『“保守の憲法論”最終結論【自民党憲法改正草案編⑪】~戦争の放棄条項(9条)について~』

【自民党憲法改正草案編⑪】
戦争の放棄条項(9条)について

これまでの記事

【自民党憲法改正草案編①】~自民党憲法改正草案は国民家畜化の暗黒な未来に向かうもの!~
【自民党憲法改正草案編②】~憲法とは何か?~
【自民党憲法改正草案編③】~憲法を守らない権力者とは独裁者~
【自民党憲法改正草案編④】~自民党憲法改正草案の“真の狙い(目的)”は主権者を「国民」から「政権」に変更する革命に他ならない!~
【自民党憲法改正草案編⑤】~自民党憲法改正草案は自由と人権の破壊に他ならない!~
【自民党憲法改正草案編⑥】~「前文」「天皇」「国民の権利と義務」について~
【自民党憲法改正草案編⑦】~「改正草案第12条」「家族・新しい権利」について~
【自民党憲法改正草案編⑧】~「公務員の選定」「環境保全の責務」「財産権」「国会」「内閣」「地方自治」について~
【自民党憲法改正草案編⑨】~緊急事態条項(国会維持機能条項)の追加は独裁政権の誕生を意味する!(前半)~
【自民党憲法改正草案編⑩】~緊急事態条項(国会維持機能条項)の追加は独裁政権の誕生を意味する!(後半)~

憲法9条について

《憲法9条について》

〈9条の精神とは?〉

改憲派の重鎮と呼ばれている小林節氏の憲法9条の考えは、より明確に9条の精神を打ち出すというもの。

まず、9条の平和主義は維持します。そのうえで、個別的自衛権を保持していることを明記する。

護憲派の方々は、なにがなんでも9条を守れと主張する。「9条信仰」が出来上がっている人が多くいる。その心情はほとんど「信仰」のレベルにある。

憲法は国家を超えることはできず、国家は国家であるために最高法規として憲法を規定する。
憲法が何のためにあるのかと言えば、民主主義国家であれば主権者である国民の幸福追求権を保護するためにある。国土とは主権者である国民が生きるための物理的空間であり、政府とは主権者である国民の代理として統治権を行使するものである。その秩序を生み出すものこそが憲法である。
しかし、憲法とは自国の国内を縛る法秩序であり、他国を規制するものではない。
日本国民、特に護憲派が理解しなければならないことは、国際社会には公正な第三者としての警察も存在せず、適用される刑法も存在しないことだ。
国際法があるじゃないか、という方がいるでしょう。国際法の正体とは「条約」や「国際慣習」などであり、明確で“最終的に”各主権国家を規制する力を有してはいない。条約は破棄すればよく、国際組織からは脱退(脱会)すればいいだけであり、独立国家を最終的に規制することはできない。よって、日本以外の国家においての国際法とは、自国優先の論理によって扱われる。つまり、自国にとって有利なら利用し、自国にとって邪魔なら無視するということ。

日本の中に大きな勘違いをしている人が多くいるが、国連とは国際警察でも国際統治機構でもない。戦争に関して言えば、国連は何に役にも立っていないということが現実である。なぜか、国連とは“闇の世界権力者”たちが作った国際組織だからだ。各主権国家が独自性を破壊され、全体主義になっていく先に、国連による主権国家の廃止が待っていて、最終地点で地球統一政府が樹立される。

何が言いたいのかと言えば、戦争や紛争を自国の平和主義だけで解決することは不可能だということ。なぜならば、自国には自国の主権があるように、他国には他国の主権(独立性)があるからだ。こちらの思う通りに他国が対処するかという保証はどこにもない。

要するに、「戦争反対」「平和な国家」というものを考えるに当たっては2つの論点があるということになる。1つは、自国の平和主義であり、2つ目が他国からの侵略、武力衝突からいかに防衛するか、ということ。

護憲派の方は1つ目に頂点を当て、改憲派は2つ目に焦点を当てて考える。だが、この論点は2つがあいまって両輪としなければ機能しない。
肝心なことは、自国内には平和主義で戦争をしない国家とすることができたとしても、それだけでは他国の侵略主義から防衛することは出来ないということ。
ここに独立国が軍隊を保持する理由が出現する。
正しく国家論を紐解けば、軍隊がないこと、憲法で戦争放棄を打ち出していることだけで、戦争を防ぐことは不可能である。

では、日本が戦後、他国との戦争をしてこなかったのはなぜか?
護憲派は9条の戦争放棄をあげる。だが、その一面はあると私も認めるが、現実には日本に世界最強の米軍が駐留しているからということが答えになる。つまり、米軍という軍事力が他国の侵略の盾となっていたということ。もちろん米軍の戦争に巻き込まれなかったのは9条のおかげである。
仮に、日本に米軍が存在せずに、9条だけがあり、自衛隊がなかったならば、とっくの昔に日本は中国の侵略を受けて消滅していただろう。

もう一度言う。
「戦争をしない国家」=「平和を維持する国家」というものを考えるなら、国内事情と国際防衛の2つの観点から導きださなければならない。

私は9条に「日本が攻撃された場合には、自衛のために個別的自衛権を行使する」と書き込むことを主張しています。

上記の小林節氏発言は、2つ目の論点から導き出されたものです。しかし、この論点を護憲派は決して認めない。護憲派の主張とは国内事情で完結している。それは物事の反面しか見ていないといえる。
ただし、自民党の改正草案は、私が考えている「平和国家の保持」とはまるで違う。
事実、2025年に自衛隊は米軍の統合作戦司令部の指揮下に入っている。これは現憲法に明確に反すること。ウクライナ支援、武器輸出、NATOへの協力など明確に憲法違反を繰り返している。自民党はこうしたことを国民に知らせず、説明もせず、許しも得ず、密かに行っている。片棒を担ぐメディアは一切こうした国家にとっての重要事項を報道しない。というよりも国民に知らせないようにしているというしかない。
国民の生命と財産に関する重要事項が主権者であるはずの国民を排除して事が進められている。これらの動きは明らかに全体主義または独裁主義でしかない。絶対に民主主義とは呼べないものだ。

〈国民に信を問うべき事案とは?〉

自民党が9条の改正をするならば、明確に“国民に信を問う”事項がある。それが徴兵制だ。

9条改憲を叫ぶなら、正面から議論の俎上に乗せなくてはならないことがある。それは、徴兵制の議論です。

民主主義制度を簡単に言ってしまうと、「議論にかけて決する」という制度であり、その議論の中に主権者である国民が入るのは当然の論理である。よって、主権者である国民に議論となる内容の「信を問う」必要がある。
憲法改正の場合、法律とは違って、国民から選ばれた国会議員だけでの議論だけではダメなのです。先に国民の間で議論する必要があるということです。つまり、憲法改正、特に戦争に関する条項を改正する際には、議論は2段階構成としなければならないのです。最初に各国民が考え、国民間で議論した後で、その総意を受けて国家権力側が議論をする。この流れで行かなければ民主主義ではないのです。
徴兵制の問題とは、国民の生命、財産、家族に直接つながる問題ですから、「国民に信を問う」ことは絶対に必要なものです。
もし、国民に信を問わず(無視する)、国家権力側が勝手に進めるならば、もはやそれ自体が民主主義国家への背信行為であり、全体主義国家の誕生(一部)と呼ぶべきものなのです。
国民投票とは、最終的な回答(決断の行使)であり、それ以前に国民に信を問う必要があるのです。
しかし、民主主義の落し穴がここにある。
徴兵制などのような問題においては、国民は反対する。だが、国家としては推し進めたいと考える政治勢力が出現することがある。相反する答えをどう結論付けるのか?
この結末は、権力者側が国民の民意(総意)を無視してことを進めることになる。
このように民主主義制度とは、実は欠点が多い政治制度であり、悪用される制度でもある。
ただし、国民が総決起して立ち上がれば、国家権力といえども断行することは出来ない。
それがわかっているからこそ、重要情報、真実情報を普段から国民に与えず、なおかつ政治に無関心にして愚民化している。国民の大多数が政治に無関心となった国家とは、もはや民主主義国家ではなくなるのだ。

民主主義制度とは、問題提起から始まり、議論にかけ、最終的に答えを出す制度です。当然時間はかかりますが、それによって国民の自由や人権を保護する意味と国民の生命を国家権力側から奪われないようにする意味が含まれているのです。
戦争をするときの国家体制は全体主義または独裁主義となります。この場合の全体主義または独裁主義とは、建前上民主主義と言いながら、国民の総意は無視され、国家権力側が身勝手に事を進めることです。
国家が戦争をする際には、時間のかかる民主主義制度は邪魔以外の何ものでもなく、戦争をするためには権力を国家機能に集中させ時間をかけずに物事を決していかねばならないのです。ですから、正しく民主主義制度を機能させることができれば、それ自体が戦争を防止する機能となるのです。
よほどの変人でなければ、国民個人が戦争を求めることはないのです。ですから正しく民主主義の精神が発揮されていれば、戦争は起こせないのです。

《自民党の憲法改正の本命こそが9条》

自民党が目指す改憲の本命は、第九条を変えて国防軍を持ち、武力を行使できるようにすることにあります。しかし、九条の改正は国民のなかに抵抗が強く、実現は容易ではありません。そこで自民党は、本格的な改憲に先立ち、各党の理解を得やすい条項を加えて改憲の前例をつくり、野党や国民がもつ心理的抵抗を取り除いてから、九条改憲へと進む動きを見せています。「合意を得やすい」条文を選定し、改憲に対する安心感をもたせてから本丸の改憲に進む、「お試し改憲」といわれる戦略です。

〈自民党の憲法改正で力点を置いていることとは?〉

上記の伊藤真氏が語っている内容と同じ判断を私もしている。
その根拠は、条文全体にみられる「矛盾」が暗黙のうちに説明していることでわかる。
つまり、護憲派を取り込むために、現行憲法の条文の一部を利用し、それとは逆の意味となる条文を加えることで、護憲派の抵抗力を削ごうとしている。
私は、自民党の憲法改正草案を「全体主義憲法」だと指摘したが、全体主義憲法としては中途半端もいいところであり、この改正で終るわけがないとみている。
今回の改正において、国民全体及び護憲派の抵抗心を如何に削ぐかという点に力点を置いており、とても完成系の憲法草案とは言えない。
おそらく段階的に改正をするはずだ。
その途中で、国民の抵抗力を削ぐだけではなく、国民の権利を取りあげる法律が制定され、本丸の憲法改正の際には、抵抗するすべなく改正されてしまうだろう。
この恐ろしい事態を知らず、気づかず、国民のほとんどが自分の生活だけに浸っている現実こそが、愚民状態であり、愚民化された国民はもはや民主主義国家の主権者たる資格を持ち合わせていないものであり、国家権力に自ら主権を譲っているに等しい。
こうしたことを国民が気づかなければならない。
自分たちを守れるのは、自分たちしかいないことに気づくべきだ。

戦争の放棄について

《戦争の放棄》

日本国憲法の特徴の一つである「戦争放棄の条項(9条)」は、大幅に改正されています。

自民党の憲法改正草案
第一章 安全保障
(平和主義)
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。

(国防軍)
第九条の二 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。
2 国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
3 国防軍は、第一項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。
4 前二項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める。
5 国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保障されなければならない。

(領土等の安全)
第九条の三 国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。

比較のために現憲法(日本国憲法)を以下に記す。

日本国憲法
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。

〈自民党憲法改正草案「9条」における重大な論点とは?〉

まず言えることは、これは憲法の条文ではない。法律まがいの文章である。執筆者の知性を疑う。
上記条文の内容の指摘に先立ち、隠された重大な論点を指摘する。
自民党の憲法改正草案の中に「法律の定めるところにより」という文章が多用されている。この意味を国民は正しく理解しなければならない。本来、憲法条文は趣旨を簡潔に記すもの。
法律のように詳しく具体的な内容を列記することを多用するものではない。根本的な原理原則を示すもの。逆に言うと根本的な原理原則を示さずに「法律の定めるところにより」とした場合、国民は具体的な内容を知ることができない。つまり、憲法秩序における“知る権利”が侵害されている状況と同等となる。「法律の定めるところにより」という表現は出来るだけ使用せず、原理原則を示し、趣旨を明らかにするべきである。
国民は、具体的な内容を知らずに憲法改正の国民投票をすることはできない。
これは国民から肝心な部分を秘匿する手法であり、悪質、卑劣なやり方でしかない。

国民の皆さんに訊く。
法律を作るのは誰ですか?
お分かりですね。「法律の定めるところにより」というのは憲法条文を読んだだけでは何があるのか分からないだけではなく、法律を作る国家権力者たちが“思うように出来る”ということを意味する。
私が正しい解釈を記す。
「法律の定めるところにより」という文言は「国家権力が定めることに従ってもらう」という意味である。
おわかりでしょうか?
これは憲法の存在意義である、国家権力を縛る鎖が破壊されていることであり、逆に国民を国家権力に従わせる憲法となっているということ。
こんな横暴で危険な改正を、決して認めてはなりません。

〈条文の分析〉

具体的な条文の分析に入る。
現行憲法の9条はいろいろと解釈されているが、素直に読めば、「国権の発動たる戦争を永久にこれを放棄する」、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」、「国の交戦権はこれを認めない」というのだから自衛権さえ否定され、そのために軍事力を保持せず、国家の交戦権(戦争をする権利)も否定している。完全なる戦争の廃止または放棄となっている。
しかし、日本国憲法が出来た後になって、朝鮮戦争が始まったために、GHQは方針転換をして自衛隊の前身である警察予備隊を設立した。これが現代までつながる混乱を生んだ。

自民党の憲法改正草案全体に言えることだが、相矛盾する文言が併記することが多発している。
改正草案の1項では、「国権の発動としての戦争を放棄し」と国家の自然権である戦争を放棄するといいつつ、2項で自衛権を認めている(自衛戦争を認めている)。
これは矛盾する表現でしかない。なぜならば「国権の発動としての戦争」の中には、自衛戦争も含まれるからだ。
つまり、「国権の発動としての戦争」には戦争あるいは武力衝突等などの軍事力を用いた国の権限がすべてその意味の中にある。要するに1項で「国権の発動としての戦争を放棄し」とするならば、それにつづく2項は、1項を裏付ける条文または1項の内容に続く条文がこなければならない。しかし、自民党の憲法改正草案では1項と2項に矛盾がある。もし、自衛権を認める条文に改正するならば、1項でそれに合致した条文にしなければならない。それをせずに2項を丸々入れ替えているところにおかしさがある。

そもそも9条のタイトルは「戦争の放棄」である。そのタイトルを「安全保障」というタイトルに変えた。タイトルとは内容を一言で表わすラベルの役割を果たすものであり、一言で内容を示すもの。であるからタイトルを「戦争の放棄」から「安全保障」に変えるということは、そこにこそ“狙い(意味)”があると言える。
この隠された意味は、日本国が自衛権を公式に認め、戦争の出来る国家へと変貌することに他ならない。
小タイトルに「平和主義」とつけているが、現憲法が示す「平和主義」とはまったく別物なのです。

「戦争の放棄」から「安全保障」へタイトルを変える意味は、草案の内容から見ると明確です。個別的・集団的を問わず無限定の自衛権を認め(草案九条2項)、国防軍が明記され(素案九条の二、1項)、さらに交戦権を否認した条項(現行第2項)は削除されています。つまり、現行憲法が前文で規定し、国際社会の潮流である人間の安全保障を無視して、国家の安全保障を前面に打ち出したということです。

現行憲法の9条が掲げる平和主義とは、「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」です。自民党の改正草案では、この3つの平和主義が骨抜きになっている。
改正にあたって何を削除し、どこを修正し、何を追加するのかということに、改正を求める側の意図や狙いがあるのです。
自民党の改正草案では、「戦力の不保持」「交戦権の否認」が削除されました。ということは戦力を持つぞ、交戦権を行使するぞ、と言っているのです。
では戦争を放棄するのかと言えば、実質的に第九条の二、3項によって否定されています。
第九条の二、3項では、「(法律の定めるところにより)国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し」とあるので同盟国と協調する、国際社会の正義のために協力するということが実質的に可能と“解釈”できる条文となっています。

つまり、「国際社会の平和と安全」を目的とするならば、軍事活動が可能となる改正になっているということ。伊藤真氏が指摘するように。個別的・集団的を問わず無限定の軍事活動ができる内容へと改正しているということです。これは自衛権の拡大解釈であり、本来自衛権の行使とは呼べなくても集団的自衛であると身勝手に解釈してしまえば、外国への派兵も軍事参加も可能となる条文となっているということです。つまり、敵国から日本が攻められていないにもかかわらず、日本の領土以外で自衛隊が活動することが可能となる改正にしようとしているのです。自衛権の発動を無制限に認める内容となっているのです。
これは現実に憲法の内容を合わせる改正に他なりません。
現行憲法9条で否定されている軍事力(自衛隊)が存在し、武器を輸出し、海外に派兵している現状(現実)に合わせようとしているということであり、その先に外国の軍隊とともに軍事行動を取れるようにするための改正に他なりません。
そうではなく、憲法とはあるべき姿(国家権力を管理する)から定めるものです。
現実に合わせて憲法を改正していたならば、憲法は最高法規でもなんでもなく、法律レベルにその存在意義が落とされることを意味してしまいます。

国民が理解しなければならないことは、「自衛権」とは、個別的自衛権を指すのであって、集団的自衛権という言い方は実質的に戦争が可能となるものであるということです。ですから「(集団的)自衛権」という言葉に騙されてはいけないのです。
それは“自衛を装った戦争”に他ならないからです。
自衛権とは、あくまでも領土と国民の生命・財産等を守るために発動するものであって、“他国のために”海外に出て活動するものではありません。

9条の問題は、国民の生命と緊密に結びついています。ですから、自民党が憲法を改正しようとするならば、最低でも1年以上の期間をかけて国民の間で論議することが必須です。
国民が「戦争」についてどのように考えているのか、自民党の9条改正をどのように受けて止めているのかを国民全体が考えずに、憲法改正の作業に入ることは、憲法違反(99条違反)でしかありません。

さらに懸念する条文が(領土等の安全)第九条の三でしょう。
「国は、主権と独立を守るため、国民と協力して」とあるように、国民は領土、領海及び領空を守るために「協力し」、「資源を確保」しなければならないのですから、まったく戦前の状態に戻るわけです。この「協力し」という文言こそが姑息な罠です。協力という語彙の本来の意味では協力する側の自由意思によって、ということになりますが、自民党の改正草案では、「国民が領土等の保全」を実質的に「行わなければならない」ことになります。
決して、「私は協力しない」「俺は協力するつもりはない」と拒否できないでしょう。
問題は、先にも書きましたが、この憲法条文をもとにして法律が作られる恐れがあることです。もちろん戦争をするための法律です。そう「徴兵制」が一番強く懸念されます。

詐欺師が語彙の言い換え、表現のすり替えで騙すように、自民党も国民が騙されるような語彙を使い、最低限反対の意思を持たないように玉虫色にして、改正草案を通そうとしています。

自民党の改正草案が「国家主権」であることは明白です。

国防軍の役割として、草案は「国及び国民の安全を確保するため」としていますが、国民よりも国を先に置くという表現から、国民よりも国そのものを守ることを重視する姿勢を垣間見ることができます。
改正理由に、「独立国家であれば軍隊を保有するのは世界の常識である」とされていますが、「軍隊は国家を守るものであり、国民を守るものではない」ことこそ、世界の常識であると言えます。

ここにも表記の騙しがあります。
国と国民を併記する際に、どちらを先に書くかということで、その優先順位が透けて見えるのです。
自民党の改正草案全体が国家主権を生み出す国家体制への変貌させるものであり、同時に国民主権の強奪に他なりません。
「独立国家であれば軍隊を保有するのは世界の常識である」、確かにそうです。
伊藤真氏は、「軍隊は国家を守るものであり、国民を守るものではない」と言っていますが、問題は「国家を守る」の国家が何を意味するのかということです。国家を守るという意味の本質とは国民を守ることにあります。なぜならば、国民が存在しなければ、国家そのものが存在できないからです。領土領海領空は国民が生存する空間を維持するために存在するのです。
しかし、戦争の実態は、伊藤真氏が指摘しているように、国民の命を軽視し、国家の維持を最優先することであることは間違いないでしょう。
自民党の改正草案9条の趣旨は、「領土領海領空=国家権力」を守ることにあることは明白です。領土領海領空は国民のために存在が許されるものであるという一点を忘れ去れば、国家が国民のためにあるという意味から、国民より国家が優先されるという全体主義が顔をだすことになるのです。

まだ懸念はあります。

また、「公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動」とは、国内において暴動や内乱が起きたときに事態を収拾する任務、いわゆる治安出動を憲法が認めるということなのです。これはつまり、国策に合わない国民によるデモ行進や集会などに対し、国防軍が治安維持の名の下に軍事的制圧をすることが可能となるということなのです。

自民党の改正草案で常套手段としているのが、先ほど出てきた「法律の定めるところにより」ですが、もう一つが「公益または公の秩序」なのです。この表現を法の秩序として明記するとどうなるかと言えば、全体主義が発生するのです。つまり、国民と国家との関係性において国家が上位に位置するようになるのです。なぜならば、立法をしているのが国会議員だからであり、公益とは国家の利益だからです。
こうした表現は「きれいごと」であり「誰も否定しづらい」表現であるため、抵抗力を削ぐ効果を発揮するのです。一種の騙し戦術なのです。

〈自民党の憲法論とは?〉

草案九条の二、第2項で、国防軍の統制を「法律の定めるところにより」とすることは、多数派の政権与党の意向が大きく働く余地があることを意味し、憲法による統制になっていません。
また、「国会の承認」以外に「その他の統制」を認めている点は、文民統制(シビリアン・コントロール=非軍人の政治家が軍隊を統制し、政治が軍人に優先する基本方針)が徹底されていません。たとえば、法律で定めさえすれば、内閣総理大臣が単独で判断し、国会の承認が事後でもよいことにもできてしまいます。文民統制といっても、民主的コントロールが希薄なものになるおそれがあります。

伊藤真氏は「憲法による統制になっていない」と指摘しているが、それはそのはず。自民党は憲法を最高秩序と定め、憲法の下で政治を行うという考え方をしていないからです。自民党の憲法論は、「政治家の思うように国家運営をするための武器」なのです。

故安倍晋三氏は、2014年2月3日にこう言っている。
「憲法が権力を縛るためのものだったのは王制の時代。その考え方は古い。今われわれが改正しようとしている憲法は、国家権力を縛るためだけではなく、私たちの理想や国のありかた、未来について語るものにしていきたい」
(出典は『高市早苗という病』)

「憲法が権力を縛るためのものだったのは王制の時代」???
安倍氏は何を言っている(いた)のでしょうか?
王制とは、王が絶大な権力を持ち、人々を統治できる国家体制であり、王が国家の最高法規となる体制のこと。
だが、善なる王が統治するとは限らないどころか、悪政を敷く王が多く登場する。そのたびに民は重税、兵役などに苦しみ搾取され続けてきた。こうしたことを覆すためにこそ近代になって憲法が登場した。
女安倍晋三である高市早苗氏が安倍氏と同じことを言っていることに国民は戦慄を感じるでしょう。

「憲法は、国家権力を縛るためだけではなく」と語っているが、実質的に自民党の草案は主権者を国民から国家権力に入れ替える内容となっている。よってこの言葉は詭弁以外の何ものでもない。その後に続く「私たちの理想や国のありかた、未来について語るものにしていきたい」という部分こそが本音である。このように国民に対して本音(真なる狙い)をカモフラージュする手法をつかって、目的を達成しようとしている。この手法は統一教会の常套手段である「目的のためには手段を選ばない」である。
一度、憲法改正を行って実質的な主権者となった後に、さらなる憲法改正が待ち受けていると予測できる。

国民主権の国において、国家の重要な情報は主権者である国民のものです。本条項は、国家による情報統制を可能とし、国民主権を大きく後退させる恐れがあると言えます。

国民にとって深く関係することが、「軍事機密に関する事件に関与している一般人(国民)」も広く対象になることです。もし、軍事機密に関する裁判において、機密を保持したままで裁判が行われれば、公開裁判の原則や裁判を受ける権利に反すると考えられる。

草案第二章によって、日本はアメリカとともに、普通に戦争ができる国になります。

自民党の憲法改正の大きな目的(狙い)の一つが、「戦争ができる国家への変貌」であることは間違いないでしょう。この場合の戦争とは、自衛戦争ではなく、集団的自衛権を含む、海外派兵をする戦争です。重要な問題は、日本はアメリカと軍事同盟を結んでいて、アメリカは世界中のあちらことらで戦争や武力介入をする国家であるということです。
つまり、アメリカの要請ひとつで日本国防軍が戦争や武力介入等に参加するように変ってしまうということです。
これに対して一番強く反発するのは、当然ながら中国でしょう。この憲法改正によって日中関係は緊迫したものになることは目に見えています。これは遠回しに日中戦争の原因を作り出すことと同じです。
すでにシナリオはとっくの昔に出来上がっているのです。

9条に関する2012年草案と2018年改正案の比較

《2012年草案9条と2018年改正案9条の比較》

2012年の全文改正草案と2018年のたたき台素案における第9条を比較します。

2012年改正草案では、第9条(戦争の放棄)の章名を「安全保障」に変更し、戦争放棄条項を残しつつも自衛権を明記し、「国防軍」を明記し、なおかつ「自衛権の発動を妨げるものではない」と明記した。また「戦力不保持」と「交戦権否認」の2項を削除した。
「国防軍」の任務に“国際的活動”及び“公の秩序維持”を含ませた。
軍事裁判所(国防軍審判所)も規定した。

2018年たたき台素案では、現行憲法第9条(戦争の放棄)の1項2項を維持したまま、自衛隊を明記(国防軍の表現はない)し、新たに「第9条の2」を追加した。
最高指揮監督者を内閣総理大臣とし、自衛隊の行動は国会の承認その他の統制に服するとした。
「国防軍」という表現は使っていない。

主な相違点としては、2012年では「国防軍」創設に加え2項を削除する全面的な書き換えとなっているが、2018年は現行規定を残したまま自衛隊を明記する現実的な改正にとどめている。

問題なのは、2018年たたき台素案で、現行憲法第9条(戦争の放棄)の1項2項を維持したまま自衛隊を明記しようとすること。
「戦争放棄条項」または「平和条項」としては、現行憲法第9条(戦争の放棄)の1項2項で完結している。9条の条文を素直に読めば、国際紛争を解決する手段としての「国権の発動たる戦争」「武力による威嚇又は武力の行使」を永久に放棄し、そのために「軍隊(戦力)は保持せず」、「国の交戦権も認めない」というのだから、集団的自衛権だけではなく、個別的自衛権さえも放棄している条文となっている。
これはもともとマッカーサー・ノートをもとにしていることが原因である。
現行憲法第9条(戦争の放棄)の1項2項を維持したまま、自衛隊を明記するということは、矛盾以外のなにものでもない。
もし、自衛権の行使を明記するならば、現行憲法第9条を修正しなければならない。
詭弁とさえも言えず、明白な“騙し”と言うしかない。
自民党の頭みそは悩乱しているとしか言えない。

そもそもこれまで自民党の9条解釈では現行憲法では「個別的自衛権の行使は認めている(合憲)」と“解釈”してきたはず。なぜ改正する必要がある?
集団的自衛権を行使するならば、現行憲法9条は修正又は削除(部分的削除含む)する必要がある。
「国権の発動たる戦争を放棄」「武力による威嚇又は武力の行使を放棄」「軍隊(戦力)は保持せず」「国の交戦権も認めない」という戦争放棄の条文を残したまま「自衛隊を明記する」ことは、まともな脳みその持ち主なら絶対に考えつかないこと。
これを詐術という。

これは護憲派の反対を抑えるために、現行憲法は残しますよとしているだけです。結論と隠れた思考は「戦争ができる国家への変貌」に他ならなない。
ただし、“本来は”「戦争ができる国家への変貌」とは、独立国家としての自然権であり、国家を守るための自衛権である。どこの国でも、侵略戦争を可とする法秩序など制定するはずがない。

憲法改正をするというならば、“戦争に関する区別”をはっきりとさせ、誤解や解釈によって論争又は違憲状態が起こらないように明確に条文化するべきです。
区別とは、正式な軍隊(現自衛隊)として憲法に明記するのか、しないのか。
軍隊の軍事範囲は、自衛権の発動に限られるのか(個別的自衛権)、同盟軍や国際組織等と共同作戦を可能とするのか(集団的自衛権)。
自民党は2012年の改正草案で、「違憲論争に終止符を打つ」ことを改正理由にしたはず。
だが、現行憲法の9条を維持しながら、自衛隊を明記することは最強の矛と最強の盾を並べ立てることに他ならない。呆れてものが言えない(言ってますが)。

根源的で最も重要な論点を指摘する。
問題の根源は、「誰が権力を握るのか」「誰が国家のかじ取りをするのか」ということに尽きる。

日本国憲法第9条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。。国の交戦権はこれを認めない。

【自民党憲法改正草案編⑫】につづく

参考書籍

書籍名:『「憲法改正」の真実』
著者名:樋口陽一、小林節
出版社:集英社新書

書籍名:『【決定版】白熱抗議!憲法改正』
著者名:小林節
出版社:ワニ文庫

書籍名:『赤ペンチェック 自民党憲法改正草案』
著者名: 伊藤真
出版社: 大月書店

書籍名:『高市早苗という病』
著者名: 適菜収
出版社: ベスト新書

最後までお読みいただき、ありがとうござりんした!


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