だった。
そのために最も適した政治体制こそが中央に権力を集中させて国内を統一的に動かす政治体制であった。ある意味では、この中央集権体制は諸刃の剣の面を備えている。善い方向または発展する方向に行けば善なる政治となるが、権力が集中しているということは、その権力を握った者たちが暴走すれば、抑えるための力(抑止力)がないため、暴走を止めることが困難であることが言える。この暴走こそが軍部の独走であることは、読者もお分かりかと思う。
〈憲法前文〉
日本国憲法の前文を担当したのはハッシー中佐ひとりだけ。
問題は、「前文」がいつ書かれたのか不明な点。
書籍『日本国憲法を生んだ密室の九日間』より引用
日本国憲法が日本人の手で書かれていないと極東委員会がのちに見破ったのも、私たちが今もって自国の憲法にバタ臭さを感じるのも、この前文に負うところが大きい。
この件で、セオドア・マクネリー教授はこう言っている。
書籍『日本国憲法を生んだ密室の九日間』より引用
前出の出典を追求すると、書き出しのスタイルはアメリカ合衆国憲法、典拠としたものは、リンカーンのゲッティスバーグの演説、テヘラン会議宣言、大西洋憲章、アメリカ独立宣言、国連憲章など。ハッシーもラウエルも文書には一家言持っていて、参謀役として司令官の演説の草稿などは書き慣れていました。しかし、いくつかの歴史的名文を参考にして、いかに世界に訴える文章を綴るかに心血を注いだのだと思いますよ。憲法を執筆するなんていうチャンスは、あだやおろそかに巡ってくるものではありませんから…。
確かに日本国憲法前文は、日本人的ではないことは間違いない。極東委員会も(後に)見事に見破っているということは、そこに西洋諸国の政治思想や政治的発言(名言)の影を見たと思われる。
「日本国憲法は日本人が作った」「日本国憲法は憲法研究会の草案が土台となった」と主張する人たちは、日本国憲法起草時に参考とされた資料をたったひとつ、つまり「憲法研究会の草案」しか出さない(言わない)。
近代国家において、憲法を起草する際に何らかの参考資料(憲法、宣言など)を使わなかった事例などほぼ無いだろう。通常は模範となる憲法等を視野に入れながら、当該国家に相応しく、かつその時代に合致した憲法を起草する。
ハッシー中佐が受け持った「前文」だけでも、アメリカ合衆国憲法、典拠としたものは、リンカーンのゲッティスバーグの演説、テヘラン会議宣言、大西洋憲章、アメリカ独立宣言、国連憲章など複数の参考資料を使っている。この構図は日本国憲法全体にも当てはまる。各小委員会のメンバーたちは、自分の思い描く政治的理想、国家像を他の憲法等から引っ張ってきながら、なおかつ独自性を入れ込んで執筆している。
っきりと言えば、憲法研究会の草案だけを土台として新しい憲法が創られると考える方が異常な思考と言える。
そんなわけないということ。
「日本国憲法は日本人が作った」「日本国憲法は憲法研究会の草案が土台となった」と主張する人たちの憲法論は、あまりにも無知過ぎる。
「前文」に関しては100%、ハッシー中佐一人の一貫した思想(発想)だとケーディス大佐が証言している。
だが、ケーディス大佐は憲法に前文を入れることを反対していた。しかし上官であるホイットニー准将が「あってもよいのではないか」と言ったので、ケーディス大佐の意見は却下され、前文が残ることとなった(GHQ草案に)。
ケーディス大佐は、前文は重要なものではないから、日本政府側に渡ってからカットされると予想していた。だが、ケーディス大佐の予想は大外れで、日本政府が修正してきた草案では、一文字も修正されていなかった。おそらくハッシー中佐が込めた平和への願いが日本人に届いたのではないかと考えられる。
ただし、最終的に現在の日本国憲法前文となるために何度も書き直しされている。
最初は、戦争放棄に関する文章が前文の後段にある世界への誓いを述べた部分の中に入っていた。
ハッシー中佐が精魂込めた前文には戦争放棄の条項が取り入れられているが、それがいつ挿入されたかは分かっていない。
〈戦争放棄条項〉
書籍『日本国憲法を生んだ密室の九日間』より引用
ケーディス大佐の発言
マッカーサー・ノートの原型から、〈日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる〉の部分をカットした時、その精神を全文に入れることを考えました。そして〈われらは、われらの安全と生存を、平和を愛する諸民族の公正と信義に委ねようとした〉という文言で、日本の立場をはっきりさせました。
戦争放棄の条項である「日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる」という内容を戦争放棄の条文からカットし、その替わり前文に入れたということ。
私が気になるのは、「今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる」という部分。これは明らかに国際連合を意味しており、戦争に関する事柄は国際組織の力によって解決しようとする理念が読み解ける。だが、現代に生きる日本人なら理解できるでしょうが、国際連合が侵略戦争、国際紛争などを解決したことなど皆無。はっきりと言えば、何の役にも立っていない。実に情けない限りだ。
独立国家の防衛と保護を国際組織に求めること自体が無理な話であり、不可能なことであることを現代人は知るべきでしょう。ここに潜む問題とは、独立国家の自然権であるところの自衛権を自国ではなく国際組織に委ねることによって、独立国家たる条件を満たさなくなるということが潜んでいること。
「安全と生存を、平和を愛する諸民族の公正と信義に委ねよう」という内容は、ただの絵に描いた餅であり、空想の産物でしかない。あまりにも理想過ぎる理想論と言える。
ケーディス大佐は理想家ではなく、現実を理解するタイプだと思われるが、この「戦争放棄」に関しては、マッカーサー・ノートの重力から逃れることは出来なかったと言える。
問題は、世界中の国家が平和を心底望み、侵略戦争を起こさず、侵略戦争とまで言えなくとも国家間の紛争も起こさない政治的または外交的努力をすればいいのだが、現実には軍事力の行使は歴史の常であり、それは現代でも変わりがない。なぜかと言えば、軍事力の行使は外交の延長線上にあるからだ。つまり、外交の失敗が戦争となるということ。
たとえ日本国が「平和を希求」しようとしても、他国が公正さや正義、平和を捨て去れば、自国の安全と国民の生存に危機が訪れることは必須。
こうした意味において、「前文」は、文章としては格調高く美しい世界を謳い上げているが、現実からかけ離れた理想的すぎる内容と言うことができ、それは空想レベルに近いと言うしかない。
〈日本国憲法はアメリカの政治思想を反映している〉
10日夜、書き上げられた草案がホイットニー民政局長からマッカーサーに上がっていった。
その経過までも報告されている。
書籍『日本国憲法を生んだ密室の九日間』より引用
一、日本国民のための憲法改正草案を提出いたします。
二、この草案は、民政局全体でよく検討した見解をあらわすもので、アメリカの政治思想のほとんどを反映しております。
上記の報告に重要な論点がある。ホイットニー民政局長からマッカーサー元帥に宛てられた報告書の内容を日本人は深く理解するべきだろう。
ホイットニー民政局長は、「この草案(GHQ草案)は、アメリカの政治思想のほとんどを反映している(おります)」と言っているのです。
これが意味することとは、「日本国憲法(この時点ではGHQ草案)とは、アメリカの政治思想によって起草されたものであり、日本人による日本的思想に基づく憲法(草案)ではない」ということ。
よって、日本国憲法は一部の修正を除いて、日本製ではなく、アメリカ製の憲法なのです。
この論点を知らずして、改憲、護憲の論争は不毛となる。
アメリカ製(一部の修正を除く)であるからこそ、「押し付け」と呼ばれているのです。
〈人権条項の「改正を禁ずる」を削除〉
ただ、非常に残念なことがある。
人権小委員会が強く主張した「第三章(人権条項)の改正を禁ずる」という条文が最終段階で削除されたことである。
これは将来的に日本人が日本国憲法を改正しようとしても、「人権条項」だけは永久の権利として削除したり制限を設けたりする改正を許さないということを意味していた。
人権小委員会のメンバーたちはそれほど人権を重要と考えていたということ。
どんな条項だったのかと言えば、
書籍『日本国憲法を生んだ密室の九日間』より引用
この憲法の後日の改正と、将来できる法律、法令は、すべての人に保障された平等と正義、権利を廃止したり、限界をもうけることはできない。
公共の福祉と民主主義、自由、正義はいかなることがあろうとも将来の法令によって侵されない。
今ある法律は、この基本のないものがあれば、すべて無効となる。
要するに、国民に保障される「人権」は、国家権力が制限を設けたり、廃止したり(奪ったり)することのできない“永久の権利”であり、憲法の下に位置する法律、法令等はこの理念(条項)に反するものは施行することはできず、過去制定された法律等は全て無効となり、将来に渡っても制定すること(改正すること)は出来ないと定めている。
これは徹底的に、国家権力から国民を守る盾であり、その理念がどこから来るのかと言えば「国民主権」を裏付けるもの。つまり、主権者である国民と国民から権力を委託された権力者の立場を明確にする意味付けが奥深くに存在している。
人権小委員会が情熱を注いだ「人権条項改正の禁止」の条文は削除されたが、この精神は現行憲法である日本国憲法の第97条に受け継がれている。
日本国憲法 第97条
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の結果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
この理念(憲法条文)に反することこそが「緊急事態条項(国会機能維持条項)」なのです。
いま、日本国において、国民の人権が奪われる危機が始まっているのです。
国家情報局の設立によって、国民(個人)のプライベート情報が国家権力によって監視され、自由や人権が奪われる憲法改正の動きが出ているのです。
国民は自分たちの権利を奪われ始めている現状を知るべきであり、抵抗するべきなのです。
自由と人権を奪うものとは、主権者である国民に対する叛逆者(裏切り者)なのです。この本質は独裁政権の誕生を意味するのです。
《2月11・12日(8・9日目)》
〈ケーディス大佐(?)とラウエル中佐との対立?〉
民政局内の草案作成作業は、10日で完全に終了し、マッカーサー元帥の承認を得るために必要な説明文を用意する作業に入った。
だが、地方行政に関する条項の完成は、11日の夕方までかかった。
その理由は、地方自治を強く主張するラウエル中佐と中央による統治に好意的なケーディス大佐の対立にあった。
とエラマン・メモにあるが、実はエラマン女史がケーディス大佐とハッシー中佐を取り違えてメモしてしまったと思われる。
事実、ケーディス大佐の証言では、「自分が中央集権に好意的であるはずがない」と語っている。
〈11日、GHQ草案全文が出揃う〉
書籍『日本国憲法を生んだ密室の九日間』より引用
ケーディス大佐が書いた地方行政条項には、地方のための法律を国会が制定する場合、地方自治体の有権者の過半数の同意が必要、という中央の強権を封じる文言が加えられた。
これで、11日の夕刻、地方行政を最後に、前文と全92条のGHQ草案が出揃った。
2月12日、ホイットニー准将も加わり、運営委員会は最終検討会を持った。そこで各小委員会によって書かれた起草分を各章ごとに再検討し、修正がなされた。
再検討の際に修正された内容とは、「反逆罪の条文が削除」されたり、「憲法制定時の公務員も憲法を擁護する義務を負うことを追加」されたり、「行政権が内閣総理大臣から内閣に属する」と変更するなど。
〈国家とは何か?〉
運営委員会の実質的な責任者であるケーディス大佐は現実主義者であることは知られているが、ハッシー中佐の理想的な文言を加えようとする姿勢に対して、現実的な反論をしている。その際のケーディス大佐の反論の一部を以下に示す。
書籍『日本国憲法を生んだ密室の九日間』より引用
すべての国民、すべての国家は、節度を守って行動し、他の国民や他の国家が持つ同様の権利を侵害しない限り、自らの道を進むという、侵されない権利を持っている。
たとえ世界国家というものが存在し得るとしても、それが、他の国、あるいは国民に対して干渉するという権利は持ちえないと思う。
各国家は、自分の運命を最終的決定者であって、もし国際協力の道を選ぼうとしたらその国が決めればよい。しかし、国の主権は、あくまでも国家自身の必要性に由来するものであって、他から由来するものではない。
実際問題として、政治道徳と主権とは、お互いに何の関り合いもないものだ。私としては、反対だよ。
上記のケーディス大佐の発言には、非常に重要な内容が含まれている。「国家とは何か」「国家の権利」「国家と国際組織の関係性」「憲法と道徳」などである。
すべての国民、すべての国家は、節度を守って行動し、他の国民や他の国家が持つ同様の権利を侵害しない限り、自らの道を進むという、侵されない権利を持っている。
これは個人でも同じ。一個人が節度や法律を守るならば、他人から個人が持つ権利や自由を制限されたり奪われたりすることはない。これを裏返すと、逆に他人の持つ権利や自由などに制限を加えたり奪ったりする権利は他人には無い、ということになる。
国家論が分かりづらかったならば、国家を個人に置き換えて考えれば、たいていの問題は理解できる(違う性質のものもある)。
「侵されない権利」、言い換えれば「侵してはいけない権利」の対象は独立国家に対する他の国家だけではなく、国際組織もその範疇にある。ズバリ言えば、国際連合および下部組織や関連機関のこと。
日本人の中でも「国連信仰」を持っている人間がいるが、それは間違いだと指摘しておく。独立国家と国際組織の関係については、ケーディス大佐の言葉の中に答えがある。
さらに踏み込んだことをケーディス大佐は語っている。
たとえ世界国家というものが存在し得るとしても、それが、他の国、あるいは国民に対して干渉するという権利は持ちえないと思う。
「世界国家」という言葉が出てくるが、これは各民族主体の独立国家の上位に位置する世界全体を統一する国家的権力と言える。ズバリ言うと、私がよく言っている「世界統一政府」のことに他ならない。
独立国家と国際組織の関係は、「国際組織(国連など)が上位である」などという間違った論理を主張したり、その間違った論理から政治政策を行う売国奴が政治の世界にも官僚の世界にも跋扈している。情けない限りだ。
ケーディス大佐が語ったように、「各国家は自らの運命に対する最終的決定者」であって、「国の主権は、あくまでも国家自身の必要性に由来するものであって、他国や国際組織から由来するものではない」のです。
(注:ここで言うところの「国の主権」とは、国内法としての主権ではなく、多国間または国際組織と国家の関係において使われるものであり、間違っても国内法秩序における主権は国家にあるなどという暴論ではない)
〈国家にとっての自衛権は、個人にとっての人権と同じ〉
ここで日本国に潜む問題とは、ズバリ指摘すると、戦後アメリカの属国となっていること。
属国と言うのは間接的な植民地に他ならず、国家の命運を主体的に決定できないものであり、国家自身の必要性、国民の必要性に由来するものによって国家運営ができないことに他ならない。
この偽保守である「拝米主義者」が日本の政界、言論界などに跋扈している。
その本質(正体)は売国奴に他ならない。たとえ本人が自覚していなくても。
この「独立国家自身の必要性から運命を引き出せない」ことの中にあるのが、「憲法9条」に他ならない。
ケーディス大佐は、「国家にとっての自衛権は、個人にとっての人権と同じ」だと主張している。私もまったく同感である。
このケーディス大佐の言葉に反する人間が、特に護憲派に多くいると思われる。
個人の人権や自由を守れと国家に対して主張するが(それ自体は当然の権利)、自国の自衛権を否定し、単純に戦争反対とだけ叫ぶ。これは国家を個人に置き替えればわかりやすい。
あなたが自宅で家族とともに過ごしていたとき、他人(外国人含む)が無断で侵入し、強盗や性的暴行、暴力を振るってきたならばどうするか?
当然、家族を守るために戦うでしょう。これが個人における自衛権(正当防衛の権利)です。
当然、国家は国民の生命と財産を守る使命と役割を担っているのですから、他国からの侵略等に対して自衛することが許されるのです。もし自衛しないならば、国民の命と財産が奪われてしまいます。国家が自衛するということは、すなわち国家を構成する国民を守るという意味なのです。これを理解しない人が、個人の人権は守れと要求するが、国家の自衛権を否定するのです。付け加えて言っておきますが、自衛権は他国を侵略する権利ではありません。自衛権とはあくまでも自国を守る権利なのです。
ただし、難しい論理を持ちだせば、自衛権にも個別的自衛権と集団的自衛権があるとされています。
ここからが日本国民にとって重要な話です。
日本国が属国であるということは、自国の運命を決定する最終者ではないということであり、他国に従属していることであり、正しい意味での自衛権を持っていないことになります。
最も重要な論点は、「政治権力を誰が持っているのか」という点につきます。
正しい本来の国家のあり方を描こうとしているのか、属国としての国家のあり方を描こうとしているのか、という権力の座に位置する人物たちのことです。
前者ならば、真摯に国民の生活を第一に考えて政策を実行し、国民に奉仕する政治を行うでしょう。決して国民の自由や人権を奪う政治は行わないでしょう。ですが後者の場合、国民の生活よりも他国からの要求、背後にいる政治勢力の政策を実現することを最優先して政治を行います。その結果、国民は置き去りになり、徐々に自由と人権が奪われていきます。当然、国民の声など聴こうとしません。むしろ世論誘導によって国民の意思をミスリードしていきます。
さぁ、あなたが日本人ならば、いまの日本がどうなっているのか考えてみてください。
〈政治道徳と現実の論争〉
話しを戻すと、政治道徳と現実の論争をホイットニー准将が引き取り、以下の条項を草案に記すことになった。
書籍『日本国憲法を生んだ密室の九日間』より引用
われらは、いずれの国民も自己にたいしてのみ責任を負うものではなく、政治道徳の法則は普遍的なものであり、このような法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国との対等関係に立とうとする各国民の責務であると考える。
ホイットニー准将が書いた条文は、日本政府側に渡ってからもほとんど修正されずに、現行憲法の前文の後半に生きている。上記の文と日本国憲法前文(後半部分)を比較して見てください。
日本国憲法前文一部抜粋
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
〈日本国憲法草案の完成〉
最終的にGHQ草案が完成したのは12日の夜。
出来上がった草案をタイプ・アップしたのは、憲法草案作成チームの秘書であるシャイラ・ヘイズ。シャイラはホイットニー准将の秘書だったため、大役を任されたが、ペアテ女史によれば、人権グループの秘書役でもあったエドナ・ファーガスンと手分けしたとされる。
その時の上申書のタイトルは、『Proposed Constitution for Japan(日本国憲法草案)』となっていた。
この12日の文書には、憲法草案にかかわったメンバーのサインがついている。想像だが、“誇らしく”思ってサインしたことだろう。
なお、この後、マッカーサー元帥によって人権条項がカット(削除)された。それは運営委員会の考えと一致していた。
現代に生きる国民の一人としては、人権条項はカットせずにそのまま残して欲しかった。
もう一つ、この日決定したことがあった。
日本側との会議が翌日(13日)の午前10時に外務大臣官邸で行われることが決定した。
【日本国憲法の源泉編⑨】につづく
参考書籍
書籍名:『日本国憲法を生んだ密室の九日間』
著者名:鈴木昭典
出版社:創元社
書籍名:『日本国憲法の誕生』
著者名:古関彰一
出版社:岩波書店
書籍名:『知られざる日本国憲法の正体』
著者名:吉本貞昭
出版社:ハート出版
最後までお読みいただき、ありがとうござりんした!